【黙示録18章4節】いのちがけで逃げなさい

再臨を待つ

黙示録18:4
それから私は、天からもう一つの声がこう言うのを聞いた。「わたしの民は、この女の罪に関わらないように、その災害に巻き込まれないように、彼女のところから出て行きなさい。

彼女の罪に関わらないように

使徒ヨハネは「もう一つの声」を聞きます。

黙示録18:4
それから私は、天からもう一つの声がこう言うのを聞いた。「わたしの民は、この女の罪に関わらないように、その災害に巻き込まれないように、彼女のところから出て行きなさい。

明らかに「もう一人の御使い」の声とは違う「別の声」が聞こえたようです。もしかすると、これは「主ご自身」の御声なのかもしれません。主が、バビロンのさばきを宣告されたのかもしれません。

天からの声は言います。

「わたしの民は、この女の罪に関わらないように、彼女のところから出て行きなさい」

「わたしの民」つまり、自分が「神の所有とされた民」であると自覚する者は、大バビロンから出て行くようにと命じれているのです。

「わたしの民」とは、「イスラエル」のことのように思えます。

そして「この時代に救われた聖徒たち」のことでしょう。

大きな意味では、全世界の全世代の聖徒たちに向けた警告であると思います。

主の命令は、簡潔で明白です。

聖徒はだれでも「彼女の罪に関わらないように」しなければなりません。

「関わるな」とは「仲間に加わるな」という意味です。「共に何かをするな」「賛同するな」「協力するな」という意味もあります。

「彼女の罪」とは、前回学びました。

「過度なぜいたく」つまり「貪欲の罪」です。

そして「貪欲」とは、パウロが言っているとおり「偶像礼拝の罪」なのです。

愛する兄弟姉妹。

私たちは「偶像礼拝の罪」を侮ってはなりません。

Ⅱコリント6:16
神の宮と偶像に何の一致があるでしょう。私たちは生ける神の宮なのです。神がこう言われるとおりです。「わたしは彼らの間に住み、また歩む。わたしは彼らの神となり、彼らは私の民となる。

「神の宮」と「偶像」には何の一致もありません。

あなたは「生ける神の宮」なのです。つまり、あなたのうちには「聖霊」が住んでおられるのです。

出エジプト20:3
あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない。

あなたには、ほかの「神」があってはならないのです。

それが、どのようなものであってもです。

私たちは、恐らく「造られた像」を拝むことはないでしょう。聖徒はみな「人の手によって造られた像」を拝むことはないだろうと私は信じています。

けれど「目に見えないもの」はどうでしょう?

または、目には見えるけれど「造られた像」ではないものはどうでしょう?

たとえば「お金」や「教会」そして「人間」などはどうでしょうか?

生けるまことの神以外に、あなたを治めさせてはなりません。

生けるまことの神以外に、心を奪われてはなりません。

マタイ22:37
イエスは言われた。「あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」

イエス様は、律法の中で最も大切な戒めは「神を愛することだ」と言われたのです。

心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして「神を愛すること」は、何にもまして重要なことです。

大バビロンは、まことの神を忘れ、偶像を拝み続けた者の末路です。彼女たちは、まことの神よりも自分自身を愛したのです。

何度も何度も言いますが、これが「終わりの時代の姿」です。

「自分を愛し、金銭を愛し、神よりも快楽を愛する」のです。

ローマ1:21~22
彼らは神を知っていながら、神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いは空しくなり、その暗い心は鈍くなったのです。彼らは、自分たちは知者であると主張しながら愚かになり、

大バビロンは「自分たちこそ知者である」と主張するでしょう。

「神への道」を自分たちは知っているというでしょう。

「富を得る方法」も知っている…

「人の心をつかむ方法」も知っている…

「あらゆる秘術」も知っている…

彼女たちは「自分たちは何もかも知っている。何もかも持っている」と言うでしょう。

愛する兄弟姉妹

彼女の罪と関わらない方法は一つです。

それは、大バビロンやサタンが「絶対にしないこと」をすることです。

つまり「感謝する」ことです。

大バビロンの罪に関わりたくないのなら「感謝」しなさい。

「自分は知者だ」「何もかも持っている」という人は、決して「感謝」しません。

「感謝」しない心は「鈍く」なります。「暗く」なります。

「感謝しない」ならば、私たちは「まことの神」を見ることができなくなるのです。

「偶像礼拝者」は「感謝」することができません。「ありがたい」と口先で言うことはできるでしょうが、神を神として認めない者に、どうして「本当の感謝」ができるでしょうか。

