黙示録14:1
また私は見た。すると見よ、子羊がシオンの山の上に立っていた。また、子羊ともに十四万四千人の人たちがいて、その額には子羊の名と、子羊の父の名が記されていた。
問題は「刻印」が何かではないのです
前回では、一応、13章の終わりまで進みました。今回は14章の学びに入ります。
けれど、13章の最後の部分について、もう少し一緒に考えてみたいと思います。
「地から上って来た獣」は、「致命的な傷が治った最初の獣」を拝ませます。
世界中の人々に「獣を礼拝すること」を強要するのです。前回も言いましたが、この「強制」は、意外とすんなり受け入れられるのではないかと私は考えます。
恐らく、この時点において全世界の人々がすでに「惑わされている」と思うからです。
恐ろしいことが起こります。
すべての人が「獣の刻印」を受けさせられます。「獣の名」を刻まれるのです。それは「獣の所有」であることを意味します。
すでに人々は、獣礼拝し、その心に獣を据えています。しかし、獣は、それだけでは満足しません。獣は、世界中の人々の「いのち」そのものを手中に収めようとするのです。身も心も支配するつもりなのです。
人々は「売り買い」を支配されます。彼らは、自分たちが「支配されている」とは思わないかもしれません。けれど、食料や生活必需品を「売り買い」することに「獣の刻印」が必要なのです。それは「生きること」を支配されているのと同じです。
実際に、この時代の聖徒たちは、当然「売り買い」することはできないでしょう。
彼らは「決断」を迫られます。それは、文字通り「死かいのちか」の選択です。大患難時代にイエス様を信じることは、この世における「死」を意味します。
イエス様のこの御言葉が、彼らの「日常」を表すものとなります。
私たちは、今、この時代の日本に生かされていて「死かいのちか」の決断を迫られることは滅多にないでしょう。
しかし、だからこそ今一度「信仰」について考えなければならないと切に思います。
多くの人が「獣の刻印」とは何だろうと考えるでしょう。もし、それが「何であるか」分かれば「避けられる」と考える人もいるでしょう。ですから、終わりの時代には「識別力」が大事なのだと言う人もいます。
確かに「識別力」は大切です。私たちは、愛に基づく識別力を求めましょう。
しかし、私は、たとえ刻印が「何であるか」を知ったとしても、避けることができるとは限らないと思うのです。
蛇がエバに言ったことを思い出します。
エバは「善悪を知る知識の実」を食べてはならないと知っていました。
そして、どれが「善悪を知る知識の実」であるかも知っていました。
しかし、結局、彼女はそれを食べたのです。
なぜでしょう?
それは、蛇が「あなたがたは死にません」と言ったからです。
つまり、エバは「食べると死ぬから食べてはならない」と思っていたということです。
蛇は、とても優しく「エバの不安を解消」しました。
「そう、あなたは死ぬかもしれないと心配しているのですね。大丈夫ですよ。あなたは死にません。だからね、食べても大丈夫ですよ」
もし誰かが「罪を犯したら救いを失うから、罪をおかしてはならない」と考えているならば、その人を罪の虜にするのは簡単なことです。
サタンは、恐怖を持って近づいては来ません。優しく柔和にやって来ます。あなたの「不安」を解消する甘い言葉をささやくでしょう。
もう一度、イエス様の言われたことを聞きましょう。
「自分のいのち」を救おうと思う者は「失う」のです。
私が「死なないため」に「罪を犯さない」と決めるなら、私は「いのちを失う」でしょう。サタンは、私に「あなたは死にません」と言って来るでしょうから。
私はいとも簡単に「死なないなら大丈夫だな」と妥協することでしょう。それが、エバの犯した罪なのです。
大事なことは「自分のために」なのか「イエス様のために」なのかということです。
イエス様は「わたしのために」と言われました。
大患難時代の聖徒たちは「イエス様のため」に「いのちを失う」でしょう。そして、もちろん彼らは「まことのいのち」を得るのです。
私はどうだろうか…と考えずにはいられません。
いつの時代であっても「主のみことば」が求めていることは変わりません。
私は、心から「生きることはキリスト」と言えるだろうかと思うのです。
私は、今も働いている「不法の秘密」に惑わされたくはありません。大患難時代、人々を惑わし「獣の刻印」を受けさせる霊は、今も働いているのです。
私たちは、今一度、「誰のために」生かされているのかを確認せねばなりません。
私も「イエスの焼き印」を帯びた者として生きたいと思うのです。
私たちは「神の所有とされた者」として、ただ主のために生かされているのです。
子羊がシオンの山に…
さて、14章に入りましょう。
この章が「幕間の章」であることは確かです。これは「続き」ではありません。「いつ」のことが記されているのかは定かではありません。14章に記されているいくつかの幻も「順番通り」に起こるものではなさそうです。
これは、もちろん13章の続きではないのです。
しかし、私は13章の後に、この14章が挿入されていることがとても嬉しいのです。
「子羊がシオンの山の上に立っていた」ということばを見て、ついつい泣きそうになりました。
地上では、獣どもが好き勝手に振る舞っています。聖徒は倒され、人々は獣を礼拝し刻印を押されていきます。
どこにも救いがないような中で「主よ、どこにおられるのですか」と叫びたくなるような時…
主は「ここに」おられました。
黙示録を学ぶと、主が「ここにおられる」ということが確信として迫ってきますね。どんなに悪しき者が横行しようとも、どれほど暗い道であっても…
主は「もうだめだ」と思う時、必ず、その臨在を現わしてくださいます。主は決して「遅れる」ことはありません。主の「時」は完全です。
私たちは「決して失望に終わることはない」のです。私たちは信じましょう。信じて進み続ける力を、私は黙示録からもらいます。
それでは、14章の内容を見ていきましょう。
イエス様は「シオンの山」に立っておられます。つまり「エルサレム」におられます。
「子羊」として立っておられることには、何か意味があるのだと思いますが、はっきりとは分かりません。ただ、13章の獣どもとは「対照的」なお姿であることは確かです。
子羊であるイエス様と一緒にいるのは「十四万四千人の人々」です。
この人々の額には「子羊の名と子羊の父の名」が記されています。これも、獣の刻印とは対照的ですね。
使徒ヨハネは、最初「大水のとどろき」「激しい雷鳴」のような声を聞きました。
それは、地響きを伴うような轟音であったのでしょうか。しかし、その声は「歌」であったとヨハネは言います。聞いているうちに「歌声」であったと分かったのでしょうか。しかも、竪琴に合わせて歌う声であったと言っています。
さてさて、一体、彼らは「どこ」にいるのでしょう。
「シオンの山」は地上ではないのでしょうか?
