【黙示録19章11節~21節】獣と偽預言者の最期

再臨を待つ

黙示録19:11
また私は天が開かれているのを見た。すると見よ、白い馬がいた。それに乗っている方は「確かで真実な方」と呼ばれ、、義をもってさばき、戦いをされる。

天が開かれているのを見ます

使徒ヨハネは天が開かれているのを見ます。

黙示録19:11
また私は天が開かれているのを見た。すると見よ、白い馬がいた。それに乗っている方は「確かで真実な方」と呼ばれ、義をもってさばき、戦いをされる。

黙示録4章で、使徒ヨハネは「開かれた門が天にある」のを見ました。そこから、この黙示録の偉大な幻が啓示され始めました。

しかし、今回は、それとはまるで違うのです。

「天にある門」だけでなく「天そのもの」が開かれるのです。ヨハネは「天が」開かれるのを見たのです。

恐らくですが、このとき、地上に残されている人々も、ヨハネと同じ光景うを見るだろうと私は思います。

これは、聖徒たちには輝かしい日です。しかし、地上の人々にとっては、恐怖の日です。また、イスラエルにとっては嘆きの日となります。

ゼカリヤ12:10
わたしは、ダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵みと嘆願の霊を注ぐ。彼らは自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見て、ひとり子を失って嘆くかのように、その者のために嘆き、長子を失って激しく泣くかのように、その者のために激しく泣く。

この日、イスラエルは自分たちが突き刺したのが「わたし」と言われる主であることを知ります。彼らは、激しく嘆くことになります。

天が開け、白い馬が現れます。もちろん、その馬に乗っておられるのは、私たちの主イエス・キリストです。

この日、イエス様が降り立たれるのは「オリーブ山」です。

ゼカリヤ14:4
その日、主の足はエルサレムの東に面するオリーブ山の上に立つ。オリーブ山はその真ん中で二つに裂け、東西に延びる非常に大きな谷ができる。山の半分はきたへ、残りの半分は南へ移る。

主は、一度目に地上に来られたときは、ひっそりと静かに来られました。マリアとヨセフと羊飼いたちぐらいしか、その誕生を知りませんでした。

しかし、二度目は「天が開け」人々がその来臨の御威光をはっきりと見ます。また「オリーブ山が避ける」ほどの衝撃が地上に起こるのです。

主は「確かで真実な方」として地上に戻って来られます。

Ⅱコリント1:20
神の約束はことごとく、この方において「はい」となりました。それで私たちは、この方によって「アーメン」と言い、神に栄光を帰するのです。

私たちは、聖書に記されている預言が「ことごとく」成就するのを見ます。すべてが、イエス様において「はい」つまり「確定」なのです。

イエス様の初臨の預言がすべて成就したように、再臨の預言も「ことごとく」成就します。終わりの日の預言は「ことごとく」成就するのです。

その日、「確かで真実な方」と呼ばれるイエス様は、今も「確かで真実」です。

「確か」とは「信頼できる」という意味です。

また「真実」とは「本物の」「偽りのない」という意味です。

愛する兄弟姉妹

惑わす者が横行する世の中で、私たちは時々、何を信じていいのやら不安になってしまいますよね。

何が本当で、何が偽りなのか…

騙されまいと一生懸命になると、心が固く冷たくなっていくような気がします。

私は時々、何もかもが「欺瞞」に見えてしまうのです。

けれど、覚えてください。

あなたには「確かで真実な方」がおられます。

主は、あなたに約束されたことを必ず守られます。人は「うそ」をつきますが、主は「偽ること」がお出来になりません。主は、あなたを決して騙すことはされません。

何が「本物」で、何が「偽物」なのか分からなくなって混乱してしまう時は、すべての「物事」から目を離しなさい。そして、ただ一人「完全」である方にしがみつきなさい。あなたの両手を「世」から離して、主を掴むのです。そうすれば、偽物を掴む心配はなくなります。

主は、終わりの日、義をもってさばかれます。主は、戦われます。

その「さばき」と「戦い」もまた「確かで真実」なのです。

主イエスの再臨の目的

使徒ヨハネは続けて、再臨のイエス様の姿を記しています。

黙示録19:12
その目は燃える炎のようであり、その頭には多くの王冠があり、ご自分のほかはだれも知らない名が記されていた。

主の目は「燃える炎のよう」であることは、黙示録の最初から変わりません。それは「愛の炎」であり「怒りの炎」です。すべてを見通す目であり、その目から隠されているものは一つもありません。

