【黙示録19章1節~8節】子羊の婚礼のとき

再臨を待つ

黙示録19:7
私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。子羊の婚礼の時が来て、花嫁は用意ができたのだから。

大群衆の大きな声

使徒ヨハネは、大バビロンが一日にして倒れるという幻を見ました。

黙示録は言います。

黙示録18:20
「天よ、この都のことで喜べ。聖徒たちも使徒たちも預言者たちも喜べ。神があなたがたのために、この都を滅ぼされたのだから。」

18章において「大バビロン」が滅びていくさまが描かれました。いつの日か、必ず「淫婦たちと地上のすべての忌まわしいものの母」と呼ばれる都はさばかれるのです。

黙示録19:1~2
その後、私は、大群衆の大きな声のようなものが、天でこう言うのを聞いた。
「ハレルヤ。救いと栄光と力は私たちの神のもの。神のさばきは真実で正しいからである。神は、淫行で地を腐敗させた大淫婦をさばき、ご自分のしもべたちの血の報復を彼女にされた。」

使徒ヨハネは「大群衆の大きな声のようなもの」を聞きます。

恐らく「大群衆の声の響き」を聞いただけで姿を見たわけではないのでしょう。ですから、彼は「声のようなもの」と言ったのかもしれません。しかし、それは明らかに「大群衆の声」でした。

「天」は「喜ぶ」のです。御使いも、すでに天にいる聖徒も、みな喜び大歓声を上げるのです。

黙示録19:3
もう一度、彼らは言った。「ハレルヤ。彼女が焼かれる煙は、世々限りなく立ち上る。」

使徒ヨハネの視点は「天」に移っています。今まで「地上のこと」を見ていましたが、今、再び「天」の光景を見ています。地上は大混乱の最中です。大バビロンに下されたさばきは全世界に影響を及ぼします。地上では、まだ苦難の時が続いています。それも、もうすぐ終わりですが。

その間、天には大きな喜びがあります。

黙示録19:4
すると、二十四人の長老たちと四つの生き物はひれ伏して、御座に着いておられる神を礼拝して言った。
「アーメン。ハレルヤ。」

御座の前に二十四人の長老と四つの生き物がいます。なんだか、たいへん懐かしいですね(笑)

まるで黙示録4章の場面に戻って来たかのようです。

しかし、もう最初のときと「まったく同じ」ではありません。

最初の礼拝の時点では、まだ子羊は巻き物を解かれてはいませんでした。子羊が巻き物を解かれた後、本当に様々なことが起こります。私たちは使徒ヨハネと一緒にそれを見て来ました。

七つの封印が解かれ、七つのラッパが吹かれ、七つの鉢が注がれました。

地上には未曽有の災害が起こります。悪魔的な不気味な出来事も起こります。二人の証人が現れて証言し殉教します。そして、御力により復活し天に昇ります。

私たちは、イスラエルを追いかける竜の幻を学びました。海から上って来る獣と地から上って来る獣についても学びました。そして、とうとう大バビロンが滅びるところまで読み進んだのです。長がったですね(笑)

黙示録は「この後起こること」が記されています。

黙示録1:19
それゆえ、あなたが見たこと、今あること、この後起ころうとしていることを書き記せ。

私たちは、地上で「この後起こること」を知ったのです。

もちろん、まだもう少し「この後起こること」は続きます。再臨と千年王国と新天新地が残っています。

けれど「終わりの日に起こること」つまり「大患難時代」に起こることは、ほぼ終わりです。聖徒たちの苦しみは終わります。

もちろん、まだ完全に終わりではありませんが、ここまでの学びで私たちの考え方は、ずいぶんと変えられたのではないでしょうか。もはや、最初に「天が開けた」ときとは違います。違うはずです。そうであれば良いなと思います。

二十四人の長老と四つの生き物は言います。

「アーメン。ハレルヤ。」

「アーメン」とは「その通りです」と同意するヘブル語です。神のなさることは「ことごとく正しく真実」であることの表明です。

「ハレルヤ」とは「主をほめたたえよ」というヘブル語です。新約聖書においては「黙示録19章」に初めて登場します。

黙示録の内容は、この「二語」に凝縮されていると私は思います。

この先、地上で起こることは「信じられないような出来事」です。信仰を持たない人々には「何が起こっているのか」を理解することはできないでしょう。

たとえ「信仰」を持っていたとしても、その確信が「揺るがされる」ようなことが起こるのです。何が「正しい」のか、誰が「本当のこと」を言っているのか、どこに「行けば」いいのか…

