黙示録17:4
その女は紫と緋色の衣をまとい、金と宝石と真珠で身を飾り、忌まわしいものと、自らの淫行の汚れで満ちた金の杯を手に持っていた。
さばきを見せましょうと言いました
第七の御使いが鉢の中身を空中に注ぐと、大きな地震が起こります。
それは、いまだかつてなかったほどの大きな地震です。
主は、大バビロンを忘れておられたわけではありません。
人の時間の感覚では「ずいぶん長い間」さばきを延長しておられたように思えます。けれど、このときが「定められた時」であったのです。
長い間、この地上に悪影響を与えていた「バビロン」がついに滅びます。
黙示録は、反キリストのさばきについて詳しくは述べていません。と言うよりも、それは「一瞬」で終わるのです。反キリストも偽預言者も、竜でさえ、捕らえられ「火の池」に投げ込まれて「終わり」です。
けれど、大バビロンについては「2章分」たっぷりと語られているのです。それが何を意味するのかは分かりませんが、何か重要な意味があるのは確かでしょう。私たちは、もしかすると、反キリストよりも「大バビロン」にもっと注目するべきなのかもしれません。
七つの鉢を持つ御使いの一人がヨハネに語りかけます。七つの鉢とバビロンへのさばきは密接な関係があるのでしょう。
御使いは、大バビロンのことを「大水の上に座っている大淫婦」と呼んでいます。
「大水」とは、後に御使いが説明していますが「全世界」のことです。
大バビロンは「もろもろの民族、群衆、国民、言語」の人々の上に座しているのです。君臨しているということでしょうか。全世界の人々が、彼女の「ご機嫌」を伺うような存在なのです。なぜでしょう?
世の支配者たちはみな、彼女と関係を持っていました。この大淫婦が、世界の指導者たちに影響を与えていたのは確実です。それも、なにやら「よからぬこと」によって繋がっているのだと思えます。大淫婦は、おそらく「地の王」たちの弱みを大量に握るだろうと思います。
また、権力者たちだけでなく「地に住む人々」も、彼女によって「魅了されて」いました。彼らは「彼女のぶどう酒に酔った」のです。
ですから、大バビロンへのさばきは「全世界の人」に影響を及ぼすことになるのです。
私たちは、この大バビロンについて、これから数回に分けて学んでいくことになります。
まず、覚えておきたいことは、この「大バビロン」が一つの「都市」のようなものであるということです。
終わりの時代、一つの大きな都が「地の王たち」を支配します。
この時代、獣(反キリスト)は、間違いなく世界の権力者たちの上に立っているでしょう。この「大きな都」は、獣(反キリスト)に乗って、地の王たちに影響力を行使するのです。
終わりの時代、獣(反キリスト)は、一つの大きな都と特別な関係を持ちます。ある時期までは、彼らは「一つ」となって行動するのです。まあ、それは次回から追々学んでいきます。
黙示録17:3に戻りましょう。
御使いは「御霊によって」ヨハネを荒野に連れて行きました。御使いは「御霊の中にいるヨハネ」を移動させたのです。
使徒ヨハネは、様々な幻を見ました。彼は「御霊によって」幻を啓示されたのです。
黙示録の「場面」が切り替わるときには、常に、ヨハネは「御霊の中にいる」と記されています。
最初に使徒ヨハネが「御霊の中に」入れられたのは、黙示録1章です。その後、大きく啓示が変わるたびに「御霊の中に」入れらていることが強調されます。四回、同じ言葉が登場します。
