2026.6.20 岩に建てるシリーズ「聖霊の学び」を追加

No.618 アブラハムは「礼拝」をささげたのです

雷鳴

創世記22:3
翌朝早く、アブラハムはろばに鞍をつけ、二人の若い者と一緒に息子イサクを連れて行った。アブラハムは全焼のささげ物のための薪を割った。こうして彼は、神がお告げになった場所に向かって行った。

それは「即座」の決定でした

主は、アブラハムを試練にあわせられました。

創世記22:2
神は仰せられた。「あなたの子、あなたが愛しているひとり子のイサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そして、わたしがあなたに告げる一つの山の上で、彼を全焼のささげ物として献げなさい。」

主は、アブラハムに「あなたの愛するひとり子イサク」を献げよと言われました。しかも「全焼のささげ物」とせよと言われたのです。たた

アブラハムは「翌朝早く」にイサクを連れてモリヤの山に向かいます。この決断の速さは驚くばかりです。

なぜ、彼は、こんなにも早く、そして、こんなにも深刻で重大な命令に従うことができたのでしょうか。

御国に行って、アブラハムに会ったならば、ぜひとも尋ねたい質問の一つです。

しかし、おそらくですが、答えは意外とシンプルなものではないかと思うのです。

彼は、たぶん、このように答えるのではないでしょうか。

「それは、主が命じられたからだよ」

聞き間違いではないかと、最初は疑ったかもしれません。けれど、その「御声」は間違いなく主ご自身のものでした。アブラハムを故郷のウルからカナンの地に導き、約束のとおり「イサク」を与えてくださった主の御声でした。

それが「主の御声なのだ」と分かった瞬間、彼には「従う」という選択肢しかなかったのです。

アブラハムは「主の御声」を知っていました。このような「理解不能な命令」であっても疑うことなく従えたのは、彼が「主の御声」を聞き分けることができたからです。

アブラハムにとって、その命令が「どのようなものであるか」は重要なことではなかったのです。

もちろん「心のうち」は激しく動揺していたでしょう。悲しみとも苦しみとも呼べない感情が渦巻いていただろうと思います。

しかし、彼の「感情」は「命令に従うこと」に影響を及ぼしませんでした。

アブラハムは「神が仰せられた」ので「従った」だけなのです。

創世記22:5
それでアブラハムは若い者たちに、「おまえたちは、ろばと一緒に、ここに残っていなさい。私と息子はあそこに行き、礼拝をして、おまえたちのところに戻って来る。」と言った。

アブラハムが本当に「イサクと戻って来る」と思っていたかは分かりません。

「なぜ」とか「どのようにして」という「普通の疑問」が通じない「試練の中」において、アブラハムの思考も「普通」ではなかっただろうと想像します。

ただ、確かなことは、アブラハムがこのことを「礼拝」と呼んでいることです。

これは、彼にとって「礼拝」でした。

そうです。これは「礼拝」でした。

「礼拝」とは、御声を聞き分けることです。その御声に「従う」ことです。そして「理解できない」「感情が追いつかない」と叫ぶたましいを黙らせて、即座に御前にひれ伏すことです。

主よ、礼拝を教えてください
御声を聞き従う者としてください
ただ御前にひれ伏すことができますように