黙示録16:11
そして、その苦しみと腫れもののゆえに天の神を冒涜し、自分の行いを悔い改めようとしなかった。
金の鉢の中身が注がれ続けます
さて、とうとう七つの鉢のさばきが始まりました。
前回は、これまでの復習と「第三の御使い」が鉢の中身を水の源に注いだところまでを学びました。
さばきが進んで行く中で使徒ヨハネは「祭壇」の声を聞きます。
ここは、文字通り「祭壇が言った」のだと私は思います。まあ、祭壇が「語る」のはおかしな感じですが、そう書いてあるのでそうなのだろうと思います。
祭壇は「あなたのさばきは真実で正しいさばきです」と言っています。
これは、おそらく「アベルの血」から今に至るまで流された「血」の叫びであろうと私は解釈しています。
「祭壇」は言います。
「あなたのさばきは真実で正しいさばきです」と。
これが「正しいさばき」であることを心に留めてください。今から、起こるすべてのこともそうであることを覚えてください。すべては「全能者なる神」がなさることなのです。
太陽は、この時まで「人々を焼くこと」を許されていません。
私は、この箇所を読むたびに思うのです。
何事もなく過ごす日々が、いかに守られてあるのかということを。
確かに、年々、気温は上がっています。どこまで暑くなるのかなぁと不安を覚えることもあります。しかし、それでも、私たちは、まだ生かされています。主は、まだ「太陽」に「許し」を与えてはおられないのです。
終わりのとき、人々を焼くことを許された太陽とは、どれほどのものなのでしょうか。
激しい炎熱が人々を襲います。主が、守られない世界はこのようになるのです。
熱さは痛みをもたらします。人々は重症の「火傷」を負うのです。それは、耐えがたい苦しみでしょう。
ゆえに、地に住む人々は「神を冒涜する」のです。
このような苦しみにあっても、人々が「自分の行い」を振り返ることはありません。自分たちではなく「これらの災害を支配する権威を持つ神」がすべて悪いと叫ぶのです。
そして、それは、この後、ずっと続きます。この先、第五の鉢が注がれ、第六の鉢が注がれ、第七の鉢が注がれても変わりません。人々は、最後まで全能者なる神を冒涜し続けるのです。
愛する兄弟姉妹。
些細なことかもしれませんが、私は、今、とても心を刺され悔い改めています。
私は、幾度、空を見上げ「不平不満」をつぶやいたでしょう。
「雨が降っているから休みたい」などとカメハメハ大王の子どもたちのようにつぶやきます。
「今日は、暑すぎるから休みたい」「寒すぎるから休みたい」
まあ、つまり、私はどんなときでも休みたいわけです(笑)
主が、太陽に「許し」を与えておられないことを感謝します。
主が「全能なる神」であることを賛美します。
私は、終わりのときに「神の御名を冒涜する人々」に自分の姿を見ました。
もし、私が「その場」にいたならば…(もちろん、それはあり得ないのだけれど)
私は、自分に襲いかかる災害のために「神をののしる」ことがないだろうか…
今、この程度の暑さや寒さ、天候不順で「不平不満」をつぶやいているのだから、激しい炎熱に襲われたなら「つぶやく」どころではないかもしれません。
私も、彼らと同じなのだとつくづく思わされます。主が救ってくださらなければ、私もまた「冒涜する者のひとり」であったでしょう。
私たちは「生まれながら御怒りを受けるべき子ら」でした。
この恐ろしい「金の鉢のわざわい」のことを考えてみてください。「神の怒り」「神の憤り」の激しさが分かるでしょう。
私たちは、この「神の怒り」から救われたのです。
私たちは、主のあわれみのゆえに生かされました。恵みのゆえに信仰によって救われたのです。
黙示録を学ぶと、それがどれほど偉大で素晴らしいことであるのかを痛感しますね。
愛する兄弟姉妹。
私たちは、つぶやくことをやめましょう。不平不満を言うのはやめましょう。
救われた聖徒に「つぶやき」や「不平不満」はふさわしくありません。
私たちは「祭壇」の言うことに心を留めましょう。
「しかり、主よ。全能者なる神よ。あなたのさばきは真実で正しいさばきです」
些細なことであっても、理解しがたいことであっても、今起こっている「すべて」が「全能なる神」の支配下にあることを信じましょう。
私は、主が「真実で正しい」ことを信じます。どんなときでも、主の真実を信じます。主の真実が「世々限りなく続く」ことを告白します。
そのようにして、心に「真理」を満たすのです。心に満ちていることを「口」は語ります。切羽詰まったときほどそうではありませんか?
