【黙示録19章10節】イエスの証しは預言の霊です

再臨を待つ

黙示録19:10
私は御使いの足もとにひれ伏して、礼拝しようとした。すると、御使いは私に言った。「いけません。私はあなたや、イエスの証しを堅く保っている、あなたの兄弟たちと同じしもべです。神を礼拝しなさい。イエスの証しは預言の霊なのです。」

いけませんと御使いは言いました

さて、今回は黙示録19章10節だけを取り上げて考えていきたいと思います。

黙示録の本論からは少し離れてしまいますが、とても重要なことなので一緒に学んでいきましょう。

黙示録19:10
私は御使いの足もとにひれ伏して、礼拝しようとした。すると、御使いは私に言った。「いけません。私はあなたや、イエスの証しを堅く保っている、あなたの兄弟たちと同じしもべです。神を礼拝しなさい。イエスの証しは預言の霊なのです。」

使徒ヨハネは、大バビロンがさばかれる幻を見ました。そして、続けて「子羊の婚宴」の幻を見たのです。

これは、ヨハネの知性の範囲を超えたことでした。理解することもできない偉大な光景を見続けるヨハネの精神を想像してみてください。

しかも、今、目の前には栄光に輝く御使いがいるのです。その声は、ヨハネの身体の奥に響き渡るようでした。

おそらく、衝動的な行為であっただろうと思うのです。ヨハネは「思わず」ひれ伏してしまったのではないでしょうか。しかし、それは「膝から崩れ落ちて倒れ込んだ」というようなことではありません。ヨハネが「自らの意志で」ひれ伏したことは明らかです。彼は「礼拝しようとした」のです。

御使いはすぐに「いけません」と言いました。

「いけません」とは、ギリシャ語では「Ὅρα μή(オラ・メー)」です。直訳すると「「気をつけよ、〜するな」ですが、強い制止を表わす決まり文句のようです。ここでは「いけない、やめよ」という感じになるでしょうか。御使いの焦りや必死さが表れているように思います。

私は、この出来事が黙示録に記されていることには大きな意味があると感じています。これは、終わりの日を生かされている私たちへの警告であると思うのです。

なぜ、使徒ヨハネともあろう人が、御使いを礼拝しようとしてしまったのでしょうか。

この件については諸説ありますが、代表的な意見は3つです。

一つ目は、圧倒的な感動、畏怖の心、素晴らしさのあまり思わずひれ伏したという解釈です。子羊の婚宴の説明不可能な素晴らしさに圧倒されていたところに、威厳のある御使いの声が響いたのでひれ伏してしまったのだろうという意見です。

二つ目は、御使いを「キリストの顕現」だと勘違いしたという解釈です。つまり、御使いが素晴らしすぎてイエス様だと思ったという意見です。

三つ目は、神のことばを告げる仲介者への過度の尊敬の表現という解釈です。「神のことば」を告げた御使いに対して最大級の敬意を払おうと思ったのだろうという意見です。

私は、個人的には「一つ目」の解釈に賛成していますが、あえて他の意見をも紹介したのには理由があります。

なぜなら、これらの三つの意見は「終末を生きる聖徒」が陥りやすい罠であると思うからです。

私は、今は「終わりの時代」であると信じています。そして、イエス様が来られる前に「大収穫」が起こると信じています。今までかつてなかった「大リバイバル」が起こると信じているのです。

奇跡が「普通」の状態になると信じています。病人に手を置けば癒されると書いてあるのですから、私たちにも癒しが行えると信じています。主の大いなる御業を祈り求めているのです。私は「後の雨」が降ることを信じているのです。

しかし、聖霊の偉大な傾注があるときには、偽物もまた増大するのです。

イエス様は言われました。

マルコ13:22~23
偽キリストたち、偽預言者たちが現れて、できれば選ばれた者たちを惑わそうと、しるしや不思議を行います。あなたがたは、気をつけていなさい。わたしは、すべてのことを前もって話しました。

終わりの時代には「惑わす者」が出現するのです。

サタンは、選ばれた聖徒の足を引っ張りたいのです。道を踏み外させようと必死なのです。そして、その方法が「惑わし」なのです。

パウロもまた言っています。

使徒20:29
私は知っています。私が去った後、狂暴な狼があなたがたの中に入り込んで来て、容赦なく群れを荒らして回ります。

これは、エペソ教会の長老たちに語られた言葉です。エペソの教会は、パウロが言った通り「偽使徒たち」と戦うことになりました。

いつの時代にも「惑わす偽者」は存在するのです。神の御業が大きければ大きいほど「惑わしの力」も大きくなります。そして、神の御業が顕著であればあるほど、「惑わされた時」のダメージも大きいのです。

私たちは「気をつけていなさい」というイエス様のことばを心に留めなければなりません。

御使いが「いけけない。やめよ」と制止しなければならないような事態に陥らないように。

惑わしへの警告

聖書は、御使いを礼拝することに対して警告しています。

ヘブル1:4
御子が受け継いだ御名は、御使いたちの名よりもすばらしく、それだけ御使いよりもすぐれた方となられました。

なぜ、ヘブル書の著者は「キリストの御名」と「御使いたちの名」を比べているのでしょう?

