黙示録19:7
私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。子羊の婚礼の時が来て、花嫁は用意ができたのだから。
大群衆の大きな声
使徒ヨハネは、大バビロンが一日にして倒れるという幻を見ました。
黙示録は言います。
18章において「大バビロン」が滅びていくさまが描かれました。いつの日か、必ず「淫婦たちと地上のすべての忌まわしいものの母」と呼ばれる都はさばかれるのです。
使徒ヨハネは「大群衆の大きな声のようなもの」を聞きます。
恐らく「大群衆の声の響き」を聞いただけで姿を見たわけではないのでしょう。ですから、彼は「声のようなもの」と言ったのかもしれません。しかし、それは明らかに「大群衆の声」でした。
「天」は「喜ぶ」のです。御使いも、すでに天にいる聖徒も、みな喜び大歓声を上げるのです。
使徒ヨハネの視点は「天」に移っています。今まで「地上のこと」を見ていましたが、今、再び「天」の光景を見ています。地上は大混乱の最中です。大バビロンに下されたさばきは全世界に影響を及ぼします。地上では、まだ苦難の時が続いています。それも、もうすぐ終わりですが。
その間、天には大きな喜びがあります。
御座の前に二十四人の長老と四つの生き物がいます。なんだか、たいへん懐かしいですね(笑)
まるで黙示録4章の場面に戻って来たかのようです。
しかし、もう最初のときと「まったく同じ」ではありません。
最初の礼拝の時点では、まだ子羊は巻き物を解かれてはいませんでした。子羊が巻き物を解かれた後、本当に様々なことが起こります。私たちは使徒ヨハネと一緒にそれを見て来ました。
七つの封印が解かれ、七つのラッパが吹かれ、七つの鉢が注がれました。
地上には未曽有の災害が起こります。悪魔的な不気味な出来事も起こります。二人の証人が現れて証言し殉教します。そして、御力により復活し天に昇ります。
私たちは、イスラエルを追いかける竜の幻を学びました。海から上って来る獣と地から上って来る獣についても学びました。そして、とうとう大バビロンが滅びるところまで読み進んだのです。長がったですね(笑)
黙示録は「この後起こること」が記されています。
私たちは、地上で「この後起こること」を知ったのです。
もちろん、まだもう少し「この後起こること」は続きます。再臨と千年王国と新天新地が残っています。
けれど「終わりの日に起こること」つまり「大患難時代」に起こることは、ほぼ終わりです。聖徒たちの苦しみは終わります。
もちろん、まだ完全に終わりではありませんが、ここまでの学びで私たちの考え方は、ずいぶんと変えられたのではないでしょうか。もはや、最初に「天が開けた」ときとは違います。違うはずです。そうであれば良いなと思います。
二十四人の長老と四つの生き物は言います。
「アーメン。ハレルヤ。」
「アーメン」とは「その通りです」と同意するヘブル語です。神のなさることは「ことごとく正しく真実」であることの表明です。
「ハレルヤ」とは「主をほめたたえよ」というヘブル語です。新約聖書においては「黙示録19章」に初めて登場します。
黙示録の内容は、この「二語」に凝縮されていると私は思います。
この先、地上で起こることは「信じられないような出来事」です。信仰を持たない人々には「何が起こっているのか」を理解することはできないでしょう。
たとえ「信仰」を持っていたとしても、その確信が「揺るがされる」ようなことが起こるのです。何が「正しい」のか、誰が「本当のこと」を言っているのか、どこに「行けば」いいのか…
目に見えることは「すべてではない」ことを覚えていなければ、聖徒であっても騙されてしまうかもしれません。敵は、最後まで「神の愛」を捻じ曲げようとするでしょう。
しかし、大バビロンにさばきが下されるとき…
主が、ご自分のしもべたちの血の報復を彼女にされたとき…
