【黙示録21章1節~2節】新しい天と新しい地

再臨を待つ

黙示録21:1
また私は、新しい天と新しい地を見た。以前の天と以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。

新しい天と新しい地

使徒ヨハネにとっても、私たちにとっても、非常に恐ろしい一連のまぼろしは終わりました。

実際、使徒ヨハネの目に「火の池」がどのように見えたのかは分かりませんが、それは、とても恐ろしい光景であったことは間違いないでしょう。

しかしヨハネは、その恐ろしいまぼろしの後、一転して、今度は驚くばかりの「素晴らしい光景」を見るのです。

黙示録21:1
また私は、新しい天と新しい地を見た。以前の天と以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。

この「新しい天」と「新しい地」は、千年王国の続きではありません。

千年王国は、今ある「この地」に建てられます。しかし、もはや、今ある天と地は「過ぎ去る」のです。

それは「以前の天」と「以前の地」と呼ばれるようになります。

黙示録21:5
すると、御座に座っておられる方が言われた。「見よ、わたしはすべてを新しくする。」また言われた。「書き記せ。これらのことばは、真実であり、信頼できる。」

主は「すべてを新しくする」と宣言されます。

この「新しい」というギリシャ語は「καινός(カイノス)」です。それは、時間的に新しいという意味ではなく「質的に新しい」という意味です。

そして、この「質的に新しい(カイノス)」という単語の解釈を巡って、またまた「様々な意見」があるわけです。でも、全部の意見を拾い上げるわけにはいきませんから、大きく二つの意見に分けたいと思います。

一つ目の解釈は、質的に新しいとは「今までのものを刷新する」というものです。

ものすごく簡単に言うと「家をリフォームする」ようなことです。今あるものを徹底的にきよめて、悪い所を完全になくして、まったく新しいものに造り変えるというようなイメージです。つまり、連続した同じものだけれど「質的に全く新しい」という解釈です。

この解釈の根拠には、たいてい「Ⅱコリント5:17」が使われます。

Ⅱコリント5:17
ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

私たちは、キリストにあって「新しい」けれど「私とは違う者」になるわけではない、そのように「天と地」も同じものだけれど「質的に違う」のだと言うことです。(もちろん、他にも多くの聖書箇所が根拠に上げられます)

もう一つの解釈は、質的に新しいとは「完全に全く違う別のもの」であるとします。

これも、ものすごく簡単に言うと「家を建て替える」ようなことです。今あるものを「完全に消滅させて」まったく新しいものを造るというイメージです。古いものとは「全く関係のない新しいもの」という解釈です。

私は、個人的には「古いものとは全く関係ない新しい天と地」が創造されるのだと信じています。

黙示録20:11
また私は、大きな白い御座と、そこに着いておられる方を見た。地と天はその御前から逃げ去り、跡形もなくなった。

私は、ごく単純に「地と天は跡形もなくなった」のだから、完全に消滅したのだろうと思うのです。だから、その後で使徒ヨハネが見た「新しい天と新しい地」は、以前のものとは「まったく違う新しいもの」だと信じているということです。

けれど、この「質的に新しい」ということを「考えてみる」のは大事なことではないかと思います。

「質的に新しい」とは、どういう意味なのでしょうね。主が用意される「新天新地」とは、どのような所なのでしょう。私は、そのようなことを考えるのがとても好きです。

あなたはどうでしょう?

聖徒はみな、これから自分の行く先を考えて「わくわく」するのではないでしょうか。

それは、本当の故郷です

C・Sルイスは、ナルニア国物語「さいごの戦い」で、天国について描写しています。

「似てる」と、しばらく沈黙が続いたあとで、エドマンドが言いました。「やあ、ほんとにそっくりだ。~中略~

「でも、そっくりではないわ。」とルーシィ。「違っているわ。ずっと色どりがあるし、ずっと遠くにあるし…ずっと…ずっとなんだか…ああ、わからないわ。」

「ほんもの以上なんだ」とディゴリー卿が言いました。
さいごの戦い C・Sルイス著 瀬田貞二訳 岩波少年文庫

私は、この「ほんもの以上なんだ」というセリフがとても気に入っています。

もちろん、これは、ただの想像に過ぎません。

しかし私は、新天新地を見たとき、はじめて見たにも関わらず「なつかしさ」を覚えるのではないかと思うのです。まるで違うところなのに、なぜか知っている場所に「似ている」と感じるのではないかと思うのです。