目に見えることは「すべてではない」ことを覚えていなければ、聖徒であっても騙されてしまうかもしれません。敵は、最後まで「神の愛」を捻じ曲げようとするでしょう。

しかし、大バビロンにさばきが下されるとき…

主が、ご自分のしもべたちの血の報復を彼女にされたとき…

すべての聖徒は「神のさばきは真実で正しかった」と言うでしょう。すべての聖徒が「主をほめよ」と言うでしょう。

終わりの日、天にいるすべてのものは「アーメン」と言います。「主のさばきが真実で正しいこと」に、すべての者が同意します。

「アーメン」、主のなさることは、ことごとく真実で正しいのです。

その後に続く言葉は、ただ一つしかありません。

「ハレルヤ」

主をほめよ。主の真実が明らかにされたとき、私たちが口にできる言葉は「ハレルヤ」しかないでしょう。

「アーメン。ハレルヤ」とは、私たちの人生を凝縮した言葉でもあります。

私たちの人生には「今は分からないが、後に分かること」がたくさんあるのです。

「今」は「すべて」ではありません。「今」見えていることが「先にあること」を決定するのではありません。

今、あなたが「自分は失敗した」と感じていても、その「失敗」は「未来」を決定しません。

今、あなたの目の前には「苦難」があって、とても「良い未来」なんて期待できないと感じていても…

「今から後」のことは分からないのです。私たちの神は「逆転の神」です。

「見えているもの」は「すべて」ではないのです。それを私たちは黙示録で学びました。

見えないけれど「天の御座」は確かにあるのです。見えないけれど「御使い」はいます。

見えないけれど、あなたを愛するイエス様は「世の終わりまでいつもともにいる」のです。

ですから、見えている「物と事」に同意してはなりません。この世に「アーメン」と言ってはなりません。

私たちは、主のなさることに同意します。主のみこころだけを信じます。私たちは、自分の思いではなく、敵のささやきでもなく、ただ御言葉だけに「アーメン」と言います。

「アーメン。ハレルヤ。」と告白しながら歩みましょう。

愛する兄弟姉妹。

この世の終わりには、あなたは「どこ」にいるでしょう?

私は、あなたと一緒に「天」にいることを信じています。

あなたも私も、大バビロンの滅びを天上から見ます。そして、御使いとすべての聖徒らとともに「主のさばきは真実で正しかった」と言うのです。

「アーメン。ハレルヤ。」

私たちは必ず言います。

ですから、今、この地においても言いましょう。主が真実で正しいことに同意して生きましょう。そして、主の真実をほめたたえながら歩みましょう。

花嫁の亜麻布の衣

使徒ヨハネは御座からの声を聞きました。

黙示録19:5
また、御座から声が出て、こう言った。「神のすべてのしもべたちよ、神を恐れる者たちよ、小さい者も大きい者も 私たちの神を賛美せよ。」

「御座から声が出て」とは、とても興味深い表現ですね。

「声が出て」とは「声が現れた」ということです。

主ご自身の御声なのか、御使いの声なのか、四つの生き物の声なのか、まったく分かりません。これは「見える現れ」ではないのかもしれませんね。

確かなことは、この「声」によって「神のすべてのしもべたち」が賛美に導かれるということです。

この「声」は「天の大号令」などと呼ばれます。つまり「招集のラッパ」のような役割を果たしているのです。

この「声」によって「神のすべてのしもべたち」が一斉に賛美をささげます。

黙示録19:6
また私は、大群衆のような、大水のとどろきのような、激しい雷鳴のようなものがこう言うのを聞いた。「ハレルヤ。私たちの神である主。全能者が王となられた。

さて、5節で現れた「声」によって導かれた人々が賛美をささげます。

それは「大群衆の声」です。そして「大水のとどろき」のように聞こえます。「激しい雷鳴」が鳴り響くようにも聞こえます。恐らくヨハネは、自分の身体に「振動」を感じたのでしょう。身体の奥に「響く」ような音が天に響き渡るのです。

みな「全能者なる神」が「王」となられたことを喜んでいます。誰一人、そのことを不満に思う人はいません。

これはとても大切なことです。

ルカ19:27
またさらに、私が王になるのを望まなかったあの敵どもは、ここに連れて来て、私の目の前で打ち殺せ。

主が「王」になることを「望む」ことは非常に重要なことです。

私たちは「全能者が王となられる」ことを「望む」必要があるのです。

「救われる」とは「立ち位置」の問題であることを覚えてください。

救いとは「闇から光へ」と移されることです。また「サタンの支配から神に立ち返る」ことです。

エペソ2:2
かつては、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、すなわち不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいました。

あなたは誰に従って歩んでいますか?

かつては「空中の権威を持つ支配者」に従って歩んでいたとしても、今は違います。

私たちは「イエスは王」ですと告白する者です。私たちは、この世の流れに従いません。

私たちは、ただイエス様を待ち望みます。そして、ただイエス様だけに従って歩みます。

主が「王」になることを心から望む者こそが「神のすべてのしもべ」として賛美に招集されるのです。

黙示録19:7
私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。子羊の婚礼の時が来て、花嫁は用意ができたのだから。

ここで「神のすべてのしもべたち」が「花嫁」であることが分かります。

「神のすべてのしもべたち」とは、主イエスの血によってあがなわれたすべての人々のことです。

ガラテヤ3:28
ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もありません。あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって一つだからです。

