黙示録14:19
御使いは地上に鎌を投げて、地のぶどうを刈り集め、神の憤りの大きな踏み場に投げ入れた。
刈り入れの時は来ます
さて、14章の最後の幻を学んでいきましょう。
14章の最後は「神の憤りの踏み場」の幻です。使徒ヨハネは、地の「刈り入れ」の光景を見たのです。
白い雲の上に座しておられるのは、恐らく、主イエスご自身だと思われます。
ここに記された「金の冠」は、競争の勝者に与えられる「リース」のことです。このことから、これはイエス様ではなく「御使いだ」という人もいます。
まあ、個人的には、イエス様は多くの冠を持っておられるし「金のリース」を持っておられても不思議ではないと思っています。
この方は、白い雲の上に座しておられ「鋭い鎌」を手に持っておられました。
神殿から御使いが出てきます。ですから、この出来事は、15章以降の出来事であろうと思えます。(そのことについては、また15章で学びます)
御使いは大声で叫びます。
「あなたの鎌を送って、刈り取ってください。刈り入れの時が来ましたから。地の作物は実っています」
「実っている」と訳されている語には、「乾燥している」「枯れた」「熟した」という意味があります。穀物が完全に乾燥して、もしくは熟して、収穫期を迎えた状態を表します。
つまり、御使いは「もうこれ以上待てない状態だ」と叫んでいるのです。今すぐに刈り入れなければならない状態だと言っているのです。
ここは、とても難しい箇所ですね。私は、もうずっと考えているのです。
イエス様が「刈り取られた」のは「地」の「何」なのでしょうか。
この後、御使いが「ぶどうを刈り集め」ます。
さて、すこし「ややこしい」ことを言います(笑)
イエス様が「刈り取られた」のは、おそらく「麦」ではないかと個人的には考えます。
そして、御使いが刈り集めたのは、明らかに「ぶどう」です。
「刈り取る」というギリシャ語は「θερίζω(テリゾー)」です。これは、マタイ13章で麦の「刈り取り」に使われている語と同じです。
一方で「刈り集める」と訳されているギリシャ語は「τρύγησον(トリュゲーソン)」です。これは、辞書には「採取する」と載っていました。つまり、何らかの熟した実を「摘み取る」「採り集める」という意味です。
イエス様が「刈り取られた」ものが「麦」であるとは断言できません。この箇所からは、そこまでは分からないのです。しかし、御使いが「刈り集めるもの」とは、明らかに「違う何か」であることは確かです。
おそらくですが…
ここは「二段階のさばき」について記されているのではないかと推測します。
イエス様は、世の終わりの刈り入れについて語っておられます。
世の終わりには、まず「収穫」があります。
地上には「麦」も「毒麦」も育っているのです。それらは「同時に」刈り取られます。
おそらく、その「収穫」をイエス様の鎌が一瞬で行うのでしょう。
そして、次に「取り分ける」という作業に入ります。
「すべてのつまずきと、不法を行う者たち」は、御国には入れません。御使いたちは、それらの人々を「取り集め」ます。
おそらく、それが黙示録で描かれているところの「ぶどうの刈り集め」ではないかと思うのです。
確かに、世の終わりは「収穫の時」です。地上は、すっかり「刈り取られ」ます。
そして、その後で「仕分け」られるのです。
「仕分け」があることは確実です。それは、イエス様が別の言い方で教えておられますね。
人は、いつの日にか、必ず「仕分け」られるのです。
イエス様が刈り取られたものが、正確には何を意味するのかは分かりません。
けれど、確かなことは「終わりの収穫の日」が必ず来るということです。
その日は必ず来ます。
御使いが「ぶどうはすでに熟している」と叫ぶ日は必ず来ます。
もちろん、私たちは、その時「地上にはいない」と私は信じています・
しかし、それでも私たちは、「仕分けられる」ことを心に留めて、今を生きる必要があるのです。
問われるのは愛です
イエス様は、羊を自分の右側に置かれて言われます。
一方で、左にいる者たちには、こう言われます。
さて、考えてみましょう。
羊とやぎの違いは「行いの違い」ということなのでしょうか?