それは、当時「御使いの名」によって祈る人々がいたからです。

ユダヤ教のラビたちの記録の中に「ミカエルの名によっていけにえ献げることを禁じる」「天使の名によって祈ることを禁じる」という記述が残っています。当時の異端には「御使い礼拝」をする者たちがいて、ラビたちも取り締まりに苦労したということでしょう。

クリスチャンたちの中にも、そのような「教え」に惑わされる人がいたようです。

コロサイ2:18
自己卑下や御使い礼拝を喜んでいる者が、あなたがたを断罪することがあってはなりません。彼らは自分が見た幻に拠り頼み、肉の思いによっていたずらに思い上がって、

パウロの手紙から想像すると「御使いを見た」と言う人が「見たことがない」と言う人々を「失格者だ」と言っていたようですね。

口語訳ではこのように訳されています。

コロサイ2:18(口語訳)
あなたがたはわざとらしい謙遜と天使礼拝におぼれている人々から、いろいろと悪評されてはならない。彼らは幻を見たことを重んじ、肉の思いによっていたずらに誇るだけで、

御使いを見た人々は、何か「競技の勝利者」のような気分であったようです。

おそらくですが…

それは「あからさまな断罪」ではなかったのでしょう。つまり、彼らは「見せかけの謙遜」によって自分たちの優越感をくるんでいたのだろうと思います。

御使い礼拝をする人々は、このように言っていたそうです。

「私が神の御前に出るなんて、そんな資格はありません。私は、御使いを礼拝することで、神への信仰を表すのです」

まあ、どこかで聞いたことのあるようなセリフですが置いておきましょう。

主は、見せかけの謙遜を憎まれると私は思います。ことさらに「自己卑下」して謙遜ぶることは「傲慢」なのです。

しかし、サタンは「光の御使い」に変装します。「惑わす狼」は、たいてい「羊飼い」の恰好をしてやって来ます。

あなたは「見分けること」ができますか?

モーセは、杖を蛇にかえましたが、ヤンネとヤンブレも同じことをしました。

占いの霊に憑かれた女性は、パウロたちのことを「この人たちは、いと高き神のしもべで、救いの道を宣べ伝えています」と叫び続けました。

エジプトの呪法師も、モーセと同じ奇跡を行えますし、悪霊は占い師の口から「正しい情報」を語るのです。

御使い礼拝をする人々は「いたずらに思い上がって」いました。

彼らは、御使いを礼拝することを「喜んで」いました。

「喜んで」とは「自ら好んで選ぶ」という意味です。彼らは、御使いを礼拝することに「優越感」を抱いていました。「御使いを見た」ことは、彼らの人生における最大の「自慢」となったのです。

これは、御使い礼拝だけに限ることではありません。

イエス様が「偽キリスト」が現れると言われたことを思い出してください。終わりの時代には「自分こそキリストだ」と言う「人」や「霊」が現れます。

また「偽預言者」も多く現れるのです。「預言」の賜物は非常に重要で大切なものです。しかし、私たちは賜物を行使している「人間」を追い求めてはならないということを忘れてはならないのです。

コリント書で、第三の天に昇った人のことをパウロは話しています。私は、個人的にパウロ自身の経験であろうと思っていますが、今回はそこは焦点ではありません。

パウロの口ぶりから分かることは、そのような経験は「やたらめったら口にすることではない」ということです。そして、それは「自慢すること」でもありません。

私は、パウロが実際に第三の天にあげられたのだと信じています。ですから、今の時代において「そのような体験」をした人がみな偽りを言っているのだとは思いません。もちろん、偽りや悪霊の体験もあることは承知しています。しかし、それでもすべての霊的体験が「偽物」だとは考えられません。

私はペテロが御使いに助け出されたことを信じています。実際に御使いは存在していて、主のご指示により私たちを助けてくれていると信じています。ですから、御使いを見たという人がいても不思議ではないと思っています。

同じように「預言の賜物」も「奇跡の賜物」も信じています。そのようなことは「使徒の働きの時代に終わったのだ」とは思いません。

終わりの時代には「使徒の働きの時代」以上の御業が起こると心から信じています。あなたも私も、信じるならば「山をも動かす」ことができるのです。

ですから、あえて「気をつけなさい」と私は言いたいのです。

コロサイ2:19a
かしらに結びつくことをしません。

パウロの時代に「御使い礼拝」を好んで行っていた人は、自分たちは「最先端だ」と思っていました。そして「体験」に固執して「かしらなるキリスト」を見失ってしまったのです。

「かしらなるキリスト」にしっかりと結びついていない人は「律法的」「戒め的」になります。

彼らは「幻を見るためには断食しなければならない」と言います。御使いを見るためには「野菜しか食べてはならない」などと言いだします。「毎日、3時間以上祈らなければ幻を見ることはない」などと言うのです。

