創世記17:1
さて、アブラムが九十九歳のとき、主はアブラムに現れ、こう言われた。「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全きものであれ。
全能の神として現れました
主が、全能の神としてご自身を啓示され、約束を宣言されたとき、アブラハムは笑ったのです。
創世記18章には、サラが「笑った」ことが記されています。もちろん、アブラハムと同じ理由で笑ったのです。
彼らは二人とも「不信仰」であったと言えるでしょう。
しかし、新約聖書はアブラハムを「信仰の人」として記しています。
彼は「望み得ないときに望みを抱いて信じた」と記されています。
創世記のアブラハムと、新約聖書のアブラハムは別人なのでしょうか?
もちろん、同一人物です。間違いなくアブラハムは、私たちの信仰の模範です。
では、このギャップはどうやって埋めればいいのでしょう?
このギャップは「全能の神」が埋められるのです。
「全能の神」とは、文字どおりには「乳房の神」です。そこから「いのちを育む神」という意味になります。
主は「99歳」になったアブラムに現れて言われたのです。
「おまえの子孫を増やす。名前を改めよ。アブラハムとなれ。割礼を受けよ」
アブラムは、もはや自分の人生に「何か新しいこと」を期待してはいなかったでしょう。
今さら「子孫の約束」が与えられても、自分たちの力はとっくに失われているのです。イシュマエルが祝福されれば十分なのです。
今さら「名前を新しく」して「新しい歩み」をする気力などないのです。アブラムとサライのままで特に問題もありません。
しかし、アブラムは「名前」を変えました。契約のしるしとして割礼も受けました。
サラに子どもが生めるなんて「信じられない」けれど、それでも、主に従いました。つまり、アブラムは「主ご自身」を信じてはいたからです。
イエス様は「からし種ほどの信仰があれば、山が移る」と言われました。
アブラハムには「からし種」の信仰があったのです。彼は「奇跡」を信じることはできませんでしたが「奇跡を起こす方」を信じていました。
主は「育む神」としてアブラムに現れました。それは、とても意味のあることだと私は思うのです。
主は「全能の神」として、ご自身に「不可能はない」ことを明らかにされました。主は「無から有」を生じさせることがお出来になります。
しかし、ただご自身の力だけで事を行なうことはなされません。主は、人の「信仰」を通して「奇跡」を行われるのです。「信仰」のないところに「奇跡」は起こりません。
ですから、主は、アブラハムの信仰を「育てられた」のです。
「からし種」ほどの信仰でよいのです。
「奇跡そのもの」を信じることができなくても「主ご自身」を信じなさい。
あなたの「からし種」を主に差し出しなさい。
そうすれば、主が「育てて」くださいます。「種」には「いのち」があります。主は「いのちを育む神」なのです。主は、あなたにご自身の信仰を与えてくださいます。
笑っていたアブラハムが「望み得ない時に望みを抱いて信じた」ように、あなたの信仰も「育ち」ます。
そして、あなたも「不可能を可能にする神の御力」を体験するようになるのです。
主よ、からし種の信仰ですが献げます
どうか、私の信仰を育ててください
私は、主よ、あなたを信じます