しかし、それでは、私たちが知っている教理と少し違うように思えますね。
「行いによらず、恵みのゆえに信仰により救われる」と私たちは信じています。
もちろん、その通りです。
これは「行い」を羅列しているよううで、実は「生き様」について語られているのです。
それは、羊の返答から明らかです。
羊たちは言います。
彼らは「自分がしていることを知らなかった」のです。
つまり「それとは知らずに行っていた」ということですね。
覚えてください。
それは「愛」なのです。そして「愛」とは「生き方」にあらわれるものなのです。
愛を持っている人は「知らずに御使いをもてなす人」です。
主は、終わりの日、私たちに「愛」を問われます。
主は、あなたに言われます。
「わたしは、あなたを愛している。あなたは、わたしを愛したか?」
もし、あなたが「主を心から愛する」ならば、あなたのうちには「兄姉を愛する愛」が必ず燃え上がります。
もし、あなたが「主を心から愛する」ならば、主が愛されたように愛することができるのです。
主は、あなたの行いではなく「愛」を受け取られます。
「愛」を知る者は「神を知っている者」です。
私たちは、主を愛しましょう。そして、互いに愛し合いましょう。
そうすれば「神の愛が全う」されるのです。
終わりの時代には「愛が冷える」とイエス様は言われました。
主は、この終わりの時代、聖徒の愛が燃えがることを望んでおられます。
主にまみえる日、あなたはきっと言うだろうと私は信じます。
「主よ、いつ私があなたにそれをしましたか?」と。
イエス様は、にっこりと笑って、あなたを迎え入れてくださるでしょう。
私もまた、そうありたいと心から願います。
神の憤りの大きな踏み場
さて、続きを学びましょう。
収穫の幻の後に、とても恐ろしく凄惨な光景が続きます。
ここでは「仕分けられた人々」は「ぶどう」と呼ばれています。
そして、その「ぶどう」は「神の憤りの大きな踏み場」に投げ入れられます。
この場面は、また難解ですね。
使徒ヨハネの「刈り入れ」「刈り集め」の幻が、霊的なものだけではなく「見える世界のもの」でもあるという事実に私たちは直面します。
この箇所のつながりは、本当によく分かりません。ただ、記されていることを単純に追っていくことしかできません。それも時間の流れに従っているのか…、定かではありません。
都の外とは「エルサレムの外」ということです。そこが「神の憤りの大きな踏み場」となるのです。
預言者ヨエルも「来て、踏め」と預言しています。
多くの群衆が「判決の谷」に集まります。
これが「神の憤りの大きな踏み場」です。そして、恐らく「ハルマゲドン」のことを表しているのだろうと思います。
「判決の谷」とは、メギドの丘から見下ろすイズレエルの谷のことかもしれませんね。
千六百スタディオンとは、約300kmのことです。想像を絶する人々の血が流されます。
メギドの丘から、ペトラの遺跡までの距離は約300㎞ですが、あのあたり一帯が赤く染まるということなのでしょうか。終わりの日、あの地域は、神の憤りの大きな踏み場となるのだろうと思います。多くの人の血が流されます。それは、あまり想像したくないほどの凄惨な光景となるでしょう。
主の憤りの激しさを感じずにはいられません。
その憤りは「約300㎞」に渡って流される血によって表されています。
主の御怒りは恐ろしいものです。そこから救われる者は誰もいません。
そして最後にハルマゲドンの審きが預言されます。これは地上最大の戦争で、その死者の血は「千六百スタディオンに広がった」とありますが、一スタディオンは185mですから、290㎞四方で、これは全パレスチナよりも広いのです。サタンに惑わされて、神に逆らう者は哀れです。人間は一刻も早く、神に対して「武器よさらば」しなければなりません。
世の終わりが来る 奧山 実著 マルコーシュ・パブリケーション
私たちは、恵みの時代に生かされていて、主の恐ろしさをあまり感じることがないかもしれません。
もちろん、私たちは御子のうちにある限り、決して御怒りにあうことはありません。
けれど、だからこそ、私たちは「自分がどこから救われたのか」を覚えていなければならないのです。
覚えてください。
あなたが「御怒り」から救われたのは「目を覚ましていても眠っていても、主とともに生きるようになるため」です。
あなたは、誰のために生きているでしょうか?
何のために、何を求めて生きているでしょうか?
主が、あなたのために死んでくださったのは、あなたを御怒りから救うためです。そして、あなたを「得る」ためです。
主は、ご自身のいのちを捨てて、あなたを「得た」のです。あなたは、もはや「自分自身のもの」ではないことを忘れないでください。
愛する兄弟姉妹。
世の終わりは確実に来ます。主は、必ず「怒りのぶどう」を踏まれます。
「罪」を軽々しく扱ってはなりません。「神は愛だから、最後には、みな救われる」などと言う人もいますが、黙示録を学ぶと「それはあり得ない」ことが分かります。
私たちは、主が「救いに入れてくださった」ことを感謝しましょう。
日々、主のみそば近くを歩み、救いをますます確信しましょう。
そして、今、まだ主にお会いしていない人のために心を尽くして祈りましょう。
彼らが、主にお会いできるうちに、主を呼び求めることができるように。
さやロームを祈ります。