すべての聖徒は「神のさばきは真実で正しかった」と言うでしょう。すべての聖徒が「主をほめよ」と言うでしょう。
終わりの日、天にいるすべてのものは「アーメン」と言います。「主のさばきが真実で正しいこと」に、すべての者が同意します。
「アーメン」、主のなさることは、ことごとく真実で正しいのです。
その後に続く言葉は、ただ一つしかありません。
「ハレルヤ」
主をほめよ。主の真実が明らかにされたとき、私たちが口にできる言葉は「ハレルヤ」しかないでしょう。
「アーメン。ハレルヤ」とは、私たちの人生を凝縮した言葉でもあります。
私たちの人生には「今は分からないが、後に分かること」がたくさんあるのです。
「今」は「すべて」ではありません。「今」見えていることが「先にあること」を決定するのではありません。
今、あなたが「自分は失敗した」と感じていても、その「失敗」は「未来」を決定しません。
今、あなたの目の前には「苦難」があって、とても「良い未来」なんて期待できないと感じていても…
「今から後」のことは分からないのです。私たちの神は「逆転の神」です。
「見えているもの」は「すべて」ではないのです。それを私たちは黙示録で学びました。
見えないけれど「天の御座」は確かにあるのです。見えないけれど「御使い」はいます。
見えないけれど、あなたを愛するイエス様は「世の終わりまでいつもともにいる」のです。
ですから、見えている「物と事」に同意してはなりません。この世に「アーメン」と言ってはなりません。
私たちは、主のなさることに同意します。主のみこころだけを信じます。私たちは、自分の思いではなく、敵のささやきでもなく、ただ御言葉だけに「アーメン」と言います。
「アーメン。ハレルヤ。」と告白しながら歩みましょう。
愛する兄弟姉妹。
この世の終わりには、あなたは「どこ」にいるでしょう?
私は、あなたと一緒に「天」にいることを信じています。
あなたも私も、大バビロンの滅びを天上から見ます。そして、御使いとすべての聖徒らとともに「主のさばきは真実で正しかった」と言うのです。
「アーメン。ハレルヤ。」
私たちは必ず言います。
ですから、今、この地においても言いましょう。主が真実で正しいことに同意して生きましょう。そして、主の真実をほめたたえながら歩みましょう。
花嫁の亜麻布の衣
使徒ヨハネは御座からの声を聞きました。
「御座から声が出て」とは、とても興味深い表現ですね。
「声が出て」とは「声が現れた」ということです。
主ご自身の御声なのか、御使いの声なのか、四つの生き物の声なのか、まったく分かりません。これは「見える現れ」ではないのかもしれませんね。
確かなことは、この「声」によって「神のすべてのしもべたち」が賛美に導かれるということです。
この「声」は「天の大号令」などと呼ばれます。つまり「招集のラッパ」のような役割を果たしているのです。
この「声」によって「神のすべてのしもべたち」が一斉に賛美をささげます。
さて、5節で現れた「声」によって導かれた人々が賛美をささげます。
それは「大群衆の声」です。そして「大水のとどろき」のように聞こえます。「激しい雷鳴」が鳴り響くようにも聞こえます。恐らくヨハネは、自分の身体に「振動」を感じたのでしょう。身体の奥に「響く」ような音が天に響き渡るのです。
みな「全能者なる神」が「王」となられたことを喜んでいます。誰一人、そのことを不満に思う人はいません。
これはとても大切なことです。
主が「王」になることを「望む」ことは非常に重要なことです。
私たちは「全能者が王となられる」ことを「望む」必要があるのです。
「救われる」とは「立ち位置」の問題であることを覚えてください。
救いとは「闇から光へ」と移されることです。また「サタンの支配から神に立ち返る」ことです。
あなたは誰に従って歩んでいますか?