ローマ1:24
そこで神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡されました。そのため、彼らは互いに自分たちのからだを辱めています。

主は、神を神としてあがめず、感謝もしない人々を「欲望のままに汚れに引き渡され」ます。

彼らは「自分の心の欲望のままに自由に生きている」と感じるでしょうが、実際には「滅びへと解き放たれた」だけなのです。

ピリピ3:19
そのような人たちの最後は滅びです。彼らは欲望を神とし、恥ずべきものを栄光として、地上のことだけを考える者たちです。

これは、まさに「大バビロン」のことを言っているように思いますね。

彼らの最後は「滅び」です。なぜなら、彼らは、もしかすると「神を信じている」と言うかもしれませんが、実のところ「偶像礼拝者」だからです。彼らの神は「自分の欲望」なのです。

「欲望」が「神」となることがあるのです。ゆえに「貪欲は偶像礼拝だ」と言われるのです。

多くの偶像は「貪欲」を刻んだ像にしているのです。

人々は、豊かになりたいと願って「偶像」を造ります。人は「何かを手に入れるため」に偶像を造って拝んできたのです。つまり「偶像」とは、人々の「欲望」を形にしたものであると言えます。

ですから、もし、私たちが「形のある像」を拝まなかったとしても、自分の「欲望」のままに生きているならば「偶像礼拝者」と同じです。「自分の思い」を成し遂げるために生きるならば、偶像礼拝者と同じなのです。

「地上のことだけ」を考えて生きるのは、あなたには「ふさわしく」ありません。

あなたは「神の宮」なのです。偶像とは何の一致もありません。

私たちは「欲望」のままに生きることはありません。私たちは「みこころ」のままに生きます。

私たちは、何も持ってはいません。しかし、すべてを持っておられる方と一緒に歩いています。

私たちは、不平不満ではなく「感謝」を告白して歩みます。

なぜなら、ここに「主がおられる」と信じているからです。

私たちは、決して「大バビロン」の罪と関わりません。

彼女のところから出て行きなさい

天からの「もう一つの声」は言います。

黙示録18:4
それから私は、天からもう一つの声がこう言うのを聞いた。「わたしの民は、この女の罪に関わらないように、その災害に巻き込まれないように、彼女のところから出て行きなさい。

天の声は「関わらない」だけでなく「出て行きなさい」と命じています。

それは「その災害に巻き込まれないように」するためです。

これは、ロトのことを思い起こさせますね。

Ⅱペテロ2:6
また、ソドムとゴモラの町を破滅に定めて灰にし、不敬虔な者たちに起こることの実例とされました。

ソドムとゴモラの破滅は「実例」であると聖書は言っています。

主は、不敬虔な者たちの「破滅」を定めておられます。世の終わりの「破滅」も定められているのです。

Ⅱペテロ2:7~8
そして、不道徳な者たちの放縦なふるまいによって悩まされていた正しい人、ロトを救い出されました。この正しい人は彼らの間に住んでいましたが、不法な行いを見聞きして、日々その正しい心を痛めていたのです。

多くの聖徒が「ロト」のようであると私は思います。

みな「心を痛めながら」生きているのだろうと思います。

この世において、聖徒の良心は痛んでいます。

あなたも「こんなこと聞きたくないなぁ」と思いつつ、その場にとどまり続けているのではないでしょうか?

ロトもそうだったのでしょう。彼は「ソドムの罪」と関わってはいなかったようです。

けれど、主は、それだけで「よし」とはされませんでした。

創世記19:15
夜が明けるころ、御使いたちはロトをせき立てて言った。「さあ立って、あなたの妻と、ここにいる二人の娘を連れて行きなさい。そうでないと、あなたはこの町のために滅ぼし尽くされてしまいます。」

