No.718 戦うべき3つのこと その③

憂いのある猫

ユダ11
わざわいだ。彼らはカインの道を行き、利益のためにバラムの迷いに陥り、コラのように背いて滅びます。

その③コラの背き

私たちは「コラの背き」について注意深く考える必要があります。なぜなら、一見すると、コラの言い分は「正しく最もだ」と思えるからです。

民数記16:3
彼らはモーセとアロンに逆らって結集し、二人に言った。「あなたがたは分を越えている。全会衆残らず聖なる者であって、主がそのうちにおられるのに、なぜ、あなたがたは主の集会の上に立つのか。」

コラたちは「全会衆がみな、聖なる者なのだ」と言いました。モーセとアロンだけが特別なのではない、すべての人のうちに主がおられると言ったのです。

誰かひとりだけが特別なのではない、私たちみなが特別なのだと言われれば誰も悪い気はしません。

そうすると、ここまで重い責任を担って民を率いて来たモーセが、何か横暴で悪い人のように見えてしまうから不思議です。

ユダ書は、教会に警笛を鳴らしています。このようなことが、終わりの時代には多く起こることを警告しているのです。

サタンは、聖徒にささやきます。

「あの人たちは、何の権利があって上に立っているのか。彼らは、分を超えている。誰かが正さなきゃならない。あなたも同じ神の子どもだ。むしろ、あなたの方が上手に導くことができる。あなたにも同じ油注ぎがあるし、同じ権威がある。神はえこひいきなどしないのだから。」

コラの目には、モーセとアロンの欠点がありありと見えたのかもしれません。自分の方が、もっと上手に民を導けると思ったのかもしれません。そして、それは「事実」だったかもしれません。

しかし、それが何だと言うのでしょう?

もし、モーセとアロンが「分を超えて思い上がった」ならば、主が彼らを裁かれます。ヤコブ書には「教師はより厳しいさばきを受ける」と書いてあります。実際に、モーセは懇願しても「約束の地」に足を踏み入れることはできませんでした。

「分を超えない」とは、神が意図された自分以外になろうとしないことです。

サタンは「あなたは自由だ。何者にでもなれる。何でもできる」と言います。しかし、それは部分的な真理です。私たちは「神が意図されたこと」なら何でもできます。「神が意図された」ならば、どんな者にでもなれるのです。部分的な真理は「偽り」と同じです。

あなたが「神が意図された自分」を拒むならば「不自由」になるでしょう。「神が意図された自分」であることが、あなたを「自由にする」のです。

コラが「レビ人」であったことを覚えてください。つまり、コラは「主の幕屋で奉仕する特権」を軽んじたということです。

ユダ6
またイエスは、自分の領分を守らずに自分のいるべき場所を捨てた御使いたちを、大いなる日のさばきのために、永遠の鎖につないで暗闇の下に閉じ込められました。

コラは「自分のいるべき場所を捨てた御使いたち」つまり「悪霊たち」と同じ罪を犯したのです。

主が「意図された者」でありなさい。

主は、あなたを目的をもって造られたのです。あなたは「あなた以外」になる必要はありません。

誰かの素晴らしさを見て「ねたみ」が起こったならば、もっと素晴らしいイエス様を見つめなさい。

誰かの欠点を見て「苛立ち」を覚えたならば、その人の前に手を広げて立つイエス様を思いなさい。

私はただ「主の意図されたとおりの者」であればよいのです。

主は私の陶器師です
私は主の作品です
良い行いをも備えられています