また、主は「多くの王冠」を持っておられます。

わざわざ「冠」ではなく「王冠」と訳されているのは、その冠が「権威者の冠」だからです。私たちが、報酬としていただく「冠」は、競争者の「勝利」を表わすものですが、イエス様の冠は「権威」と「支配」を表わすものです。

主は、統治者として来られます。すべてを治めるために来られるのです。

主イエスの再臨の目的について、栄子・スティーブン師が5つにまとめておられますので引用したいと思います。

◆イエス・キリストの再臨の五つの目的について
1.イスラエルの民を敵から守られるため
2. ダニエル書の預言の70週に終止符を打つため
3. 罰すべき者を罰するため
4. 「異邦人の時」に終止符を打つため
5. イエス・キリストが支配する神の御国、メシア王国(千年王国)の到来のため
(イエス・キリストはもう一度再び来られる 栄子・スティーブンス著 オメガ出版)

主イエスは、完全な権威をもって「全世界」を治められます。イスラエルは、よみがえられたメシアであるイエス様によって統治されます。もう、人間の「王」が治める時代は終わります。

燃える炎のような目を持ち、統治者の王冠をかぶられる方には「だれも知らない名」が記されていました。

この御名は、主イエスご自身のほかは「だれも知らない」のです。

神秘的ですね。これが何を意味するのかは、だれにも分かりません。それは「今は」分からないのか、それとも「永遠に」分からないのか…、それも分からないのです(笑)

しかし、このことは私をワクワクさせます。

「天国で永遠の間、いったい何をするのか?」と言った人がいましたが…

永遠という理解できない状態の中にあっても、これだけは確実だと言えることがあります。

それは、私たちは決して退屈することはないと言うことです。

私たちは「今」は分からないことが分かるようになります。主と「顔と顔」を合わせて会うことができます。

Ⅰコリント13:12
今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、そのときには顔と顔を合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、そのときには、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。

私たちは「完全」に知ることになります。それは、とても楽しみなことです。

しかし、それは「神秘」がなくなることではないと私は思います。

イエス様は「だれも知らない名」をお持ちです。その御名が啓示されるかは分かりませんが、関係の中で開かれていく啓示は、きっと、まだまだあると思うのです。

この「完全に知る」と言うことについては、まだまだ言い足りませんが、黙示録の学びからは外れてしまうので、また別の機会にしましょう。

ただ私は楽しみなのです。とてもとても待ち望んでいるのです。

主が、再び来られます。必ず来られます。主は、統治するために来られるのです。

ユダ14-15
アダムから七代目のエノクも、彼らについてこう預言しました。「見よ、主は何万もの聖徒を引き連れて来られる。すべての者にさばきを行い、不敬虔に生きる者たちのすべての不敬虔な行いと、不敬虔な罪人たちが主に逆らって語ったすべての暴言について、皆を罪に定めるためである。」

主が引き連れて来られる何万もの聖徒とは誰でしょう?

それは、携挙された聖徒たち、患難時代に殉教した聖徒たち、今すでに眠ってしまった聖徒たちであると私は信じています。もちろん、あなたも私も、必ず、その中にいるはずですね。

口から鋭い剣が

イエス様は、白い馬に乗っておられます。しかし、その衣は血に染まっています。

黙示録19:13
その方は血に染まった衣をまとい、その名は「神のことば」と呼ばれていた。

主イエスの衣は「すでに」血で染まっています。

地上最後の戦いは「まさに」始まろうとしていますが、その「勝敗」はすでについているのです。

主は、すでに勝利された「王の王」として来られたのです。

黙示録19:15~16
この方の口からは、諸国の民を打つために鋭い剣が出ていた。鉄の杖で彼らを牧するのは、この方である。また、全能者なる神の激しい憤りのぶどうの踏み場を踏まれるのは、この方である。その衣と、もものところには、「王の王、主の主」という名が記されていた。

血に染まった衣を見てください。もうすでに「怒りのぶどう」を踏まれた後なのです。

もしくは、その「血」は殉教者たちのものかもしれません。今まで不当に流されたすべての血を、主は決して忘れられません。

また、ある学者さんたちは、これを「十字架の血」であると解釈します。そこに、すべての勝利があるからです。

いずれにせよ、そこには「王の王、主の主」と記されています。戦いの後に「王の王、主の主」となられるのではありません。主は、このとき「王の王、主の主」としてさばきを宣告されるのです。

