黙示録18:3
すべての国々の民は、御怒りを招く彼女の淫行のぶどう酒を飲み、地の王たちは彼女と淫らなことを行い、地の商人たちは、彼女の過度なぜいたくによって富を得たからだ。
大きな権威を持った御使いが
さて、18章に入る前に復習を兼ねて、宗教的バビロンの崩壊から学びを再開しましょう。。
大淫婦とよばれる「宗教組織としての大バビロン」は、獣たちによって滅ぼされます。
大淫婦である大バビロンは、獣たちに焼き尽くされます。
このとき、大バビロンの「宗教システム」が崩壊するのだろうと私は思います。
獣すなわち反キリストが「自分を高く挙げるため」にすべての宗教システムを焼き尽くすのでしょう。
おそらく、イスラエルに許可していた「神殿での犠牲のささげもの」も、このときに取り上げられてしまうのだろうと思います。
不法の者(反キリスト)は、自分を神とし「神の宮」に座るのです。
さて、世界統一宗教としての大バビロンは崩壊します。それがどのように終わるのかは分かりませんが、彼女がもっていた「富」は、そのまま残されると思われます。つまり、大バビロンの「商業的側面」は残ったままということです。
宗教的バビロンは、獣たちに滅ぼされます。
そして、商業的バビロンは、主のさばきによって滅びるのです。
「その後」つまり宗教的バビロンが滅びるという幻の後、使徒ヨハネは「もう一人の御使い」が天から下って来るのを見ました。
「もう一人の御使い」とは、10章に登場した御使いと同じ御使いでしょうか。少なくとも、同じぐらい「大きな権威」を持っていることは間違いないでしょう。
この御使いが下って来ると「地はその栄光によって照らされた」とヨハネは言っています。
このことから、この御使いをイエス様だとする意見もありますが、ここは素直に「御使い」と解釈してよいと私は思います。
この御使いは「大きな権威」を与えられています。ゆえに、神の栄光で輝いています。
この御使いが天から下って来ると、地は「栄光によって照らされた」のです。
御使いは、確かに威厳のある存在だと思います。黙示録22章に、使徒ヨハネでさえ、思わず、ひれ伏して礼拝しそうになったと記されているほどです。
アロンとイスラエルの民は「モーセの顔が輝きを放つ」のを見ました。モーセは、シナイ山で、主なる神の御前にいたのです。ずっと御そば近くにいたので、モーセの肌が「神の栄光」を反射させていたのです。
御使いは、天において、神のご栄光の輝きの中に常にいるのです。ですから、多かれ少なかれ、彼らは「神の栄光の輝き」を放つ者なのだろうと思います。彼らは、モーセ以上に輝きを放っているでしょう。
しかし、もちろん、御使いは「礼拝の対象」ではありません。彼らが素晴らしく威厳に満ち輝いていたとしても、それは「主の栄光の反射」です。彼らもまた「被造物」なのです。
富に仕えた者たちの末路
さて、大きな権威を持った御使いが叫びます。
御使いは、力強く宣言します。とうとう大バビロンが倒れるのです。
ある人々は、「倒れた」ということばが二度繰り返されているのは、17章のさばきと18章のさばきを別々に指しているからだと考えていますが、私は、バビロンが間違いなく滅びるということの強調にすぎないと考えています。
ヨハネの黙示録 J・Bカリー著 伝道出版
私も同じ意見です。二度繰り返される「倒れた、大バビロンが倒れた」という叫びは、徹底的な滅びの宣言であると思います。
この滅亡は、霊的な目に見えない次元のことではありません。
大バビロンと呼ばれる都が、完全に崩壊するのです。それは、全世界の人々の目の前で起こります。それは、徹底的な滅亡です。
御使いは、そこが「あらゆる悪霊の住みか」となると言っています。
このことから、黙示録20章に登場する「サタンが捕らえられる底知れぬ所」の入り口が、この崩壊した大バビロンにあるのだと言う学者さんもいます。
少なくとも、人が絶対に住むことのできない場所となることは確実です。
大バビロンは「すべての国々の民」に影響を及ぼしていました。誰もかれもが、彼女と何かしらの関係を持っていたのです。
すべての国々の民が「御怒りを招く彼女の淫行のぶどう酒を飲む」のです。全世界の民にとって、それは「魅惑的で夢心地にさせるぶどう酒」であったのでしょう。罪とは、そのようなものです。しかし、それは確実に「御怒りを招き」ます。
地の王たちは、大バビロンの不正な経済システムと「切り離せない関係」を持つのだろうと思います。もしかすると、自分たちの国の利益ではなく「私利私欲」を満たすために、大バビロンと関係を持つのかもしれません。
地の商人たちは、彼女の「過度なぜいたく」によって莫大な利益を上げるようです。反キリストの経済システムを最大限に生かし儲ける人々です。恐らく、彼らは「獣の刻印」をいち早く導入し、商売を軌道に乗せるのだろうと思います。
しかし、地の王たちも、地の商人たちも、嘆き悲しむことになります。
その都の滅亡は「一日」にして起こります。
地の王たちは、彼女の「過度のぜいたく」の恩恵を受けていました。彼ら自身もまた「ぜいたく」にふけっていたのです。しかし、その「ぜいたく」も終わりです。
大バビロンは「肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢」に満ちています。
終わりの時代、世界は「三つのこと」を愛するようになります。
それは「自分だけを愛すること」「金銭を愛すること」「快楽を愛すること」です。
そして、大バビロンは、それらすべてを人々に提供するのです。
「過度なぜいたく」とは、「勢いのあるぜいたく」「歯止めの効かない欲望」という意味です。
大バビロンの欲望は「制御不能」です。それは極度の「貪欲の罪」です。
その昔、アカンもバビロンの誘惑に屈したのです。
