黙示録14:12
ここに、聖徒たち、すなわち神の戒めを守り、イエスに対する信仰を持ち続ける者たちの忍耐が必要である。
超自然の思考回路が必要です
前回は「永遠の福音を携えた御使い」が中天を飛んでいる姿を見ました。
永遠の福音を携えている御使いは大声で叫んでいました。
神のさばきのときが来たのです。永遠の福音が語られてから、どれほどの時間が地上に残されているのかはわかりません。
ただ使徒ヨハネは、幻の中では、このすぐ後に「第二の御使い」が叫ぶ声を聞いています。
大バビロンとは、黙示録17章に登場する「緋色の獣に乗っている女」のことです。
この「忌まわしいものの母」である大バビロンについては、また17章と18章で詳しく学びます。
今は、ただ、神のさばきの時に「大バビロン」と呼ばれる大きな都が倒れるのだということを覚えていてください。大バビロンと呼ばれる都は、主イエスが再臨される前に、獣たちよりも先に倒されることになります。
大バビロンは、地に住む人々に「淫行のぶどう酒」を飲ませたと言われます。世界中の人が、この都によって「偶像崇拝」に陥ったと言う意味でしょうか。「ぶどう酒」という語が使われていることに、何らかの意味が込められているのか、とても気になるところですね。しかし、今回は考察しません(笑)
「御怒りを招く淫行のぶどう酒」を飲む者は、「混ぜものなしの神の憤りのぶどう酒」を飲むことになります。
世の人々は「死んだら終わりだ」などと言います。
しかし、聖書には「死後の世界があるのだ」とはっきり記されています。
死後の世界は存在します。イエス様なしで「死」を迎えるならば、そこに待っているのは「世々限りなく立ち上る苦しみの煙」です。
「獣の名」を受けることを軽々しく扱うことはできません。
「誰の名」とともに生きるのかが、永遠の行き先を決定します。
イエス様しかないのです。この方の御名のほかに「救い」を与える名は存在しないのです。
しかし、終わりのとき、人々は「生きるため」に「獣の名」を刻印します。彼らは、その他に「選択肢」があるとは思えないからです。売り買いができなくなったら「生きていくことができない」と考えるのが「普通」の思考回路だからです。
ですから、愛する兄弟姉妹。
キリストにある聖徒はみな「普通の思考回路」を捨てねばなりません。
私たちは「超自然の思考回路」によって生きることを学ばねばなりません。
イエス様は、三年半の地上生活の間、弟子たちにそのことを教えられたのです。弟子たちは「普通ではない先生」から「普通では考えられないこと」を学んだのです。
黙示録に記される「患難時代」は、突発的に現れる特異な時代ではりません。
「今」は、その先の未来に続いています。反キリストが「物流」を支配する時代に「徐々に」なっていくのです。世界は、反キリストが登場する舞台を整えつつあります。
私は、令和の米騒動でそれを痛感したのです。米がスーパーに並ぶようになって、私たちは少し「あの騒動」を忘れかけています。しかし、今後、恐らく似たようなことが「さまざまな物と事」に関して起こるでしょう。
「あれが足りない」「これが枯渇する」という話題が、噂も含めて絶えることはないでしょう。
実際、私たちは「欠乏」を感じるようになるかもしれません。
そして、そのようなときこそ「何によって生かされてあるのか」が問われます。
世の中に「飢饉」が来る前に、聖徒はそれに備える必要があります。
人々が「目の前の欠乏」に怯えるとき、聖徒であるあなたは「満ち足りて」いなければなりません。
実際の飢饉が来る前に、まず「みことば」を蓄えなさい。
あくまで個人的な感覚ですが…
私は、世界的に、ますます「物」が欠乏するだろうと思います。しかし、それと同じように「みことばの飢饉」もやって来ると思うのです。
情報が溢れ返っている時代に「みことばの飢饉」が来るとは信じられないかもしれません。
しかし、私は「それは実際にもう起こり始めている」と思っています。