主の口からは「鋭い剣」が出ているとヨハネは記しています。そして、この方は「神のことば」と呼ばれていたとも言っています。

この地は、主の「みことば」によって造られました。ですから、最後も「みことば」によって宣告されるのです。

「神のことば」は「鋭い剣」です。主は「みことば」によって、諸国の民を打たれるのです。

決着はすでについています。しかし、獣と偽預言者は、とても諦めが悪いようです。

黙示録19:19
また私は、獣と地の王たちとその軍勢が集まって、馬に乗る方とその軍勢とに戦いを挑むのを見た。

見えない霊的な存在と、地上の軍勢がどのように戦うのかという意見もありますが…

私は、このとき、彼らには「白い馬に乗る方」と「その軍勢」が肉の目で実際に見えるのだろうと思います。

さて、私たちは、ここまで黙示録を学んで来ました。

この19章で大患難時代は終わりです。患難時代に起こる恐ろしいことをずいぶんと呼んできました。

しかし、そのような恐ろしい出来事の終わり、つまり、獣と偽預言者の最期は「呆気ないもの」です。

黙示録19:20
しかし、獣は捕らえられた。また、獣の前でしるしを行い、それによって獣の刻印を受けた者たちと、獣の像を拝む者たちを惑わした偽預言者も、獣とともに捕らえられた。この両者は生きたまま、硫黄の燃える火の池に投げ込まれた。

獣と偽預言者の最期は「たった一節」で簡単に説明されて終了です。

もしかすると、獣の軍勢は戦いを挑んだつもりであったけれど「相手にもならなかった」のかもしれません。

私は、この箇所を読むたびに思うのです。

私は、いったい何を恐れているのだろうかと。

マタイ10:28
からだを殺しても、たましいを殺せない者たちを恐れてはいけません。むしろ、たましいもからだもゲヘナで滅ぼすことができる方を恐れなさい。

獣や預言者は、患難時代の人々の「生死」を握っています。実際に彼らは聖徒たちを打ち倒します。

けれど、彼らの最期を覚えてください。

戦いを挑んだ途端に捕らえられるのです。この世で一番権力を持った人間でも、悪魔と手を結んだ人間であっても、「王の王、主の主」に立ち向かうことなど絶対に不可能なのです。

獣と偽預言者は、いとも簡単に捕らえられ「硫黄の燃える火の池」に投げこまれました。

あなたは、何を恐れていますか?

あなたは、誰を恐れていますか?

迫害ですか?

苦悩ですか?

剣ですか?

飢えですか?

主は誰よりも強いのです。あなたを主の愛から引き離すものは何もないのです。

イザヤ54:17
あなたを攻めるために造られる武器は、どれも役に立たなくなる。また、あなたを責め立てるどんな舌も、さばきのときに、あなたがそれを不義に定める。これが、主のしもべたちの受け継ぐ分、わたしから受ける彼らの義である。ー主のことば。

覚えてください。

私たちの戦いは「ことば」によるのです。

イエス様の口から出ている「鋭い剣」とは「みことば」のことです。不法の人は「御口の息吹によって」滅ぼされるのです。

あなたを攻めるために造られた武器は役に立たなくなります。あなたを攻め立てる「どんな舌」にも怯えてはなりません。あなたは、その「舌」を不義に定めることができるのです。

もちろん「言い返す」のではありません。

「みことば」を宣言しなさい。御霊の与えて下さる「みことばの剣」を用いなさい。

あなたを不義に定めようとする舌には、「キリストは私の義と聖になられた」と言いなさい。

あなたを責め立てる舌には、「神が私の味方なのだ。だれも私に敵対できない」と言いなさい。

敵の放つ火矢を「信仰の大盾」で払い落としなさい。そうして「みことばの剣」を掲げて進むのです。

主イエスが「口から出る鋭い剣」で戦われるのですから、私たちも「みことばの剣」で戦うのです。

悪しき者の最期を覚えてください。

彼らは「主と主に油注がれた者」に対して相逆らいます。しかし、「御座に着いておられる方は笑う」のです。主は、彼らを「嘲られる」のです。

今も同じです。イエス様は「きのうも今日もいつまでも同じ」です。

悪い者の放つ火矢に怯えてひるんではなりません。たましいを殺せない者たちを恐れてはなりません。

主は、今、あなたとともにおられます。そして、後に必ず来られます。

ヘブル10:37~39
「もうしばらくすれば、来たるべき方が来られる。遅れることはない。わたしの義人は信仰によって生きる。もし恐れ退くなら、わたしの心は彼を喜ばない。」
しかし、私たちは恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です。

シャロームを祈ります。