黙示録20:11
また私は、大きな白い御座と、そこに着いておられる方を見た。地と天はその御前から逃げ去り、跡形もなくなった。
地と天は跡形もなくなります
さて、とうとう千年王国の時代も終わりました。
サタンは完全に滅ぼされました。
イザヤは、サタンの末路を預言して言いました。
サタンは、誰よりも上を目指しました。自分の王座を上げようと夢見ました。
世の中は、それを「向上心」と呼ぶのです。自分の力を誇示することを「自己実現」と呼ぶのです。
サタンは、この世の君なので、この世はサタンの性質を写しだしているのです。
けれど、聖徒はそれに流されてはなりません。私たちは、イエス様の性質を写しだす者だからです。
イエス様は、自らを低くされました。そして、だれよりも高くへと上げられました。
サタンは、自らを高く上げようとしました。そして、投げ落とされ、最終的に「火の池」に投げ込まれるのです。
ですから、愛する兄弟姉妹
良さそうに見える「世の流れ」に従って歩んではなりません。
聖徒は、いつも「キリスト・イエスのうちにあるこの思い」を抱いて歩むのです。
さて、ヨハネの見た幻に戻りましょう。
使徒ヨハネは「大きな白い御座」と「そこに着いておられる方」を見ました。
ヨハネは、これまでにも「天の御座」を見ています。しかし、この「大きな白い御座」は、それまでのものとは何かが違うようです。
ヨハネが、この「大きな白い御座と座しておられる方」を見ると、どのようにしてかは分かりませんが「地と天」が御前から逃げ去ったのです。
「逃げ去った」とは面白い訳ですね。つまり「消失した」ということです。
それは「跡形もなくなった」のです。直訳すると「それらの場所はみつからなかった」です。
「地と天が消え去った」ことを「再創造された」「刷新された」と解釈する学者さんたちもいますが、私は本当に「跡形もなくなる」のだと思います。
「地にある働きはなくなってしまいます」とは、別訳では「自然界の構成要素はなくなる」です。
また、イエス様は言われました。
天地は「消え去ります」とイエス様は言われました。
「消え去る」と言うギリシャ語には「消滅する」「過ぎ去る」という意味もあります。
初めに神が「天と地」を創造されました。この世界は「神のことば」によって造られました。造られたものである「天と地」は消え去ります。しかし、造られた方の「ことば」は決して消え去ることはありません。
この世のすべては過ぎ行きます。どんなに栄えていても、どんなに貧しくても、人の一生は野の花のようなものです。永遠の視点で見れば、この地上の営みなど「はかないもの」です。
この天地でさえ消え去るのです。この地に「揺るがされないもの」など何もないのです。
あなたは、何を拠り所にしていますか?
あなたは、何を頼みとしていますか?
消え去るものに望みを置くなら、必ず、いつか失望します。もし、この世において「失望を感じずに」生きることができたとしても、大いなるさばきの日には「絶望する」ことになるでしょう。
永遠に立つのは「神のことば」だけです。
イエス様は「わたしのことばは決して消え去ることがありません」と宣言されました。
「神のことば」を頼みとしましょう。「神のことば」を拠り所とするのです。
消え去るものに固執するのはやめなさい。決して「揺り動かされないもの」の上に立ちなさい。
地と天は、大いなる白い御座の前から、逃げ去り、跡形もまくなるのです。
大きな白い御座のさばき
この「地と天」が跡形もなくなるなんて想像もできませんね。
とても不思議なことで説明もできませんが、私はそうなると信じているのです。
そして、そう解釈するならば、この「大きな白い御座」は、いわゆる「天の御座」ではないのでしょう。なぜなら「天」がもうないからです。御座の前に大勢の人が立ちますが、そこは「地」ではありません。「地」はもうないのです。
この「空間」と呼んでいいのかすらも分からない、地でも天でもないところに「大きな白い御座」があるのをヨハネは見ました。
「大きな」という語は、神の偉大さ、絶対的な権威を連想させます。
また「白い」は、神の聖であること、正義であることを思わせます。
「大きな白い御座」は、永遠の「新天新地」に入る前の「最終的で完全な大いなる法廷」であると私には思えます。
大きな白い御座の前には「死んだ人々」が立っていました。
「大きい者も小さい者も」とは、年齢や身分の差はなく「死んだ者すべて」という意味でしょう。
「数々の書物」が開かれます。「いのちの書」の他にも様々な書物があるようです。
マラキ書には「記憶の書」という記述があります。
また、ダニエル書では「真理の書」というものがあることが明らかにされています。
「記憶の書」と「真理の書」が、最後の審判で開かれる「数々の書」に含まれているのかはわかりません。しかし、少なくとも、主の御前には「いのちの書」以外にも「書物」つまり「巻物」があることは確かなようです。
多くの学者さんたちは、この「数々の書物」には、一人ひとりの行いが記されていると言っています。
「死んだ者たちは、これらの書物に書かれていることにしたがい、自分の行いに応じてさばかれた」と記されていますから、その可能性は大いにありますよね。
そして、もし「数々の書物」が各個人の行いを記すものだとすれば、そこには「行い」だけでなく「ことば」も記されているのだろうと思います。
イエス様は、さばきの日に「口にするあらゆる無益なことば」について問われると言われました。
「無益なことば」とは、直訳すると「何の働きもしないことば」です。
私たちの発することばは「聞く人に恵みを与え、建て上げることば」でなければなりません。
「何も建て上げないことば」「聞く人に害を与えることば」は「無益なことば」なのです。