エジプトのヨセフを思い出してください。
七年間の豊作の間、ヨセフは「蓄える」ことに集中しました。それは何故でしょう。
それは、確実に訪れる「七年間の飢饉」を耐え抜くためです。それも、ただ耐え抜くだけではなく「すべての人」に分け与え、ともに生き延びるためです。
今、あなたの目の前に「みことば」が開かれているのは何のためでしょう。
今、あなたが「学ぼうと思えば学べる」という状態に置かれているのは何故でしょう。
主は、あなたに「みことばを蓄えて欲しい」と願っておられます。
主は「飢饉が来たときに分け与えることのできる人」を求めておられます。
辛うじて「生き延びることのできる人」ではなく「分け与えて生かす人」を捜しておられます。
覚えてください。
「みことばを蓄える」とは「生きる糧を増やすこと」です。
それは、ただ知識を増すだけのことではありません。実際に「みことばを糧として生きること」です。
イエス様が弟子たちの「心を広げた」ように、あなたの「心」も広げられる必要があります。
みことばによって「生きる」ことを学ぶのです。
五つのパンと二匹の魚で五千人を養うことができるという「超自然の思考回路」を身に着けることです。
エリヤがカラスによって養われた奇跡を…
ペテロが水の上を歩いた奇跡を…
ラザロがよみがえった奇跡を…
聖書に記されている「すべての奇跡」を心に刻みつけましょう。それが「みことばを学ぶ」ということです。
私は「みことばの飢饉」の本当の意味は「みことばによって生きることができなくなること」ではないかと思います。
いくら聖書の内容に通じていても、どれだけ知識をもっていても「みことばによって生きる」ことができないならば「糧」ではないのです。
おそらくキリスト教徒と呼ばれていても「みことばを糧」として歩める人は少なくなるのでしょう。
「みことばを糧」とすることを知らないならば、私たちは「見えるもの」に屈服するしかありません。
私たちは実際に「獣の名を刻印」することはないでしょう。しかし、どうでしょう?
あなたは「誰の名を心に刻印」していますか?
イエス様の御名だけが「救いの御名」だと心から確信しているでしょうか。
あなたは「何によって」生かされていますか?
目の前の「物と事」が失われれば、あなたの「いのち」も失われるのでしょうか?
「超自然の思考回路」を、今、この瞬間から求めて歩みましょう。
私たちは「イエスの御名」を信じましょう。
見えるところが「すべて」ではないのです。
常に「信仰によって」「見えない方を見るようにして」歩むことができるのです。
私は「聖書に記されている奇跡が今も起こる」と信じます。
私たちは「みことばを生きる」ことができるのです。
私たちは「みことばに生かされている」のです。
「神の口から出る一つ一つのことばによって生きる」と宣言する人こそ、この世の君に打ち勝つ者なのです。
平安と忍耐はともに働きます
もう一度、黙示録14章11節を読みましょう。
「獣とその像を拝む者、刻印を受ける者」には「安らぎ」がないと黙示録は言います。
彼らには「昼も夜も安らぎがない」のです。
いのちを延ばすため、安心して暮らすために「獣を選んだ」のに、彼らは決して「安らぎ」を得ることはできないのです。
必要なのは「忍耐」です。
「忍耐」というのは聖書全体の「キーワード」のように思えますね。
アブラハムを始めとし、聖徒はみな「忍耐」を学んできました。
終わりの時代、本当の終わりを生きる人々もまた「忍耐」を学ぶのです。彼らは「死に至るまで忠実である」ことが求められるのでしょう。
主は、スミルナの教会に約束されたことを、この時代の聖徒にも約束されるでしょう。
最後の三年半、多くの聖徒が苦難にあいます。そして、多くの聖徒が殉教します。
多くの「主にある死者」が「いのちの冠」を受けます。
多くの聖徒が「労苦から解き放たれて安らぎ」ます。
獣の刻印を受けた者と「主イエスの焼き印」を帯びた者との最大の違いは「安らぎ」です。
