創世記3:6
そこで女が見ると、その木は食べるのに良さそうで、目に慕わしく、またその木は賢くしてくれそうで好ましかった。それで、女はその実を食べ、ともにいた夫にも与えたので、夫も食べた。
すべてが良く見えました
エバが見た「善悪の知識の木」は、とても素晴らしく見えました。
それもそのはずです。主が、園の中央に置かれた木なのですから、立派な木であったに違いありません。
それは、見るからに好ましい木でした。
エバは「食べるのに良さそうだ」と思いました。とても美味しそうに見えたのです。
「目に慕わしく」とは、とても強く引きつけられたという意味です。その実は、エバを引きつけました。彼女はどうしても「欲しい」と強く思ったのです。
しかも、その木は「賢くしてくれそう」で好ましかったのです。
私たちは、エバの行動が過ちであったと知っています。
ですから「ああ、こんなものに騙されて」と思うのです。また「もっと、神様のみことばに注意を払わなきゃね、エバはみことばを中途半端に覚えていたのね」などと思います。
しかし、これを自分自身に置き換えて考えてみてください。
あなたの目の前に「見たことのない木の実」が置かれているとしましょうか。
それは、「良さそう」に見えます。とても「良い香り」がします。あなたは「美味しそうだな」と感じます。
しかし、たいていの人は、それだけでは「木の実」を手に取らないものです。見知らぬものには警戒心が働きますからね。
けれど、TVやSNSで、その木の実が話題になっていたとしたらどうでしょう?
「この木の実は、とても栄養価が高く、若返りの効果があるのです」などと宣伝していたとしたらどうでしょう?
「健康効果があるなら食べてみようかな」と多くの人が手に取ってしまうのではないでしょうか?
ただ「良いもの」というだけでは、あなたは飛びつかないかもしれません。けれど「有益だ」と言われたならどうでしょうか?
それは、エバに起こったことと同じなのです。エバも「賢くする効果」を期待して、その実を食べたのです。
サタンの策略は、昔から変わらないと言われます。それは、なぜでしょう?
それは、変える必要がないからです。つまり、人が「同じ策略にかかり続けているから」です。
覚えてください。
善悪の知識の木は「良いもの」なのです。主が造られた立派な木なのだから当然です。サタンは、主が造られた「よいもの」を用いるのです。
良さそうであっても、慕わしく見えても、それが「みこころ」であるとは限りません。
たとえそれが、実際に「益をもたらすもの」であったとしても、「みこころ」であるとは限らないのです。
敵は必ず言うでしょう。
「神は、あなたに良いものをくださるはずではありませんか。この良いものを選びなさい」
「こんなに役に立つのに神が禁止するでしょうか。役に立つ方を選びなさい」
「良い」か「慕わしい」か「益になる」かで、「みこころ」をはかるのはやめなさい。
主のみこころは「みことば」によって確認されるものです。
エバは、サタンではなく、主なる神と会話するべきだったのです。
私たちは「物と事」から目を離しましょう。私たちは、主だけを見つめましょう。
私は「良いもの」ではなく、常に「良い方」を選びたいのです。
主よ、あなたのみこころを教えてください
私は、良いものではなく良い方を選びます
私は、主とともに歩みます