幻など見る必要はありません。何度も言いますが、私は幻を否定してるわけではありません。ただ「幻を見ても救われはしない」と言いたいだけです。御使いの名前では救われません。偉大な預言者を信じても救われません。天の下で「この御名」つまり「イエス・キリストの御名」のほかに救われるべき名は人間には与えられていないのです。

見えるものは重要ではありません。「立派に見える行い」「謙遜に見えることば」を信じてはなりません。その人が「かしらに結びついているかどうか」を見極めなさい。

私たちは「かしらなる方」に強く強く結びつきましょう。イエス様から決して目を離してはなりません。

イエスの証しは預言の霊です

御使いは、使徒ヨハネを制して言いました。

黙示録19:10b
「いけません。私はあなたや、イエスの証しを堅く保っている、あなたの兄弟たちと同じしもべです。神を礼拝しなさい。イエスの証しは預言の霊なのです。」

御使いは、私たちと「同じしもべ」であると言います。さて、この部分を詳しく説明する時間が無くなってしまいました。ヘブル書を引用しようと思っていましたが…、よければご自分でヘブル書を読んでみてください(笑)

とにかく、御使いは自分のことを「拝む対象ではない」とはっきり言ったのです。

「神を礼拝しなさい」

この世界には、多くの「惑わし」があります。しかし、覚えてください。本当はとても簡単なことなのです。

この世界には「創った方」と「創られたもの」が存在するだけです。

御使いも私たちも「被造物」です。サタンや悪霊がどれだけ虚勢をはっても、彼らも「被造物」にすぎません。そして、どんな素晴らしい人でも、光輝く御使いであっても「被造物」は礼拝の対象にはなりえません。

御使いは続けて言います。

「イエスの証しは預言の霊です」

これは「イエスの証し」と「預言の霊」は同じだと言う主張ではありません。これは「預言の目的はイエスの証しだ」と言う意味です。

「預言の霊」とは、もちろん「聖霊」のことです。聖霊様が「預言」を与える目的は「イエス様の栄光」を現わすことです。

ヨハネ16:14
御霊はわたしの栄光を現わされます。わたしのものを受けて、あなたがたに伝えてくださるのです。

「イエスの証し」とは、イエス様が証されたことと言う意味なのか、もしくは、イエス様について証されたことと言う意味なのか、どちらにも解釈できますね。

しかし、どちらの意味であっても、聖霊様が「イエス様の栄光」を現わされるということに間違いはありません。(ちなみに、私は両方の意味を含むと信じています)

つまり、預言の目的は「イエスの証し」なのです。

預言とは、イエス様の御業を知らしめるためのものです。主イエスの十字架と復活に焦点を定めるものです。また、大祭司であり、王であり、子羊である方を知るためのものです。そして、再び来られるイエス様に目を向けさせるためのものです。

終わりの時代、これは絶対的な指針となります。

つまり「イエスを証ししない預言の霊には注意せよ」ということです。

イエス様に栄光を帰さない預言、集会、働き人には要注意です。それが「素晴らしく謙遜に見えても」「預言が正しくても」「奇跡が起こっていても」「癒しが起こっていても」です。

それは、ただ「キリストの御名を用いていること」とは違います。しかし、このことは、またいつか機会があれば学びましょう。

御使いは、ヨハネに言っているのです。

「あなたが見た一連の幻に心を奪われてはならない。それは、ただ一人の方であるイエスを証しするためのものだ」と。

黙示録の啓示は理解を越えた恐ろしいものです。また、そこで垣間見た天の光景は言葉では表現できないほど素晴らしいものです。しかし、それらはすべて「イエス様を証しするもの」であり「イエス様の証し」なのです。

黙示録のギリシャ語は「Ἀποκάλυψις(アポカリュプシス)」であったことを覚えていますか?

それは「覆いを取り除く」という意味でした。

黙示録とは、イエス様が「覆いを取り除かれる書」です。私は、イエス様が「ご自身」を明らかにされる書であると思って学んでいます。

ヨハネが見た一連の幻には「キリスト」が啓示されているのです。私たちが学んできたすべての部分に「キリスト」がおられます。そのことを決して見失ってはならないのです。

物事に目を向けるならば、使徒ヨハネでさえ、御使いにひざまづいてしまうのです。

しっかり立ちましょう。

私たちは、決して、イエス様から目を離してはなりません。

「惑わし」を恐れるあまり、主イエスの栄光を現わす御霊の働きまで拒絶してはなりません。

かしらに堅く結びつくことを切に求めましょう。あなたが、イエス様に堅く結びついているならば、どのような現象にも怯えることはありません。

私たちは、終わりの大収穫の時代に生かされています。「後の雨」を今こそ期待して叫び求める時です。

大いなる御霊の注ぎの「外側」ではなく「内側」にいたいと私は切に願います。

もちろん、あなたもそうでしょう?

シャロームを祈ります。