No.650 私は幸いな人として生きたいのです

羊が帰る

詩篇1:1
幸いなことよ。
悪しき者のはかりごとに歩まず
罪人の道に立たず
嘲る者の座に着かない人。

幸いな人とは…

幸いな人とは「悪しき者のはかりごとに歩まない人」です。

詩篇10:4
悪しき者は高慢を顔に表し 神を求めません。「神はいない。」これが彼の思いのすべてです。

「悪しき者」とは、神を求めない人のことです。「神はいない」と思っている人のことです。

愛する兄弟姉妹。

「神はいない」と思っている人たちの「はかりごと」に歩んではなりません。

「はかりごと」とは「助言」「計画」「相談」「思考」などと訳すことができます。

これは「悪巧み」に限ったことではないのです。

「神はいない」と言う人々と「同じ価値観」「同じ基準」を持ってはならないということです。

「歩く」とは「生き方」のことです。彼らと仲良く「同じ方向」に歩いて行ってはなりません。

幸いな人とは「罪人の道に立たない人」です。

あなたは「どこに立って」いますか?

「立つ」とは「立ち位置」のことです。どちらの側に立っているのかということです。

もし、あなたが「世の価値観」によって歩んでいるならば、それは「神の小道」ではありません。

多くの人が行く「広い道」です。

幸いな人とは「嘲る者の座に着かない人」のことです。

「嘲る者」とは「嘲笑する人」「神の道を冷笑する人」のことです。

「座に着く」とは「住む」「定住する」「腰を落ち着ける」とも訳せます。

もし、私たちが、悪しき者と価値観を共有し、そちら側に立ち続けるならば、最終的には「そこに住む」ことになるでしょう。

これは、まさにロトの人生を表わしているように思います。

ソドムの人々の中で、ロトは「心を痛め」ながら暮らしていました。しかし、それでも「ソドムを出よう」とは考えなかったのです。それは、ソドムは暮らすのには「良い所だ」と思っていたからです。

つまり、ロトの価値観は「神はいない」と言っている人々と同じであったということです。

ロトは、ソドムに天幕を移し、最終的には「門のところに座る」までになりました。ロトは、ソドムの町で「ひとかどの人物」として認められていたようです。ロトは、誰から見ても「立派なソドムの人」でした。

彼の暮らしは「良かった」と私は思います。

しかし、どうでしょう?

ロトは「幸いな人」だったでしょうか?

ロトは、主のあわれみのゆえに救い出されます。そういう意味では「幸い」だと言えるかもしれません。

しかし、お世辞にも「幸せな人生だったね」とは言えませんね。

創世記25:8
アブラハムは幸せな晩年を過ごし、年老いて満ち足り、息絶えて死んだ。そして自分の民に加えられた。

カナンの地で、アブラハムは「幸せな晩年」を過ごしました。彼は「幸いな人」です。

詩篇1:1
幸いなことよ。
悪しき者のはかりごとに歩まず
罪人の道に立たず
嘲る者の座に着かない人。

私たちは、幸いな人として生きましょう。

私は世の型にはまりません
私は「神の小道」を歩みます
私はキリストとともに「天上に座る者」です