「御霊に捕らえられ」と「御霊によって」と、日本語の訳は違いますが、原語はすべて「ἐν πνεύματι (エン・プニューマティ)」です。これは「御霊の中に」と言う意味です。ある先生は「御霊になった」と訳しています。ちょっと説明するのが難しいですが、ヨハネが「まるっきり御霊の中にいるという状態。外側も内側も御霊に満たされている状態」という感じでしょうか。
ゴードン・フィーという牧師は、これを「黙示録における4つの主要な預言の波だ」と言っています。
つまり、この「エン・プニューマティ」という言葉が出て来ると「ステージ」が変わるということです。
黙示録には四つの「ステージ」があります。
「1章:地上」「4章:天」「17章:荒野」「21章:新しいエルサレム」です。
これは「神の壮大なパノラマだ」などと言われます。使徒ヨハネは、この「神のパノラマ」を段階的に見せられているのです。
このように考えると、黙示録が「啓示の書」であることがよく分かります。私たちは「御霊によって」啓示されなければ何も分からないのです。
自分の知性や知識、理解力にたよって黙示録を学ぶなら、黙示録は「難解なミステリー」です。超難解なトリックを暴く推理小説と同じです。誰が「犯人」なのかを捜すことが目的となってしまいます。
けれど「御霊の中に」入れられるならば、黙示録のパノラマが目の前に広がるのです。そこにある「神の御思い」が啓示されます。そして、それは「単なることば」を超えた「神のことば(レーマ)」となります。
黙示録だけではく、聖書はどの書も同じです。結末を知れば「終わり」ではありません。その「過程」がとても大切です。その背後にある「神の御思い」が重要なのです。
主が、あなたに「個人的に」語られるのだということを信じてください。
御霊の満たしを求めましょう。御霊が、あなたに「神の心」を啓示してくださいます。黙示録は「御霊」によらなければ絶対に理解できません。聖霊に満たされることを知らない世の学者さんたちも、黙示録を研究しています。しかし、彼らが、どれほど賢くても、聖霊の啓示なしに黙示録を理解することはできません。
聖霊様、どうか私を満たしてください。心の目を開いてください。あなたの中にあって見る者となりたいのです。どうか、私に個人的にお語りください。
あなたが御霊に満たされて、黙示録から御心を知ることができるようにされますように。
金の杯の中身は忌まわしいものです
さて、もう一度、黙示録17:3を読みましょう。
ヨハネは「荒野」で「一人の女が緋色の獣に乗っている幻」を見ました。
緋色の獣とは、黙示録13章にに登場した「海から上って来た獣」のことでしょう。
この獣は「反キリスト」のことです。ある時から、獣(反キリスト)と一人の女(大淫婦)とは結託して行動するのです。彼らは、ある意味において「一つ」であると言えます。
この「獣」については次回以降で詳しく学びます。今回は、大淫婦の姿に注目しましょう。
この「一人の女」は、紫と緋色の衣を着ています。これは、この「一人の女」が「高貴で身分が高い」ということを表しているのでしょう。また、彼女は「金と宝石と真珠」で身を飾っています。この「一人の女」は「豊かで贅沢」な暮らしをしているのでしょう。
つまり、獣の上に乗っている「大きな都」は「豊かな都」「贅沢な都」「着飾った都」であるということです。
彼女は「金の杯」を手に持っています。「金」とは「神性」を表わす色ですから、彼女の「見た目」は「神々しい」ということでしょうか?
