黙示録16:1
また私は、大きな声が神殿から出て、七人の御使いに、「行って、七つの鉢から神の憤りを地に注げ」と言うのを聞いた。
七つの鉢のさばきが始まります
使徒ヨハネは、大きな声が神殿から出たと言っています。
この「大きな声」が誰のものなのかは分かりません。四つの生き物の声ではないだろうと思います。
もしかすると、主なる神が命じられたのかもしれません。
七人の御使いたちは「七つの災害」を携えています。そして、四つの生き物の一つが「七つの金の鉢」を渡しました。「七つの金の鉢」には「神の憤り」が満ちています。
「七つの災害」と「七つの鉢に満ちた神の憤り」が混ぜ合わされる時が来ました。
覚えておられるでしょうか?
今、学んでいるのは「第七のラッパ」が吹かれた後のことです。少し復習しておきましょう。
黙示録5章において「子羊イエス」が「御座に着いておられる方の右の手にある巻物」を受け取られました。子羊だけが「七つの封印」を解くことができる唯一の方です。
「第一の封印」が解かれると「白い馬と乗り手」が現れました。
「第二の封印」が解かれると「赤い馬と乗り手」が現れました・
「第三の封印」が解かれると「黒い馬と乗り手」が現れました。
「第四の封印」が解かれると「青ざめた馬と乗り手」が現れました。
「第五の封印」が解かれたとき、使徒ヨハネは「祭壇の下」に殉教者たちのたましいを見ました。そして、この後、その殉教者の数が満ちるまで血の復讐はなされないことを聞きます。
「第六の封印」が解かれたとき、天変地異が起こります。大きな地震も起こり、人々は「神と子羊の御怒りの大いなる日が来た」と言います。
この時点では、まだ封印はすべて解かれてはいません。このように振り返ると「これは世の終わりのダイジェストだ」という説も一理あるなぁと思ってしまいますね。
「第七の封印」が解かれると「ラッパを持つ七人の御使い」が登場しました。ここから「巻物の内容」が知らされるわけです。
「第一のラッパ」が吹かれると「血の混じった雹と火」が地に投げ込まれます。そして「地上の三分の一」が焼かれます。
「第二のラッパ」が吹かれると「火の燃えている大きな山のようなもの」が海に投げ込まれます。「海の三分の一」が血になりました。
「第三のラッパ」が吹かれると「たいまつのような星」が川の三分の一とその水源に落ちます。この星の名前は「苦よもぎ」でしたね。
「第四のラッパ」は吹かれると「太陽・月・星」の三分の一が暗くなりました。
「第五のラッパ」が吹かれると、今までとは違う「悪魔的な災害」と呼べるような出来事が起こります。「底知れぬ所の穴」が開かれるのです。煙の中から「いなご」が出て来たことを覚えていますか。この時期は、人々は「死」を願うけれど「死」の方が「逃げて行く」と記されていました。
ややこしいですが、この「第五のラッパ」が「第一のわざわい」と呼ばれるものです。
「第六のラッパ」が吹かれると「第二のわざわい」が起こります。大河ユーフラテスのほとりにつながれた「四人の御使い」が解き放たれます。彼らは「人間の三分の一」を殺すために解き放たれるのです。「二億の軍勢」を使徒ヨハネは見ました。
多くの人の命が奪われます。恐ろしいことが次々に起こります。しかし、人々は悔い改めませんでした。
地上の人々は「第六のラッパ」すなわち「第二のわざわい」が起こっても悔い改めることをしませんでした。彼らは「神を神として認めず」偶像を拝み続けるのです。
また「殺人、魔術、淫らな行い、盗み」を悔い改めることもありません。とても悲しいけれど、世界の終わる時まで「殺人」も「不品行」も「盗み」もなくならないのです。人間は、最後まで他人のものを奪って生きるのです。
「第二のわざわい」の間には「二人の証人」が登場しました。
さて、残りは「第七のラッパ」つまり「第三のわざわい」だけですね。
「第七のラッパ」とは「七つの金の鉢のわざわい」の合図です。そして、それは「第三のわざわい」の合図でもあります。