ここで分かることは、ソドムの罪に関わらずにいても、彼らの行いに心を痛めていても「巻き込まれることがある」と言うことです。

御使いは、はっきりと言っています。

「そうでないと、あなたはこの町のために滅ぼし尽くされてしまいます」

「大バビロン」と呼ばれる都が具体的に「どこ」なのかは分かりません。

しかし、逃げ出さなければならない「場所」というものがあるのは確かなようです。これは「霊的」な象徴としてだけの話ではないと私は思います。

「ソドムとゴモラ」は「実例」です。

世の終わりに「大バビロン」は「一日のうちに」滅びてしまいます。

黙示録18:8
これらのことのため、一日のうちに、様々な災害、死病と悲しみと飢えが彼女を襲います。そして、彼女は火で焼き尽くされます。彼女をさばく神である主は、力ある方なのです。

大バビロンは「火で焼く尽くされ」ます。

御使いは、ためらうロトに「命がけで逃げなさい」と言います。

私は、この箇所を読むと、御使いとロトの温度差に「イライラ」してしまうのです。

そして、ロトの姿に自分を見て、ますます「イライラ」します。

ああ、世の中は「滅び」に向かっているのです。世の終わりは必ず来るのです。

反キリストは「今にも登場する」でしょう。

しかし、もちろん、まだ終わりではありません。

反キリストが来る前に、大リバイバルが来ると私は信じています。

多くのたましいが、主のもとに走ってやってくると信じています。

前代未聞の大収穫が起こると信じています。

実際に、世界のあちことで「リバイバル」と呼べるような現象が起こっていると聞いています。

御業は「加速している」と預言者たちが叫び始めています。

私も「加速」していくのではと、何となく感じ始めています。

では、なぜ、私は「地上のことだけを考えて」生きているのでしょう?

世の中には、確かに「楽しいこと」「魅力的なこと」がたくさんあります。主は、私たちに「楽しんではならない」とは言われません。

世の中には、確かに「悩みごと」「苦しいこと」がたくさんあります。主は、私たちに「何も思い煩うな」と言っておられます。

「世の楽しみ」も「世の苦しみ」も、私たちはゆだねて生きるのです。

私は「地上のこと」ではなく「天のこと」を思って生きるようにと召されているのです。

これは「命がけのこと」なのです。

私は、何を「ためらっている」のでしょう?

あなたは、何を「ためらって」いますか?

ソドムを出るのに何をためらう必要があるのでしょう?

ロトの妻を「振り向かせたもの」は何であったのかと、私は時々、考えるのです。

愛する兄弟姉妹。

私たちは、決して振り返ってはなりません。

一目散に走って脱出しましょう。

Ⅱコリント6:17~18
それゆえ、彼らの中から出て行き、彼らから離れよ。ー主は言われるー
汚れた者に触れてはならない。そうすればわたしは、あなたがたを受け入れ、わたしはあなたがたの父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる。ー全能の主は言われる。」

まず、あなたが「離れる」ことです。

そうすれば、主は「あなたの父」となられます。

あなたが「ためらわない」なら、主もあなたを「ためらわずに」受け入れてくださいます。

ソドムに残した「肉の欲」「目の欲」「暮らし向きの自慢」を振り返るのはやめなさい。

それらは「火で焼き尽くされる」ものです。

しかし、主は、あなたに「それ以上のもの」を用意しておられます。

私の牧師はいつも言っていました。

「自分がまず救命ボートに乗りなさい。一緒に海に入っていても、誰も救うことはできないよ。ボートに乗ってから引き上げなさい」

そうです。一緒に海の中に使ったっまで「私は溺れていないよ。さあ、浮かんでごらん」と言っても、誰も救われません。一緒に「沈む」のを待つだけです。ジタバタしながら沈むのか、静かに沈むのかの違いでしょう。しかし、どちらも「沈む」のです。

愛する兄弟姉妹

あなたは、今、「地理的」「場所的」なバビロンを出るようにと示されているでしょうか?

実際に、その場所から逃げなければならない人もいると私は思います。

または、何か「象徴的」「霊的」「精神的」なバビロンから解放されなければならない人もいるかもしえません。

いずれにせよ、あなたは「いのちがけ」で逃げなければなりません。

今は「加速の時代」であると私は信じます。「とまどっている時間」が惜しいのです。

全速力で「汚れ」から遠ざかりましょう。「心を痛めて」いるだけでは「巻き込まれて」しまうでしょう。

一目散に逃げて…

聖霊の御力に包まれて…

天上に座る者として…

それから、人々を「逃がす者」として遣わされましょう。

命がけで逃げた者だけが、命がけで逃げよと叫ぶことができるのです。

シャロームを祈ります。