主は「ことば」を非常に大切にしておられます。なぜなら、ことばには「力」があるからです。あなたの「舌」は「死と生」を支配しています。あなたは「舌」で「殺すことも生かすこともできる」のです。
「数々の書物」が開かれます。それが、一人ひとりの「行いの書」であるならば、それは膨大な量の書物が開かれることになります。この世の時間の感覚で考えれば、それこそ永遠に終わらないのではと思います。しかし、そこでは時間は存在しません。千年は一日のよう、一日は千年のようですから、もしかすると一瞬で決着がつくのかもしれません。
「死者を出した」とは「死者を差し出した」という意味です。「海」「死」「よみ」が死者を差し出しというのは、不思議な表現です。はっきりと意味は分かりませんが、そこには「無理やり引きずり出したのではない」というニュアンスが含まれているようです。死は、最後の敵であると聖書は言いますが、死という敵も「神に屈服した」ということなのかもしれません。
ジョン・マッカーサー博士は、「つまりヨハネは、『陸の墓にいる者も、海の底で消えた者も、どこでどう死んだ者であれ、誰一人として逃げ隠れできない』ということを言いたいのだ」と言っています。
すべての人が「それぞれ自分の行いに応じて」裁かれます。
地と天が逃げ去ったあとではもう、どこにも身を隠す場所はありません。彼らは、みな、全能の神の御前に出なければならないのです。暗闇で行われたこと、隠し続けてきたことのすべてが明るみに出されます。
人々は、自分の行いが「明るみに出される」ことを恐れます。ゆえに「光」の方には来ません。しかし、この世において隠し続けることができたとしても、最後の審判において「すべてが明るみに出される」のです。
愛する兄弟姉妹
あなたは「光の子」です。あなたは「光」のもとに来ました。ですから、「光」が恐ろしいものではないことを知っています。神は「光」です。私たちは、みな「光」のもとに出て、すべてを告白しきよめられました。
あなたは、主の「驚くべき光の中に召された」のです。あなたは、すでに「光の中」にいます。
それは、あなたが「驚くべき光そのもの」である方を宣べ伝えるためです。
遅くならないうちに、すべての人を「光のもとへ」招きましょう。
私たちは、光を宣べ伝えるために、今を生かされているのです。
聖徒はさばかれません
では、続きを読みましょう。
「死」と「よみ」が見えるものであるのかどうかは分かりません。少なくとも、使徒ヨハネには「死」と「よみ」が火の池に投げ込まれたことが分かったのでしょう。
最後の敵である「死」は完全に滅びます。千年王国では、みな「長生き」でしたが「死」はあったのです。しかし、新天新地には「死」はありません。
「よみ」とは、ギリシャ語では「ハデス」です。この箇所を読むと「よみ(ハデス)」と「火の池」とは別のものなのだということがはっきりとわかりますね。
もう「よみ(ハデス)」は必要ないのです。「死」は滅びます。ですから、死者の待合室もいらないのです。
すべて「火の池」に投げ込まれます。この「火の池」が「第二の死」です。そして、私たちはそれを「地獄」と呼んでいるのです。
つまるところ、最後の審判である「大きな白い御座のさばき」とは、いのちの書に名が記されているかどうかを確かめる法廷ということです。
キリストにある者はみな「いのちの書」に記されています。
あなたが「キリストにある」なら、必ず、あなたの名前は記されています。
ですから、私は「大きな白い御座」の前に立つ「死んだ者たち」の中に「キリストにある聖徒」は含まれていないと思うのです。
それでも、すべての人が御前に立たされると主張する学者さんたちも大勢いますから、もしかすると、私の見解は間違っているのかもしれません。
しかし、仮に、御前に立ったとしても、私は恐れません。もし、仮に、私の「行いの書」が開かれたとしても、それは「白紙」であろうと思うからです。
なぜなら、私は「行いによる義」ではなく「恵みのゆえに信仰によって」救われたからです。私は「行い」によって救われたのではありません。ですから、私は「行いに応じて」さばかれることはないと信じています。
私の神は、私の罪を「もう思い出さない」と言われます。「東が西から遠く離れているように」、私の罪は私から遠く離されたのです。
もちろん、聖徒は「別の意味で」行いを評価されることになると思います。それぞれ「何で建てたのか」が問われるときが来るでしょう。それは、おそらく「千年王国の前」なのではないかと思います。しかし、それは、また別の話です。「火の池」に投げ込まれるかどうかの裁きとは関係がありません。
覚えてください。
「決してない」のです。あなたが、キリストにあるならば「罪に定められる」ことは「絶対に」ないのです。
あなたが「御子イエス」を信じているならば、さばかれません。
どうか思い出してください。
この「大きな白い御座」のさばきの前に、すでに「子羊の婚宴」が行われていることを。「御子の花嫁」が、さばきの座に引きずりだされて「その行いを裁かれる」などということがあると思いますか?
もし仮に、その法廷に立つことになったとしても、私の隣にはイエス様が弁護人として共にいてくださると信じます。
ですから、愛する兄弟姉妹
恐れてはなりません。心配することもありません。
神を信じなさい。
場所を用意して迎えに来ると約束された方を信じなさい。
私たちは喜んで待ちましょう。
私たちは、自分の名が天に記されていることを喜びながら歩みましょう。
あなたは、しみも傷も汚れもない者です。イエス様の血潮によって「羊の毛のように白く」されました。
誰も何も、あなたを罪に定めることはできません。それは「永遠に」そうなのです。
シャロームを祈ります

