黙示録19:9
御使いは私に、「子羊の婚宴に招かれている者たちは幸いだ、と書き記しなさい」と言い、また「これらは神の真実なことばである」と言った。
一人の花嫁
御使いは、使徒ヨハネに言いました。
「子羊の婚宴に招かれている者」は幸いなのです。
御使いは、それをわざわざ「書き記すように」と強調して言っています。ですから、これは非常に大切なことであると分かります。
このことばは、黙示録の「七つの幸い」の一つです。第四の幸いですね。
「花嫁」とは「教会」のことです。
この「教会」は、キリストにある「一つの教会」です。
「ひとつのからだ」としての「教会」が「キリストの花嫁」です。
それは、決して変わることがありません。永遠に「定められた」ことです。
私たちは、その「からだ」に属する者として「子羊の婚宴」に出席します。
主は「イスラエル」を「妻」と呼ばれましたが、実際に関係を育まれるのは「そこに属する住民一人ひとり」です。けれど、もし「その住民の一人」が主に反抗し裁かれたとしても「イスラエル全体」が「妻」としての地位を失うことはありません。
同じように「一つの教会」は「キリストの花嫁」です。その立場は不変です。しかし、その「構成員」は変わる可能性があるのです。その「構成員」は増えたり減ったりしますが「一つの教会」が「花嫁」としての立場を失うことはありません。
信仰は「個人的なもの」です。私たちは「教会単位」で救われるのではありません。どれほど素晴らしい教会に通っていても、あなた自身が悔い改めて、イエス様を主と告白しない限り救われることはありません。
しかし、それと同時に「救われた聖徒」が「一つのからだ」とされることも真理なのです。
サタンは、世の終わりに「偽りの信仰の一致」を掲げ、世の中の宗教は統一されて行きます。それはとても恐ろしいことです。けれど、それを恐れるあまり「ひとつのからだ」であることを見失ってはなりません。
私たち一人ひとりが主イエス・キリストの花嫁なのではなく、からだなる教会全体がキリストのひとりの花嫁なのです。
黙示録 J・B カリー著 伝道出版
なんだか不思議な光景ですが、私はいつの日か「我々」を見るのだと信じています。「花嫁」として着飾って、子羊にささげられるのは「我々」なのです。私は、素晴らしく美しい「しみも傷もない花嫁」を見るでしょう。
その日、私たちはみな言いいます。「我々は何と美しいのだろう」と。
私たちは、その婚宴を「招待客の席」から見るでしょう。その特別な婚宴に招かれた者は幸いです。
「美しい花嫁」を見つめながら「あれは我々なのだ」と言うときの喜びを想像してみてください。
そのとき、子羊が花嫁に注ぐ愛を、あなたは自分に注がれたものとして受け取ります。全体として「平等」に注がれる愛ではなく、確実に、あなた個人に注がれる愛として受け取るはずです。
今は、完全には理解できませんね。考えれば考えるほど「不思議」が増します。しかし、私たちの神は「不思議」な神です。ですから、今のこのとき「はっきり分からないこと」さえも楽しめばよいと私は思うのです。
私たちは、そのとき「御霊によってひとつ」であることをはっきりと知ることになります。
あなたは幸いです
「招かれた者」とは、未来において「子羊の婚宴に出席している者」であることは間違いありません。
けれど、その「招き」は「過去」においてすでに完了しているのです。それは、このギリシャ語が完了形であることからも明らかです。
子羊の婚礼に出席できるかどうかは「未来」に決まるのではありません。その「招待状」はすでに送付されています。あなたは「今」すでにその招待状を手にしているのです。
覚えてください。
「子羊の婚宴に招かれている者は幸い」なのです。
「幸い」とは、山上の垂訓でイエス様が言われた「幸いな人」と同じ言葉です。
それは「非常にうらやむべき状態にある」という意味です。
子羊の婚宴が天で行われるとき、地上では「大バビロン」にわざわいが下されています。
地上の富は滅び失せ、勝ち誇っていたシステムは崩れさります。
神から離れた「富」や「笑い」は「哀れ」です。それは、やがて必ず「飢え」と「悲しみ」に変わります。神から離れて「栄誉」を得ても、それは「哀れ」です。「偽預言者」と同じ扱いを受けることに何の「誉れ」がありますか。
子羊の婚宴のとき、私たちは「山上の垂訓」が成就したことを知るでしょう。
主にある兄弟姉妹。
あなたの「飢え渇き」は必ず満たされます。あなたの「悲しみ」は必ず慰められます。
あなたは「幸い」です。今、すでに「幸い」です。
いずれ必ず「子羊の婚宴」に集うことができるあなたは、今すでに幸いなのです。
私たちは、今は「旅人」であり「寄留者」です。
この世のシステムは「天の旅人」には優しくないでしょう。この世は、自分に属さない者には厳しいものです。
しかし、妥協してはなりません。あなたを「世に縛り付けるもの」はすべて切り捨てなさい。
何があなたをうつむかせるのでしょう?
何があなたを振り向かせるのでしょう?