さて、ずいぶん長い挿入部(12章から15章)だったので忘れているかもしれませんが「第七のラッパ」はすでに吹かれています。
ここから「第三のわざわい」が始まります。つまり「七つの金の鉢のさばき」が始まるのです。
そして、これが本当の最後の始まりなのです。
もろもろの力が揺り動かされます
ここから「七つの鉢のさばき」が始まりますが、その期間は「短い」だろうと言われます。
すでに学んだように、七つの封印のさばき(六章)は「ダニエルの第七十週」(最後の七年)の中ごろに起こる出来事でしょう。このさばきの期間は二、三年、あるいは三年半かもしれません。それに続くラッパのさばき(八、九章)は七つの封印のさばきよりもひどいもので、しかも、さらに迅速かつ短期間のうちに行われるようです。短くて数カ月、長くとも一年未満ではないでしょうか。そのあとの、この十六章の七つの鉢のさばきの期間はそれよりもさらに短く、わずか数週間ではないかと思います。数日間と考えている人もいますが、それほど短期間ではないと私は思います。
ヨハネの黙示録 J・B・カリー著 伝道出版
私も、個人的にこの意見に同意です。「七つの鉢のさばき」は、ごく「短期間」の出来事でしょう。
これほどの災害に何年も持ちこたえることはできないと思うからです。
イエス様は言われました。
これから起こることは「世の始まりから今に至るまでなかった」ことです。そして、それは「今後も決してないような、大きな苦難」なのです。
もし、主が「日数を少なく」してくださらなかったとしたら「肉なる者」は誰一人生き残ることはできないでしょう。ちなみに「一人も救われない」は、直訳すると「肉なる者はだれも」です。
私たちには、この恐ろしさを想像することができません。しかし、その時代に地上にいる人々には「自分たちの明日」が予測できるようです。
人々は「自分の力」が何の役にもたたないことを「今さら」ながら痛感するのです。
彼らは「自分たちの近い未来」をおそらく「正確」に予測するのでしょう。
確実に「気を失うほど恐ろしいこと」が彼らに降りかかります。
世の中はどんどん便利になります。人間は「どんどん賢くなる」ように見えます。しかし、天から注がれる「神の憤り」を防ぐことは「地上のどんな賢者」にもできはしません。
どんな武器が役に立つと言うのでしょう。どこに逃げれば助かるのでしょう。
地上に「役立つもの」は一つもありません。また「逃げる場所」もありません。
人は「お会いできるとき」に「神を隠れ場」としなければ「永遠に逃れる術」を失うのです。
世界は、今は「バラバラ」に見えますが、確実に「統一」に向かっています。それは「完全な統一」ではありませんが、彼らは「自分たちの利害」を一致させるでしょう。
ネブカドネツァルが見た夢の「十本の足指」の時代が来ます。粘土と鉄が混ざり合った国の時代です。
それは「バベルの塔」を思わせます。「一致団結」して、人々は「自分たちを守るため」「自分たちの名をあげるため」に塔を建てます。人類は、終わりのとき、再び「一致団結」して神に反逆するように私には思えます。
サタンは狡猾です。人々は、自分でも知らないうちに「獣のしるし」を刻むことになるでしょう。
どうか覚えてください。
狡猾なサタンが「今」も聖徒を食い尽くそうと狙っているのだということを。
敵はいつも、私たちが「眠っている間」に種を蒔きます。つまり「知らないうちに」働いているのです。
ですから「目を覚まして」いましょう。
「なんとなく」「ふんわりと」皆が歩いて行く方向に進んではなりません。しっかりと「自分がどこに向かっているのか」を見定めなさい。
キリストにある聖徒の一致は美しいですが「偽りの一致」も存在するのです。「皆が言っているから」正しいとは限りません。必ず「みことばの根拠」を見つけなさい。
終わりの日には「天のもろもろの力が揺り動かされ」ます。