聖徒は「一人の人」としてキリストの花嫁とされます。「私たち」が「花嫁」なのです。

花嫁である「私たち」は、このとき喜び楽しんでいます。一つになって「神をほめたたえて」います。

なぜなら「子羊の婚礼の時」が来たからです。

天で行われる子羊の婚宴ですが、花婿は主イエス・キリスト、花嫁はもちろんのこと教会です。つまり、天に上げられた教会、携挙されたキリスト者です。ですから、大患難時代の時には、すでに携挙はあって、聖徒たちは天にいるのです。
世の終わりが来る! 奧山 実著 マルコーシュ・パブリケーション

私は、聖徒は「神の御怒り」にあわないと信じています。ですから、必ず「大患難の前」には携挙されていると信じます。少なくとも「七つの鉢」の災いの前には挙げられているだろうと思うのです。

地上において「女王」と自称していた大バビロンが滅びるとき、天においては「子羊の婚礼」が行われるのです。

「天」が喜んでいるのは、地上で報復がなされたからだけではありません。永遠の昔から定められていた「子羊の婚宴」がついに行われるからです。

黙示録19:8
花嫁は、輝くきよい亜麻布をまとうことが許された。その亜麻布とは、聖徒たちの正しい行いである。

花嫁の衣装は「輝く白い亜麻布」です。そして、その「亜麻布」とは「聖徒たちの正しい行い」なのです。

ここで誤解してはなりません。

「結局は、正しい行いによって救われるのだな」と考えてはなりません。

覚えてください。

「婚礼」とは「披露宴」のことです。そして「花嫁」とは、直訳すると「妻」です。

つまり、すでに「結婚関係は成立している」のです。

私たちは、ヨセフとマリアの話を知っていますね。二人は「婚約者」でしたが、ヨセフはすでに「夫」と呼ばれています。ユダヤでは、婚約することで法的な「婚姻」が成立したのです。

ローマ10:9
なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。

あなたが「イエスは主です」と告白し、福音を心から信じた時点で「婚約」は成立しています。

イエス様は、あなたの「夫」として責任を果たされます。

婚約すると、「夫」は「妻」のために「家」を準備します。自分の父親の家に戻って「妻を迎える準備」をするわけです。

ヨハネ14:3
わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです。

準備ができたなら、夫は妻を迎えに行きます。

なぜかたいてい「夜中」だそうです。ラッパを鳴らしたりして、にぎやかに迎えに来るそうです。

そして、その後、盛大な「婚宴」が行われます。

イエス様が「迎えに来られた後」で、天において「婚宴」が行われます。つまり「携挙」とは、イエス様が「花嫁」を迎えにくることだとも言えますね。この「婚宴」が、黙示録19章の「子羊の婚礼」です。

一方、妻は、夫が迎えに来るのをドキドキしながら待ちます。待っている期間(だいたい1年ぐらい待つようです)、彼女も準備するのです。昔の花嫁たちは、みな自分で婚礼の衣装を仕立てました。

聖徒も、主のお迎えを「今か今か」と待つべきです。私たちは、いつ「携挙」されてもおかしくはありません。

あなたの「亜麻布の衣」は整っていますか?

私たちは「すでに」救われています。救いに「行い」は全く不要です。

亜麻布の衣は「救いの証」ではありません。恵みによって信仰のゆえに、私たちは救われました。その証印は「聖霊」です。

では「亜麻布の衣」とは何でしょう?

それは、聖徒の「歩み方」に関係するものです。

ペテロは言っています。

1ペテロ1:13
ですから、あなたがたは心を引き締め、身を慎み、イエス・キリストが現れるときに与えられる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。

私たちは、イエス様の現れを「ひたすら」待ち望まなければなりません。

1ペテロ1:14~15
従順な子どもとなり、以前、無知であったときの欲望に従わず、むしろ、あなたがたを召された聖なる方に倣い、あなたがた自身、生活のすべてにおいて聖なる者となりなさい。

私たちはすでに救われたので「聖なる者」でなければならないのです。

あなたは、キリストに贖われたので「聖」であることを追求しなければならないのです。

なぜなら、私たちを召された方ご自身は「聖」だからです。

光り輝く亜麻布は「聖徒の正しい行い」です。それは「律法による義」ではありません。それは「律法にまさる義」すなわち「キリストによる義」のことです。

それは具体的には「愛の行い」ということです。神の愛をもって歩むことです。そうするならば、私たちの行いは「正しく」なります。

愛する兄弟姉妹

あなたは「何を」待ち望んでいますか?

あなたは「キリスト」を待ち望んでいますか?

あなたは「この世」が通過点にすぎないことを信じますか?

黙示録には「この後起こること」が記されていると心から信じますか?

子羊の婚礼は「この後必ず起こる」のです。

そのとき、あなたは「どこ」にいるでしょう?

あなたの衣は整っているでしょうか?


私たちは、ひたすら待ち望みましょう。後に来られる方のために「聖なる者」として歩みましょう。

主は必ず来られるのです。

シャロームを祈ります。