かつては「空中の権威を持つ支配者」に従って歩んでいたとしても、今は違います。
私たちは「イエスは王」ですと告白する者です。私たちは、この世の流れに従いません。
私たちは、ただイエス様を待ち望みます。そして、ただイエス様だけに従って歩みます。
主が「王」になることを心から望む者こそが「神のすべてのしもべ」として賛美に招集されるのです。
ここで「神のすべてのしもべたち」が「花嫁」であることが分かります。
「神のすべてのしもべたち」とは、主イエスの血によってあがなわれたすべての人々のことです。
聖徒は「一人の人」としてキリストの花嫁とされます。「私たち」が「花嫁」なのです。
花嫁である「私たち」は、このとき喜び楽しんでいます。一つになって「神をほめたたえて」います。
なぜなら「子羊の婚礼の時」が来たからです。
天で行われる子羊の婚宴ですが、花婿は主イエス・キリスト、花嫁はもちろんのこと教会です。つまり、天に上げられた教会、携挙されたキリスト者です。ですから、大患難時代の時には、すでに携挙はあって、聖徒たちは天にいるのです。
世の終わりが来る! 奧山 実著 マルコーシュ・パブリケーション
私は、聖徒は「神の御怒り」にあわないと信じています。ですから、必ず「大患難の前」には携挙されていると信じます。少なくとも「七つの鉢」の災いの前には挙げられているだろうと思うのです。
地上において「女王」と自称していた大バビロンが滅びるとき、天においては「子羊の婚礼」が行われるのです。
「天」が喜んでいるのは、地上で報復がなされたからだけではありません。永遠の昔から定められていた「子羊の婚宴」がついに行われるからです。
花嫁の衣装は「輝く白い亜麻布」です。そして、その「亜麻布」とは「聖徒たちの正しい行い」なのです。
ここで誤解してはなりません。
「結局は、正しい行いによって救われるのだな」と考えてはなりません。
覚えてください。
「婚礼」とは「披露宴」のことです。そして「花嫁」とは、直訳すると「妻」です。
つまり、すでに「結婚関係は成立している」のです。
私たちは、ヨセフとマリアの話を知っていますね。二人は「婚約者」でしたが、ヨセフはすでに「夫」と呼ばれています。ユダヤでは、婚約することで法的な「婚姻」が成立したのです。
あなたが「イエスは主です」と告白し、福音を心から信じた時点で「婚約」は成立しています。
イエス様は、あなたの「夫」として責任を果たされます。
婚約すると、「夫」は「妻」のために「家」を準備します。自分の父親の家に戻って「妻を迎える準備」をするわけです。
準備ができたなら、夫は妻を迎えに行きます。
なぜかたいてい「夜中」だそうです。ラッパを鳴らしたりして、にぎやかに迎えに来るそうです。
そして、その後、盛大な「婚宴」が行われます。
イエス様が「迎えに来られた後」で、天において「婚宴」が行われます。つまり「携挙」とは、イエス様が「花嫁」を迎えにくることだとも言えますね。この「婚宴」が、黙示録19章の「子羊の婚礼」です。
一方、妻は、夫が迎えに来るのをドキドキしながら待ちます。待っている期間(だいたい1年ぐらい待つようです)、彼女も準備するのです。昔の花嫁たちは、みな自分で婚礼の衣装を仕立てました。
聖徒も、主のお迎えを「今か今か」と待つべきです。私たちは、いつ「携挙」されてもおかしくはありません。
あなたの「亜麻布の衣」は整っていますか?
私たちは「すでに」救われています。救いに「行い」は全く不要です。
亜麻布の衣は「救いの証」ではありません。恵みによって信仰のゆえに、私たちは救われました。その証印は「聖霊」です。
では「亜麻布の衣」とは何でしょう?
それは、聖徒の「歩み方」に関係するものです。
ペテロは言っています。
私たちは、イエス様の現れを「ひたすら」待ち望まなければなりません。
私たちはすでに救われたので「聖なる者」でなければならないのです。
あなたは、キリストに贖われたので「聖」であることを追求しなければならないのです。
なぜなら、私たちを召された方ご自身は「聖」だからです。
光り輝く亜麻布は「聖徒の正しい行い」です。それは「律法による義」ではありません。それは「律法にまさる義」すなわち「キリストによる義」のことです。
それは具体的には「愛の行い」ということです。神の愛をもって歩むことです。そうするならば、私たちの行いは「正しく」なります。
愛する兄弟姉妹
あなたは「何を」待ち望んでいますか?
あなたは「キリスト」を待ち望んでいますか?
あなたは「この世」が通過点にすぎないことを信じますか?
黙示録には「この後起こること」が記されていると心から信じますか?
子羊の婚礼は「この後必ず起こる」のです。
そのとき、あなたは「どこ」にいるでしょう?
あなたの衣は整っているでしょうか?
私たちは、ひたすら待ち望みましょう。後に来られる方のために「聖なる者」として歩みましょう。
主は必ず来られるのです。
シャロームを祈ります。

