申命記6:5
あなたの心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。
心を尽くして
イエス様は、律法の中で最も重要な戒めは「神を愛すること」であると言われました。
そして、申命記6章5節を引用されたのです。
私たちは「心を尽くして」主を愛さなければなりません。
ヘブル語で「心」とは、単なる「感情」を意味する言葉ではありません。それは「思考の中心」を表します。
「心」とは、思考、知性、意志をまとめて最終決断をする「コントロールセンター」のようなものです。
それは、言うなれば「納得済みの愛」です。「疑いを克服した愛」と言ってもよいかもしれません。
感情の波に翻弄されず「信じ続けることができる愛」です。
アブラハムは、望みのない時に望みを抱いて信じ続けることができました。彼は「神の友」であり続けました。
なぜ、アブラハムは「神の友」であり続けることができたのでしょう。どうして、最終的にイサクを死者の中から取り戻すことができたのでしょう。
実際、アブラハムも、疑ったり、失敗したりを繰り返しながら生きたのです。主の約束を自分の力で成し遂げようとしたこともありました。
けれど、イサクを献げよと言われたときには、アブラハムの神への確信は揺るぎないものになっていました。理解できない命令であっても「神が言われたことだから」と、それだけで従うことができたのです。
なぜでしょう?
それは、彼が「心を尽くした結果」なのです。
アブラハムは「考えました」と聖書は言います。
「考えました」とは「計算する」「論理的に算定する」「結論を導き出す」という意味です。
アブラハムの「思考のコントロールセンター」は「神に従う」という結論を導き出しました。彼は、計算して、論理的に算定したのです。そして「納得して」イサクをささげたのです。
心を尽くして、主を愛しなさい。
考えて、そして、決めるのです。
心は、時々、迷走するものです。彷徨いだしてしまうものです。
しかし、決めておきなさい。
こころよ では いっておいで
しかし また もどつておいでね
やつぱり ここが いいのだに
こころよ では 行つておいで秋の瞳「心よ」 八木重吉
まあ、どこかに行ってしまわない方がいいのは確かです(笑)
けれど、もし、彷徨ったとしても…
戻る場所は他にはありません。「やつぱり」、主がいいのです。主だけが愛すべき方なのです。
あなたは「心を尽くして」主を愛しなさい。
私は心を尽くして主を愛します
いいかげに計算しません
主よ、あなたを信じます

