No.651 主の教えを喜びとする者になりたいのです

湖とヨット

詩篇1:2
主の教えを喜びとし 昼も夜も その教えを口ずさむ人。

幸いな人とは

詩人は、ただ単に「主の教えを喜びとする人」が幸いだといっているのではありません。

この2節の文頭には、原語では「それよりも、むしろ」という言葉が置かれています。

つまり、悪しき者のはかりごとに歩むよりも、罪人の道に立つよりも、嘲る者の座に座るよりも、「それよりも、むしろ」主の教えを喜びとする人こそ幸いなのだと言っているのです。

この世の価値観で生きるよりも、むしろ、「神のみことばを喜んで生きたいのだ」と強く言い切れる人こそ幸いなのです。

ここで「喜び」と訳されている語は、ただ「みことばが好き」「みことばは楽しい」というような感情を表わす単語ではありません。

「喜び」とは、他の個所では「お気に入り」また「みこころ」などと訳されています。「自分のすべての関心、興味が集中している」「強く欲する」という意味が含まれます。

つまり「他のものではダメなのだ」ということです。

世の中の「はかりごと」は、悪巧みばかりではないでしょう。それは時として「面白そうで魅力的」です。

世の中には「罪ではない」ことも多くあります。楽しいことも、素敵なこともあるでしょう。

しかし、それでは「満足できない」「それではダメなのだ」と詩人は言うのです。「それよりも、むしろ」主の教えを喜びとしたい、主の教えにこそ「自分のすべての興味、関心、満足があるのだ」と言っているのです。

だからこそ「昼も夜も その教えを口ずさむ」のです。

昼も夜も、常に一日中、楽しい日も、苦しい日も、順調な時も、逆境の時も、その教えを口ずさむのです。

「口ずさむ」とは、思い巡らすと解釈されることが多いですが、本来は文字通り「口に出して言う」ことです。「ブツブツ」と何度も反復して言うことを意味します。ですから、牛の反芻に例えられたりするのですね。

幸いな人とは、繰り返し、何度も、みことばを反復し、口ずさみ、思い巡らす人です。

それは「生き方」の問題です。

「みことば」を外側に置いて、必要な時だけ、時間のある時だけ、気分が乗ったときだけ近づくのか…

それとも「みことば」を「食物」として味わい、それがなくては生きていけないと思うのか…

主の教えを喜びとするとは「それがなくては生きていけない」と思うほど強く欲することです。

あなたは、主の教えを「喜び」としていますか?

あなたは、幸いな人でしょうか?

主よ、あなたのみことばを愛します
日々、あなたのみことばを口ずさみます
みことばこそ、私の生きる糧です