彼らは、今「御座の前と、四つの生き物および長老たちの前」で歌っています。
彼らは「天」にいるのでしょうか。それならば「シオンの山」は天のエルサレムのことなのでしょうか。
もしかすると、地上の「シオンの山」の上に「天が開けている」のかもしれませんね。
ある人は「この場面はすべてが終わった後、千年王国の始まりの幻だ」と言います。なるほど、もしかするとそうなのかもしれません。
彼らはすでに「地上から贖われた人々」ですから、その可能性もありますね。
彼らは「地上から贖われた十四万四千人」です。
おそらく「黙示録7章」に登場した「十四万四千人」と同じ人々なのだろうと思います。
しかし、多くの注解者たちは「これは別の十四万四千人だ」と言っています。確かに、相違点もありますからね。絶対に7章の人々と同じであると断定はできません。ただ私は、個人的に同じ人々であろうと思っているのです。
もし、これらの人々が「額に印を押された十四万四千人」だとすれば、この終わりの時代に「ひとりも欠けることなく」守られたのだということになります。
私は、ここで「ダニエルの三人の友人」を思い起こします。
私は、聖書の歴史は繰り返すと信じています。つまり、旧約聖書の人々の経験や記されている出来事は、何らかの「予型」であると信じているのです。
そして、この「子羊と立っている十四万四千人」を見るとき、ダニエル書を思い起こさずにはいられないのです。
ネブカドネツァル王が造った「金の像」を、ダニエルの三人の友人は拝みませんでした。
「形だけでもひれ伏せばいい」という誘惑を拒否し、彼らは断固としてひざをかかがめることを拒否しました。
「十四万四千人の人々」も同じです。世界中がこぞって「獣を礼拝」している中、彼らは、決して妥協しません。
獣はネブカドネツァルと同じように「激しく怒る」ことでしょう。激しく迫害するかもしれません。
ネブカドネツァルは、あまりの怒りに「通常の七倍熱い炉」に三人を投げ込んだのです。
しかし、投げ込んだ後、それを見ていた王たちは動揺することになります。
三人の聖徒は「何の害も受けていない」ように見えました。実際、彼らの服も髪の毛すらも焦げることはありませんでした。
注目すべきは「火の中」です。
そこには「三人以外の第四の人」がいました。
それは、御使いであったのでしょうか。もしかすると、主ご自身であったかもしれません。
主の超自然的な守りのゆえ「七倍熱い燃える炉」の中で「何の害も受けず」立っていることができたのです。
終わりのとき、十四万四千人の人々にも「同じこと」が起こるのだと私は信じています。
たとえ火の中を歩いても…
確かに「獣は聖徒に打ち勝つ」でしょう。殉教する人々もいるでしょう。
しかし、それでも、主は彼らとともにおられます。
十四万四千人がどのように守られるのかは分かりません。ひとりも失われないとは驚くべきことです。多くの奇跡が起こるはずです。
希望の光が見えない時代…
けれど「希望」が失われたわけではありません。
見えないものを見るようにして、見えないものを確信して、彼らは信仰によって歩むでしょう。
愛する兄弟姉妹。
いつの時代も同じです。聖徒はみな「信仰によって生きる」のです。
あなたの敵が「おまえの神はどこにいるのか」とささやいても、耳をかしてはなりません。
主は「ここに」おられます。
あなたは「水の中」を過ぎているのでしょうか。息苦しさを感じ、前に進むことのできないもどかしさの中、それでも歩いているのでしょう。
あなたは「火の中」を歩いているのでしょうか。金が練られるように「精錬の訓練」を受けているでしょうか。
主は、あなたのそばにおられます。
「主よ、どこにおられるのですか」と叫びたくなるとき、どうか思い出してください。
主は「ここに」おられます。主は、すぐそばにおられるのです。
燃える炉に投げ込まれた三人とともにおられたように…
大患難時代の十四万四千人とともにおられるように…
過去にも未来にも、主は聖徒とともにおられます。
そして、もちろん「今」ここに、主はあなたとともにおられます。
主をほめたたえよ。主のすべての聖徒たちよ。日ごとに仕える者よ。
私たちは「たとえそうでなくても」と言って偶像礼拝を拒否した「あの三人」に倣いましょう。
大患難時代に獣礼拝をいのちをかけて拒否する聖徒たちを思いましょう。
今、私たちは信仰によって歩んでいます。過去から続く信仰の歩みに連なっています。そして、この信仰が先の時代へと続くことを夢見ています。
私たちは、今、心を尽くし、すべてを尽くして、ただ主だけに従う者でありましょう。
シャロームを祈ります。

