No.697 主は、同労者を求めておられます

星空と車

民数記12:3
モーセという人は、地の上の誰にもまさって柔和であった。

モーセという人

モーセという人を「一言」で表すと「柔和な人」なのです。

「柔和な人」と言うと、いつも穏やかで物腰の柔らかい人をイメージしてしまいますね。少なくとも、私はそうです。

しかし、この言葉のヘブル語の原義は「苦難によって低くされ、自分の力に頼れなくなった状態」です。

これは、まさにモーセという人を表わす言葉であると思います。

使徒7:25
モーセは、自分の手によって神が同胞に救いを与えようとしておられることを、皆が理解してくれるものと思っていましたが、彼らは理解しませんでした。

モーセは初め「自分の手」によって同胞を救い出すのだと思っていました。彼のうちに沸き上がる「同府への熱い思い」は、主が与えられたものだと私は信じています。モーセは「神の召命」を悟っていたのだろうと思うのです。確かに、彼は、主の選びの器でした。

しかし、このとき、誰もモーセを理解してはくれませんでした、主は沈黙されたままです。モーセは、殺人を犯した者として、みじめな逃亡犯となったのです。

モーセは「すべて」を失いました。エジプトでの快適な暮らし、富も地位も失いました。恐らく、同胞を救うためなら、そのようなものを捨てる覚悟はあると考えていたでしょうが、本当にすべてを失った時「同胞への熱い思い」も消え去ったのです。

それからの40年…、モーセが何を考えて暮らしていたのかは分かりません。特に「何も」起こらなかったのです。そして、モーセは完全に「昔の思い」を忘れてしまったのです。もはや「自分の力で同胞を救い出す」などと考えることもありませんでした。

D・L・ムーディは、そのようなモーセのことを「何者でもない自分を知った」と言っています。

モーセは「苦難によって低くされ、自分の力に頼れなくなった状態」となったのです。

主は、どんな人でも用いることがお出来になります。悪者と呼ばれる人でも道具としてお使いになります。しかし、主が「ともに働きたい」と願われる人は「造られる」のです。「育てられる」と言った方がいいかもしれませんね。

主は、モーセと「ともに働きたい」と望まれました。神は「同労者」を求めておられるのです。

主は「完全に明け渡す人」を求めておられます。なぜなら、ご自身の心を余すことなく注ぎたいと望んでおられるからです。

荒野から出て来た人を見なさい。モーセは「主の作品」です。

民数記12:3
モーセという人は、地の上の誰にもまさって柔和であった。

「誰にも優って柔和」つまり「誰にもまさって、主により頼む人」です。主が造られた最も偉大な人は、この地の誰よりも「無力さを知る人」です。

そして、主は「自分の力に頼れなくなった人」とともに働かれるのです。

主よ、私はゆだねます
主により頼みます
私は主の作品です