民数記12:3
モーセという人は、地の上の誰にもまさって柔和であった。
モーセという人
モーセという人を「一言」で表すと「柔和な人」なのです。
「柔和な人」と言うと、いつも穏やかで物腰の柔らかい人をイメージしてしまいますね。少なくとも、私はそうです。
しかし、この言葉のヘブル語の原義は「苦難によって低くされ、自分の力に頼れなくなった状態」です。
これは、まさにモーセという人を表わす言葉であると思います。
モーセは初め「自分の手」によって同胞を救い出すのだと思っていました。彼のうちに沸き上がる「同府への熱い思い」は、主が与えられたものだと私は信じています。モーセは「神の召命」を悟っていたのだろうと思うのです。確かに、彼は、主の選びの器でした。
しかし、このとき、誰もモーセを理解してはくれませんでした、主は沈黙されたままです。モーセは、殺人を犯した者として、みじめな逃亡犯となったのです。
モーセは「すべて」を失いました。エジプトでの快適な暮らし、富も地位も失いました。恐らく、同胞を救うためなら、そのようなものを捨てる覚悟はあると考えていたでしょうが、本当にすべてを失った時「同胞への熱い思い」も消え去ったのです。
それからの40年…、モーセが何を考えて暮らしていたのかは分かりません。特に「何も」起こらなかったのです。そして、モーセは完全に「昔の思い」を忘れてしまったのです。もはや「自分の力で同胞を救い出す」などと考えることもありませんでした。
D・L・ムーディは、そのようなモーセのことを「何者でもない自分を知った」と言っています。
モーセは「苦難によって低くされ、自分の力に頼れなくなった状態」となったのです。
主は、どんな人でも用いることがお出来になります。悪者と呼ばれる人でも道具としてお使いになります。しかし、主が「ともに働きたい」と願われる人は「造られる」のです。「育てられる」と言った方がいいかもしれませんね。
主は、モーセと「ともに働きたい」と望まれました。神は「同労者」を求めておられるのです。
主は「完全に明け渡す人」を求めておられます。なぜなら、ご自身の心を余すことなく注ぎたいと望んでおられるからです。
荒野から出て来た人を見なさい。モーセは「主の作品」です。
「誰にも優って柔和」つまり「誰にもまさって、主により頼む人」です。主が造られた最も偉大な人は、この地の誰よりも「無力さを知る人」です。
そして、主は「自分の力に頼れなくなった人」とともに働かれるのです。
主よ、私はゆだねます
主により頼みます
私は主の作品です