なぜなら、実際のところ、そこが「本当の故郷」だからです。

ヘブル11:16
しかし、実際には、彼らが憧れていたのは、もっと良い故郷、すなわち天の故郷でした。ですから、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。神は彼らのために都を用意されたのです。

昔の信仰の人々は「天の故郷に憧れていた」とヘブル書の著者は言います。そして、その「天の故郷」とは、地上の故郷より「もっと良い故郷」なのです。

私は、時々、とても天の故郷が懐かしくなるのです。まだ見たことがないし、行ったこともないのに「懐かしい」のです。また、イエス様ご自身のことも、とても「懐かしく」思うことが度々あります。不思議な言い方ですが「懐かしさ」を覚えるとしか言いようのない気持ちになるのです。

モーセの幕屋は、主の指示どおり「示された型」に従って造られました。

ヘブル8:5
この祭司たちは、天にあるものの写しと影に仕えています。それは、モーセが幕屋を設営しようとしたときに、御告げを受けたとおりのものです。神は「よく注意して、山であなたに示された型どおりに、すべてのものを造らなければならない」と言われました。

幕屋は「天の写しと影」であると言われます。それは「天のもの」を指し示しています。天について教えているのです。

同じように、もしかすると、この世界も後に用意されている「本当の故郷」を少し写しているのかもしれないなぁと私は想像するのです。設計者は同じなのだから、そのようなこともあるかもしれませんよね。

ヘブル11:13
これらの人たちはみな、信仰の人として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるか遠くにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり、寄留者であることを告白していました。

私たちは、地上では「旅人」です。ここには、一時的に滞在している「寄留者」に過ぎません。

人の心には、もともと「永遠への思い」が与えられています。

そして、私たちがイエス様を信じ神の子とされ、聖霊様が内に住まわれるようになったとき…

「永遠への思い」は「天の故郷への憧れ」へと変わるのです。

ヨハネ14:3
わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもおらせるためです。

イエス様は、あなたのために「住む場所」を用意しておられます。

今ある「天と地」は滅びるのですから、この「場所」は「千年王国」のときに与えられるわけではないようです。最終的に聖徒が安住する場所は「新天新地」にあるのでしょう。

そこで、本当に「旅」は終わります。もちろん、主の御もとに行ったときに「終わる」のですが、場所があたえられ「永遠の安住」という意味においては、新天新地がゴールと言えるかもしれません。

子羊の婚礼が終わって、獣と偽預言者が裁かれ、その後、千年王国があります。捕らえられていた竜が解放され、海の砂のように多くの人々が反逆に加わります。しかし、あっと言う間に竜はとらえられ「火の池」に投げ込まれ、もう再び姿を現すことはありません。

その後、大きな白い御座のさばきが始まります。まず、天と地が、その御前から跡形もなく消えます。多くの書物といのちの書が開かれます。いのちの書に名前のない人々は、みな、火の池に投げ込まれます。

子羊の婚宴が終わってから、すぐに「新天新地」は来ません。その後も様々なことが起こります。まあ、千年間は平和ですけどね。しかし少なくとも、千年間は「新天新地」にたどり着くことはできないということです。長いですか?

けれど、聖書は言います。

Ⅱペテロ3:8
しかし、愛する人たち、あなたがたはこの一つのことを見落としてはいけません。主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。

確かに「千年」は長いですね。しかし、それが終わるときには「一日」のようであったと感じているかもしれません。主の御前で過ごす「一日」のような「千年」を私はとても楽しみにしているのです。

そして、その後…

旅は、本当に終わります。私たちは、もはや「寄留者」ではありません。私たちは「本当の故郷」に戻るのです。神と子羊の都の一員として永遠に過ごすのです。

ですから今は、上を見上げて歩きましょう。「天の故郷」に憧れながら、私たちの旅を一緒に続けましょう。

新天新地について

さて、聖書が「この天と地についての書」であることは明白です。

創世記1:1
はじめに神が天と地を創造された。

この「天と地」が創造される前のことについての説明は一切ありません。主は、ご自身が「天と地」を創造されたことと、そこで行われることだけを啓示しておられるのです。人は、それ以上の情報を持つことはできないのです。