しかし「揺り動かし」は、今もうすでに始まっています。私たちは「造られたもの」ではなく「造られた方」を信頼します。消え去るすべてではなく「不滅で目に見えない唯一の神」を信頼します。
ただ「信仰の創始者であり完成者であるイエス」だけを見つめて歩みましょう。
堅く信仰に立って、サタンに立ち向かいましょう
そして、しっかりと「自分の足」でキリストに根ざすのです。
地には憤り、あなたには「いつくしみ」
第一の鉢が地に注がれます。
とうとう「さばき」が始まりました。
「獣の刻印を受けている者たちと獣の像を拝む者たち」に「ひどい悪性の腫もの」ができます。
これが「偶像礼拝」への「さばき」であることがよくわかりますね。
世界のほぼ「すべて」の人々に悪性の腫物ができると思われます。ただ「荒野にある自分の場所」に逃げ込んでいるイスラエルは別です。
続けて、第二の鉢が地に注がれます。
「第二のラッパ」が吹かれたときには「海の中にいる被造物の三分の一」が死んだと記されていましたが、今回は「海の中にいる生き物はみな死んだ」と記されています。おそらく、世界中の海が血のようになって生き物が全滅するのでしょう。
第三の鉢が地に注がれます。
「第三のラッパ」が吹かれたときは「大きな星が川の三分の一とその水源」に落ちました。
今回は何が「落ちた」のか、もしくは「ただ血になった」のか、それは分かりません。けれど「すべての水の源」が血になることは確かです。
世界中が「血」で染まっているようです。この時代の人々は「この恐ろしい光景」を見なければなりません。
海の水も川の水も、水という水のすべてが「死者の血のよう」になったのです。
そして、それこそ「神の正しいさばきの証し」だと御使いは言っているのです。
「血の復讐」とは恐ろしいことばですね。
しかし、主は「聖徒の死」を決して忘れられません。一人ひとりの「聖徒」は、主の御目にとても「尊い」のです。彼らの苦しみを痛みを、主は覚えておられるのです。
地には「憤り」が注がれます。それはただただ恐ろしい御怒りです。
しかし、その背後には、主が今まで「耐え忍んでこられた御思い」があります。
ご自身が召された聖徒たち…
ご自身のことばを託した預言者たち…
主は、彼らをどれほど愛しておられたことでしょう。
彼らが不当な仕打ちに耐え、苦しめられ、痛めつけられていたとき、御父もともに耐え忍んでおられました。
パウロは言いました。
パウロでさえ聖徒を思って「心を激しく痛めて」いたのです。
それならば、なおのこと、御父の心はもっと激しく痛むのではないでしょうか。ご自身の子どもたちが苦しむ姿を見て何も感じないなどということはあり得ないでしょう。
地に住む人々には、この血は「恐ろしさの極み」でしょう。しかし、時々、私には、この恐ろしい血が「父の涙」に思えるのです。御父は、これほどまで耐えてくださったのかと思うのです。
主は、あなたが呼ぶとき「聞いて」くださいます。
忘れないでください。
主の耳は閉じられてはいません。耳の聞こえない、口のきけない偶像とは違うのです。
主は、あなたの嘆きを聞いておられます。
主は、あなたの涙を皮袋にためておられます。そして、そこにご自身の涙を混ぜておられるでしょう。
外側を見て「愛はどこにあるのか」と叫ぶのではなく、内側に目を向けなさい。
「どこに愛があるのか」と嘆くのをやめて、あなたに注がれている「愛」を見なさい。「愛」はつねに「ここ」にあるのです。
覚えてください。
あなたは「主の目に尊い」のです。
主は、「聖徒を特別に扱われる」のです。
終わりのさばきを学ぶと、どうしても「凄惨な出来事」に心を奪われてしまいます。恐ろしさで心がいっぱいになってしまうでしょう。
確かに「神の憤り」は恐ろしいものです。私たちは、「主を恐れる」ことを知らなければなりません。
しかし、同時に「神は愛である」ということも変わらない真理なのです。
あなたは、どんなときでも愛されています。
あなたは、主の特別です。
そのことだけは、決して疑ってはなりません。
シャロームを祈ります。