「貧しさ」ですか?
「悲しみ」ですか?
「飢え渇き」ですか?
「苦しみ」ですか?
あなたは「招き」に応じましたか?
あなたを招いておられる方は、十字架で両手を広げて叫ばれた方です。
「父よ、彼らをお赦しください」と懇願してくださった方です。
「疲れた者、重荷を負っている者は来なさい」と呼びかけてくださった方です。
私たちは「御子の花嫁」として選ばれたものです。また、子羊の婚宴に招かれた者です。
あなたに「幸い」を与えるために、イエス様は十字架を負ってくださいました。
あなたに「幸い」を与えるために御父は「御子を死に渡された」のです。
あなたは「天」を目指す旅人であると同時に「神の所有とされた民」であることを忘れてはなりません。
私たちは旅の果てに「幸い」な婚宴に連なります。しかし、今すでに「幸い」はあなたのものなのです。
ですから祈りましょう。
主よ、私は招待状を持っています。必ず子羊の婚宴に出席します。そこで輝く栄光のイエス様を見ます。すべての幸いにあふれます。私はすでに幸いです。今、このところに、その幸いを現してください。私が天においてすでに得ている幸いを、今、ここに現わしてください。
主の愛はとこしえまで、その真実は決して変わりません。
真実とは本物であるということ
御使いは「これらは神の真実なことばである」と言いました。
「神のことば」が「真実」であることは当然のことです。しかし、御使いは「あえて」このことを強調しているように思います。
「真実」とは「本物である」という意味です。
あなたは「神のことば」が真実であることを信じますか?
ときに、世の中のことばは「本物」のように聞こえます。それは「見えているもの」を描写するからです。世の中のことばは「見えているもの以上のこと」を語ることはできません。世のことばは「見えているもの」に確証を求めるからです。
しかし、神のことばは違います。神のことばは「見えないもの」を語ります。イエス様は「天上のこと」を語られます。それはすべて「本物」であり「現実」なのです。
人々は「天にある写し」に仕えて来ました。主の指示によって造られた「幕屋」でさえ「天にある本物の写し」なのです。
「見えるもの」が「現実」で「見えないもの」は「非現実」であると誰が決めたのでしょう。
この世のすべてよりも、見えない神の方が「現実」なのです。
神のことばは「見えないもの」を語りますが、それこそ「現実」なのです。
私たちが「神のことば」の真実を信じるとき、それが「現実」であることがわかります。
私たちは「見えるところによって歩まない」ことを覚えなければなりません。
私は、目の前に見える大嵐か、そこに平然と立っておられるイエス様か、そのどちらかを選ぶ必要があるのです。
私の理性と感覚は「大嵐は危険だ。水の上を歩くことはできない」と言います。
けれど、私の信仰は「主イエスを見よ。来なさいと言われるのだ。私は水の上を歩ける」と言うのです。
私たちは、日々、選択しているのです。見えるものを信じるのか、見えない神を信じるのか…
「これらは、神の真実なことば」だと御使いは言います。
それは「本物」のことばなのです。それは「現実」なのです。
イエス様はご自身を「まことのぶどうの木」と言われましたが、この「まことの」と「真実」は、ギリシャ語では同じ単語です。
「まことのぶどうの木」とは「本物のぶどうの木」と言うことです。世の中には「偽物のぶどうの木」があるのです。それは、一見「よさそうに見えるもの」です。それは「宗教的」に見えるかもしれません。
しかし「偽物」なので頑張ってとどまり続けても何の実も結ぶことはできないでしょう。
「いのちの木」は一本しかありません。
本体は、キリストにあるのです。
ですから、聖書は言うのです。
あなたは、子羊の婚宴に招かれている者は幸いだと信じますか?
あなたは、子羊の婚宴に招かれていますか?
もし、あなたが「招かれた者」であるならば、あなたは「幸い」なのです。
「非常にうらやましがられる状態」にあるのです。
そのようには「見えない状態」であったとしても、それでも「幸い」であることの方が現実なのです。
敵の差し出す偽物は、あなたの「理性」や「感覚」に働きかけます。私たちにとっては、目に見える偽物の方が「受け入れやすい」のです。
しかし、イエス様は言われます。
神の真実なことばを信じましょう。それこそが本物なのです。見ないで信じる者こそが幸いなのです。
あなたの名前は招待者リストに載っています。あなたの名前は天に書き記されています。あなたが「招き」を受け取っているならばそうなのです。
子羊の婚宴に招かれている者の名は、必ず「天に書き記されて」います。
喜びましょう。私たちは、日々、大いに喜びましょう。私の名は「天に書き記されて」いるのです。
私たちは、毎日、喜び勝ち誇りましょう。
見えている世界がどのようなものであっても、あなたの名が「天に書き記されている」という現実はかわりません。天において「子羊の婚宴」の準備は着実に進んでいるのです。
見えている世界よりも「神の真実なことば」のほうが現実であることを信じなさい。
あなたは、今、すでに幸いなのです。
シャロームを祈ります。