ですから、この「天と地」が跡形もなく消え去ったところで、聖書は終わりなのです。しかし、主は「新天新地」の情報を、ほんの少しですが啓示してくださいました。私たちが、憧れている場所について「ほんの少し」垣間見せてくださったのです。

もう一度、黙示録21章1節を読みましょう。

黙示録21:1
また私は、新しい天と新しい地を見た。以前の天と以前の地は過ぎ去り、もはや海もない

使徒ヨハネが、新天新地をみたときに、真っ先に気がついたのは、そこに「海がない」ということでした。

私たちの住んでいる地球は、約約71.1%が海です。陸地は、約28.9%です。圧倒的に海の方が広いのです。そう思えば、海がないことは一番目立つ特徴であると思えます。

なぜ、海がないのか、はっきりとした理由は分かりません。

深海には未知な部分が多いものですが、そのような「得体の知れないもの」が一切ないということかもしれません。また、陸地を分断する必要がなくなったからだという意見もあります。

海は、古代から「恐怖・混沌・荒々しさ・不安」などと結びつけて考えられてきましたが、新天新地には、それらのもの「恐怖・混沌・不安」などは存在しないからという意見もあります。

様々な意見がありますが、一つだけ確かなことは、もはや「海から上って来る獣」のような存在は永遠に出現しないということです。

そこには、脅かす者は存在しません。悪に導き、混乱させ、誘惑する者は、もういないのです。そして、二度と出現することはありません。そこには、永遠のシャロームがあります。

そこでは「心を騒がせる」ようなことは起こりません。波風が立つようなことも、人生の嵐もないのです。

黙示録21:2
私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、天のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとから、天から降ってく来るのを見た。

新天新地の中心は「聖なる都エルサレム」です。

もちろん、地上のエルサレムとは違う「新しいエルサレム」です。それは美しい都のようです。主が自ら「花嫁のように」整えられたのです。

ある人々は、この聖句から「子羊の花嫁はエルサレムであって教会ではない」と言います。しかし、使徒ヨハネは「花嫁として」とは記していません。「花嫁のように」と記しているのです。そこを間違えてはなりません。それぐらい美しく注目を浴びる都なのでしょう。

主は、エルサレムをご自身の住まいとして選ばれました。エルサレムは「永遠の住まい」として定められているのです。

詩篇132:13~14
主はシオンを選び それをご自分の住まいとして望まれた。「これはとこしえに わたしの安息の場所。ここにわたしは住む。わたしがそれを望んだから。

永遠にエルサレムは、聖なる神の都です。

新天新地の新しいエルサエムは、特に美しく整えられています。

しかし、それについては、次回もしくは次々回に詳しく学びましょう。

今回は、ここで時間切れのようです(笑)

私は、黙示録の21章をイエス様が啓示してくださったことを本当に心から感謝しています。

分からないことばかりだけれど、それでも「そこは現実に存在する」のだと強く感じることができるからです。

その設計はすでに終わっています。主は、新しいエルサレムがどのようなものか「具体的」に啓示されているのですから。

聖書は、預言の書物です。イエス様の初臨の預言はことごとく成就しました。再臨の預言もことごとく成就するでしょう。恐ろしいけれど、大患難について記されていることも必ず成ります。

であるならば「新天新地」について記されていることも「必ず成就する」のです。

いつか必ず、私はそこに行きます。そこには、私のための場所があります。行き場がなくて寂しい思いをすることは絶対にありません。

そこで私は、イエス様と話すでしょう。アダムたちがエデンの園で語りあっていたように。

今はまだ、地上での旅を続けなければならないけれど…

それでも、いつか旅は終わるのです。私たちは、当てのない放浪をしてるのではありません。目当てに向かってまっすぐに進む旅人です。

主のもとにたどり着くその日まで、イエス様から目を離して離さず歩いて行きましょう。

シャロームを祈ります