「だれでも獣の名の刻印を受ける者には、昼も夜も安らぎがない」しかし、主の焼き印を帯びている者は「その人たちは、その労苦から解き放たれて安らぐ」のです。
覚えてください。
神の国の特徴は「平安」なのです。
イエス様は言われました。
黙示録を学んでいると、少し恐ろしく感じてしまうことがありますね。
私も「死に至るまで忠実であれ」などと言われると震えあがります。「殉教列伝」を読むと「心が燃える」という信仰の勇者もいますが、私は怖気づいてしまいます(笑)
けれど、それでも私は信じています。
本当に「忍耐」が必要なときには、必ず「御霊の御力」によって支えられると。
私たちには「約束」があります。
イエス様のもとに走って行けば「休ませてもらえる」という約束です。
そして、イエス様のくびきを負って、イエス様から学ぶなら「安らぎ」を得るという約束もあります。
「忍耐」する最大の秘訣は、常に「主のもとにある」ということなのです。そうすれば「超自然的な平安」が必ず与えられるのです。
昔の殉教者たちの話を読むのは得意ではありませんが、いくつかは読みました。聖徒たちは、様々な方法で死を迎えました。しかし、みなに共通して言えることは「誰も見苦しく騒ぎ立てなかった」と言うことです。
ある兄弟は、賛美を口ずさみながら火刑に処されました。
ある姉妹は、獅子の前に放り出される時、まず服の乱れを整えました。「王の王にお会いするのだから」と言ったそうです。
私は、殉教者たちの話を読むたびに驚きに満たされます。「なぜ、このように死を迎えることができるのだろう」と不思議に思います。
それはまさに「超自然的」と言うほかありません。
殉教する直前、ステパノの上には「天が開けて」いました。
ステパノは「神の右に立っておられるイエス」を見たのです。そして、おそらく、そのまま見続けました。
飛んで来る石ではなく「主イエス」に目を注ぎ続けただろうと私は信じます。
ゆえに最後に祈ることができたのでしょう。
これは、十字架上のイエス様の祈りのようですね。
このような祈りをささげることができるなんて「超自然的なこと」だと思いませんか。
もちろん、ステパノは「立派な信仰者」でした。しかし、それだけでは説明がつかないでしょう。
聖霊に満たされ「主イエスを見つめていた」こと…
それしか理由が思いつきません。
あなたの平安を奪うものは何ですか?
あなたは、なぜ安らぐことができないのでしょう?
彼らを「超自然の平安」で包まれた方は、今、あなたに同じことをしてくださらないでしょうか?
どうか覚えてください。
あなたの平安を奪うのは「イエス様」ではありません。イエス様は、決して、あなたから安らぎを取り上げられません。
あなたの平安を奪うのは「物と事」ではありませんか?
あなたから安らぎを取り去るのは「この世」ではないですか?
「物と事」から目を離しなさい。「この世のもたらすもの」を手放しなさい。
「飛んで来る石」ではなく「神の右に立っておられるイエス様」を見つめなさい。
「忍耐」と「平安」はともに働きます。
もし「平安」が失われれば「忍耐」を続けることは不可能でしょう。
「忍耐」を得たいなら、まず「平安」を得ることです。
決して奪われることのない「平安」は、主イエスのもとに行くときにだけ得られます。
イエス様のくびきを負い、イエス様に学ぶなら「安らぎ」を得ます。
その「くびき」がどれほど「重い」ように思えても、その「安らぎ」の中で「軽く」なります。
重要なことは「くびき」や「荷」が何であるかではありません。
最も重要なことは「主イエス」のもとに行くことです。そして「主イエス」だけを見つめることです。
そうすれば、あなたが負うのは「主イエスのくびき」「主イエスの荷」です。
平安のうちを歩みなさい。そうすれば、必ず最後まで歩き続けられます。
必要なのは「超自然の平安」の中で「忍耐」することなのです。
シャロームを祈ります。