シンアルとは、バビロンのことです。彼は、バビロンの毛皮と金銀をみて「欲しくなった」のです。
アカンは「我慢すること」を選ぶことができませんでした。それは「聖絶のもの」でしたし、イスラエルは戦争中でした。緊迫感のある状況であったにも関わらす、彼は「欲」に引かれて罪を犯したのです。
「過度なぜいたく」とは「制御」することができないものなのです。内側から「何かに駆り立てられる」ような「欲望」が湧き上がるのです。それが「貪欲の罪」です。アカンは「貪欲」に捕らえられてしまったのです。
大バビロンの最大の罪は「貪欲」です。つまり「むさぼり」のことです。
「貪欲」とは、原語では「πλεονεξία (プレオネクシア)」です。これは「より多くを持つ」「際限なく持つ」と言う意味です。
「貪欲」とは、決して満ち足りることがないということです。「貪欲の罪」に陥ると「満足する」ことができません。その人は、絶えず「不平不満」を言います。
パウロは、貪欲は「偶像礼拝だ」と言っています。
つまり、貪欲の根本的な原因は「誰に(何に)仕えているのか」ということなのです。
イエス様は、ここで「神」と「サタン」を対比されてはいません。
イエス様は「富」を擬人化して、あろうことか「神」と対比されたのです。
ここに人間の本質が現われているように思います。
「富」と訳されている語は、ギリシャ語では「マモナス」、ヘブル語では「マモーン」と言います。
これは、ただ「紙幣」や「金貨」を意味する語ではありません。これは「人が信頼を置くもの」つまり「蓄えられた財産」を意味します。
イエス様は、あなたがたは「神」を信頼するのか、それとも「富」を信頼するのかと問うておられるのです。
聖徒は、サタンに信頼を置くことはないだろうと私は思います。あからさまに「偶像」を礼拝することもないでしょう。
しかし「富」はどうでしょうか?
ここで私は「ぜいたくは敵だ」というようなスローガンを叫ぶつもりはありません。「お金儲けをするな」と言うつもりもありません。
そうではなく「富に信頼を置いてはならない」と言いたいのです。
イエス様が「神」と「富」を対比されたのには訳があると思います。
「富」は、時として「神に代わる安心感」を与えるものだからです。
この世において「富」は、生きていくために「必要不可欠」だと思われています。なにをするにも「お金」が必要ですものね。
イエス様は言われます。
イエス様は「財産(富)」と「いのち」を対比させておられます。
そして、「お金持ちのたとえ」を語られました。
豊作の作物を倉にいったぱい貯めた金持ちは言います。
イエス様は、この「金持ち」のことを「自分のために蓄えても、神に対して富まない者」と呼ばれました。
これは、まさしく大バビロンの姿と同じです。
この金持ちの「いのち」が「一晩」で取り去られるように、大バビロンも「一日」にして滅びます。
愛する兄弟姉妹。
私たちは、決して「富に仕える者」となってはなりません。
それは、神の御前では「裸でみじめ」な姿です。
富を「自分の手につかんでおく」のはやめなさい。
イサクは、自分で掘った井戸に執着しませんでした。彼は、何度も「井戸を手放した」のです。
しかし、主は、彼を祝福し「広い所」に導き入れてくださいました。
イエス様は、地上では「枕する場所」もなく、何の財産も所有されませんでした。
しかし、主は、この地上で最も「富んだ方」でした。
イエス様は「五つのパンと二匹の魚」で五千人以上の人を満腹にされました。しかも、余りが「十二のかご」にいっぱいになったのです。
「栄光のうちにあるご自身の豊かさ」とは、以前の新改訳では「ご自身の栄光の富」と訳されています。
「栄光の富」というものがあるのです。それは「地上の富」とは違うのです。
「地上の富」に執着するのはやめなさい。
イエス様は「何も持たない」けれど「すべてを持って」おられました。
イエス様は「何も持っていない」ことを心配してはおられませんでした。
イエス様は、ご自身は、地上では何も所有していなくても「御父」がすべてを持っておられることを知っておられました。
天には「無尽蔵の富」があるのです。
私たちの主なる神は「千の丘と万の家畜」を持っておられます。また「金はわたしのもの、銀もわたしのもの」と言われる方です。
あなたは、誰に信頼しますか?
地上のマモーンですか?
それとも、天におられる我らの父ですか?
「富」ではなく「栄光の富」を豊かにもっておられる方を信頼しなさい。
貯金通帳を見て、ため息をつくのはやめなさい。
自分のものに固執して「地上に蓄える」のはやめなさい。
あなたを捨てて孤児にはしないと言われる方を信じなさい。
あなたを「愛するわが子よ」と呼ばれる「御父」を信じなさい。
「御父」は、あなたの必要をすべてご存知です。
あなたは、ただ「天の父の愛」を信じればよいのです。
主のしもべの生き方とは、このようなものです。
私たちは、パウロのように告白して生きましょう。
悲しんでいるようでも、喜んでいます。
貧しいようでも、多くの人を富ませます。
何も持っていないようでも、すべてのものを持っています。
私たちは、自分のために貯めこむような生き方はしません。
私たちは、いのちの水をあふれんばかりに豊かに流しだす者です。
見なさい。
自分のために蓄えて、神の御前に富まない者の末路を。
富という偶像に仕えて「一日」にして滅びる大バビロンを。
私たちは、滅びゆく世を愛する者ではなく、栄光の御父を愛する者です。
主よ、どうか、私を「多くの人を富ませる者」としてください。何も持っていなくても「五千人」を満腹にさせることができますように。
願わくば、あなたから「いのちの水」があふれ出しますように。あなたが「多くの人」を潤す者とされますように。
シャロームを祈ります。

