エペソ3:12
私たちはこのキリストにあって、キリストに対する信仰により、確信をもって大胆に神に近づくことができます。
確信をもって大胆に
旧約の時代、イスラエルはシナイ山から語られる方を恐れて身震いしました。
民はみな、雷鳴や稲妻、煙る山を目にして恐れてしまったのです。とてもではないが、神の御声など直接聞くことはできないと思いました。
ですから「神が私たちにお語りになりませんように」と懇願したのです。
これは、ある意味において「人として正常な感覚」だと思います。絶対的な存在を前に、どうして震えもせず、恐れもせず、その御声を平気で聞くことができるでしょうか。
パウロは、この旧約の神を知っていた人でした。彼は、敬虔なユダヤ教徒です。熱心な信仰者でした。その熱心によって多くの聖徒を迫害した人でした。
しかし、パウロは変えられました。
あの日、「サウロ、サウロ。なぜ、わたしを迫害するのか」とイエス様が自ら語りかけられたとき、彼の目は見えなくなりました。そして、その目が開かれた時、彼は完全に変えられたのです。
すべては「キリストにある」ことに尽きます。
「キリストにある」ことが、パウロを変えたのです。
主なる神は、至高の存在であり、人の目では見ることのできない聖なる恐れるべき方です。
しかし「キリストにある」ことが、この絶対的な存在である方を「アバ、父」と呼ぶことを可能にするのです。
「キリストにある」ことは、あなたをも変えます。
人は本来、神と親しく交わるために造られたのです。しかし、サタンによって、罪によって、本来の立ち位置を失ったのです。
イエス様は、「神との親しい交わり」を取り戻すために十字架に架かってくださったのです。
信仰によって、確信をもって大胆に神に近づきなさい。
「確信をもって」とは「深い信頼」「より頼む心」のことです。内側に揺るぎない確信をもった状態です。
「大胆に」とは、「自由さ」「オープンな態度」のことです。自由で臆することのない態度のことです。
そして「近づく」とは「接見する権利」という意味です。
あなたには、王の王に「接見する権利」が与えられているのです。しかも、そこで「自由に」語ることが許されています。もごもごと口ごもっても怒られません。楽しいこと、悲しいこと、たわいもないこと、深刻なこと、何でも話してよいのです。「大胆に」とはそういうことです。
ただ「キリストにある」ということに拠り頼みなさい。「キリストにある」ということに確信を持ちなさい。
「キリストにある」ことこそ、すべての「鍵」です。
「キリストにある」ことを覚えてください。心に刻み、ただ「キリストにある」ことに拠り頼んで歩むのです。
私は「キリストにある」者です
私は確信をもって近づきます
私は大胆に近づくことができまず