世の人々は、彼女の外見の美しさに魅了されるのです。彼女には「豊かさ」がある、自分もその「豊かさ」にあずかりたいと思って近づくのです。
しかし、覚えてください。
使徒ヨハネは「大水の上に座し、緋色の獣に乗った女」を荒野で見るのです。
荒野とは「不毛の地」です。彼女は「何もかも手に入れた」と思っているでしょう。しかし、実際には何も育んではいないのです。彼女は「実はみじめ」であることを知らない都です。
「大きな都」である大淫婦は、自分隊の都は「うまくいっている」と思っているでしょう。
彼女は、他の国々から「一目置かれ」ています。みなが、彼女と関わりたいと願っています。彼女の外見に魅了されているからです。
しかし、実際は「不毛な地に君臨している裸の女王」に過ぎません。
金の杯を持っている彼女を、人々は「聖なるもの」と呼ぶのかもしれません。しかし、その杯の中身は「忌まわしいものと、自らの淫行の汚れで満ち」ているのです。
外側は美しくても内側に汚れが満ちているということは、悲しいけれど「ある」のです。
しかも、その外側が「神性の輝き」を放っているのに、内側が「忌まわしきもの」で満ちているということが起こり得るのです。
イエス様は、律法学者やパリサイ人に言われました。
終わりの日、世界は「偽善と欺瞞」で満ちるでしょう。
外側は「美しく白く輝いている」ように見えても、その中身は「あらゆる汚れで満ちて」います。
外側は「金色に輝く杯」に見えますが、その実は「忌まわしいもので満ちて」いるのです。
主イエスは、所謂、宗教家たちの「偽善・欺瞞」について責められました。
恐らくですが…
これから、世界の宗教は「偽善と欺瞞」に満ちていくだろうと思います。宗教界だけでなく世界中に「偽善と欺瞞」が満ちるでしょう。
それは「教会」にも満ちるのです。
私たちが、もし信仰を「宗教化」してしまうならば、偽善や欺瞞に呑み込まれていくことになります。
パウロは「敬虔の形」と「敬虔の力」を対比させています。
つまり、終わりの日、人々は「外見上の形」は持っているけれど「本質を変える力」は持っていないということです。
これが、パウロがテモテに宛てた手紙だということを忘れないでください。パウロは「クリスチャン」と名乗っている人々について語っているのです。
終わりに出てくる最悪の欺きは、不道徳な世の中ではなく、教会の中にあります。それは『罪を指摘せず、悔い改めを迫らず、聖霊のきよめの力を拒絶する、耳に心地よいだけの礼拝形式』です。彼らはキリストの名を呼びますが、自分の罪深い生き方を変える聖霊の力を拒んでいます。神はテモテに『そこから離れよ』と言われました。
デイビット・ウィルカーソン「最大の欺き(The Greatest Deception)」についての警告から(意訳)
神の国は、口先だけの「ことば」ではなく「ことばに伴う力」にあるのです。
主は、必ず「みことば」とともに働かれます。
主の口から出た「ことば」は、決してむなしく地に落ちることはありません。
「真の敬虔」つまり「信仰心」には、かならず「変革」が伴います。
大淫婦の姿を思い起こしてください。
紫と緋色の衣をまとい、金銀、宝石、真珠で身を飾っています。彼女は美しいのです。高貴な身分です。おそらくですが、善い行いもしているでしょう。人々は「金の杯」に目を奪われます。彼女は「魅力的」です。
しかし、うちに「敬虔の力」はありません。善い行いを隠れ蓑にした「邪悪」がはびこっているでしょう。
内面を変えること、内面を飾ること、内面を成長させることは「宗教」には不可能なのです。「形だけの教会生活」には何の力もありません。
私は真剣に自分に問わなければなりません。
私は「口先き」だけの「形式主義」に陥っていないだろうか?
「信仰」を語りながら「その力」を否定する者ではないだろうか?
私は本当に「信じたとおりになる」と思っているのだろうか?
私は「聖さ」を追い求めているだろうか?
本気で「神の臨在」を求めているだろうか?
愛する兄弟姉妹。
私たちは、キラキラ光る金の杯を持つのはやめましょう。
私たちは、人から「うらやましがられない」ことを誇りにしましょう。
何も持たない手をあげて、ただ御前に祈りを献げましょう。
あなたの祈りは「香」となります。それは御使いの「香の煙」に添えられて主の御前に立ち上ります。
覚えてください。
大淫婦と呼ばれる大バビロンは、黙示録では「忌まわしい者」として表されていますが、この地上では「魅力的なもの」として君臨するのです。
ですから、聖霊によって歩みなさい。しっかり「本質」を見極めることができるように。
「偽善と欺瞞」は、主にある聖徒にはふさわしくありません。
私たちは「神のみこころ」だけを行うものでありましょう。
そして、一緒に「永遠のいのち」を喜ぶ者とされましょう。
シャロームを祈ります。