今、感謝をささげることができないのなら、災害の時には、もっと感謝できないでしょう。
私たちは、感謝しましょう。賛美しましょう。
黙示録で学ぶ最も大きなことは「感謝・賛美・礼拝」であると私は思います。
私たちは、人の心が最後まで「反抗」を持っていることを知ります。人は、悲しいけれど最後まで「神に栄光を帰す」ことはありません。「彼らが悔い改めて神に栄光を帰することはなかった」と記されているとおりです。
彼らは、災害を起こすのは「神だ」と言いながら、その偉大な御力の前に屈服することはありません。感謝を失った人の心は暗くなるものです。光を憎み、闇を愛します。
ですから、愛する兄弟姉妹。
私たちは、神を愛する者として、ますます感謝に生きましょう。賛美をささげましょう。すべての栄光を主に帰してひれ伏し礼拝しましょう。
獣の国は闇で覆われる
さて、第五の御使いが鉢の中身を注ぎます。
「獣の座」とは、具体的には「何を」もしくは「どこを」指しているのかは分かりません。
七つの教会のひとつ「ペルガモン」には「サタンの王座」があるとイエス様は言われました。もしかすると、そのように「どこか特定の場所」があるのかもしれませんね。
「獣の座」に鉢の中身が注がれます。すると「獣の国」が闇におおわれるのです。
「獣の国」とは、この場合「全世界」を表すと考えていいだろうと思います。
出エジプトの時、エジプト全土が闇でおおわれたように、全世界が闇でおおわれるのでしょう。
これは、ただ「暗くなる」という状態ではありません。目を凝らせば「ぼんやり見える」というようなものではないようです。
エジプトにくだされた「闇」が、今度は全世界をおおうのだろうと思います。
それは「互いを認識できないほどの暗さ」です。そして「立ち上がることを恐ろしく思うほどの闇」なのです。
ちょっと想像がつきませんね。このような闇はいつまで続くのでしょう。出エジプトの時は「三日間」続いたと記されています。
どのぐらいの期間、全世界が闇におおわれるのかは分かりません。少なくとも「人々が苦しみのあまり舌をかむ」ようになるまで続くことは確かです。
私たちは、ここで「獣の国」すなわち「サタンの王国」が、実際は「闇」であることを知ります。人々は「自分の行い」が明らかにされるのを恐れて「光」の方に来ませんでした。彼らは「闇」を愛したのです。
闇を愛する人は、本当には「闇」がどんなものかを知らないのです。
「闇」には良いことなどありません。神が光を取り去られた世界を見てください。
互いの顔を認識することもできず、自分の立ち位置さえ分からないのです。闇の中を歩くとは、実際にはそういうことなのです。ゆえにイエス様は「彼らは何をしているのかわからないのです」と言われたのです。
全世界が暗闇におおわれるとき、おそらく、イスラエルの上には光があるのではないかと私は思います。
「荒野の自分の場所」に逃げ込んだイスラエルに、主は「光」をもたらされるだろうと信じます。
愛する兄弟姉妹。
見えているものはすべてではありません。
私たちの世界は「光」であふれているように見えますが、だからと言って「霊の世界のすべて」が光に満ちているわけではありません。
見えないけれど「光」と「闇」は、今、この時代においても分かれているのだということを覚えてください。
救われるとは「目が開かれること」です。
また「闇から光へ移されること」です。
「サタンの支配から神へ立ち返ること」です。
つまり、救われるとは「立ち位置」の問題だということです。
あなたが救われているならば、あなたは「光の中」に立っています。
あなたが救われているならば、あなたは「神の側」に立つ者です。
覚えてください。
「中立」などあり得ないのです。
「闇」か「光」か、「サタンの支配」か「神に立ち返る」かなのです。
「光のような、闇のような」という生き方はありません。あなたが、どのように感じようとも「光」でないならば、それは「闇」なのです。
愛する兄弟姉妹。
光の中を歩みましょう。光の中で生きましょう。光の中を進むのです。
先が見えないことを恐れてはなりません。それは「闇」ではありません。
自分の周りの光が薄く、心もとなく、消えてしまいそうに感じることがあっても、どうか覚えてください。
それは「暗闇」ではありません。あなたは「サタンの支配」から移されています。
見えるところがどのようであっても、たとえ世界が暗闇でおおわれたとしても…
あなたの上には「主の光」が輝きます。
終わりの日、世界は暗闇でおおわれます。しかし、イスラエルのうちには光があると信じます。それは「主の輝き、主の栄光」です。
そして、今、主の聖徒であるあなたの上にも…
私たちは、ただ「光の中」を生きましょう。
あなたの目は「開かれて」います。あなたは「光の中」にいます。あなたは「神のもと」にいます。
さあ、光の中を歩みましょう。
感謝のない心は闇なのです
愛する兄弟姉妹。
繰り返し言及されていることばに耳を傾けてください。
今回は21節については学びませんでしたが、16章の中に「三回」も、神を冒涜したと言及されています。
終わりのさばきのときの人々の姿を、主は、使徒ヨハネに見せられました。主は、このことを「知らせたい」と望まれたのです。そして、使徒ヨハネは「人々は神を冒涜した」と三回も続けて記しました。
それは、つまり、私たちは、このことを「よく考えるべきだ」ということです。
神を神としてあがめないことは「罪」なのです。
同時に「感謝しない」ということも「罪」です。
なぜなら、神を認めることは「感謝すること」によって表現されるからです。
「神を認めず」「感謝もしない」人の心は「むなしく」なります。
「むなしい心」は「鈍く」なります。そして、「鈍い心」は「暗く」なるのです。
愛する兄弟姉妹。
あなたが「光の中」に生きている証拠は「感謝していること」です。
聖徒は「すべてのことにおいて」感謝するようにと求められています。
これは、闇の中を歩む者にはできない感謝なのです。
「すべてのことにおいて感謝する」ためには「神を神として認めること」が必要不可欠だからです。
苦しみの時、不平不満を持ってしまうことは確かにあります。
しかし、私たちは、感謝しましょう。その状況が理解できなくても「主の真実」が変わらないことを感謝します。
終わりの日の聖徒に求められるのは「感謝して生きる」ということです。
私たちは感謝しましょう。どんなときでも、すべてを支配しておられる全能なる神を信じましょう。
主よ、私は感謝します。
シャロームを祈ります。

