箴言3;6
あなたの行くべき道すべてにおいて、主を知れ。主があなたの進む道をまっすぐにされる。
主が道をまっすぐにされます
私は、自分の道が「まっすぐ」であって欲しいと願います。
しかし、行く道が常に「まっすぐ」であるとは限りません。時々、私は道を見失ったように感じます。曲がり角なのか、行き詰ったのか、手探りで進もうとはしてみるけれど、どこにもたどり着けないように思えます。
何が間違っていたのかなぁなどと思います。もしかすると、引き返した方がいいのかしらなどと迷い始めます。
どこに向かえばいいのか、どの道が正解なのか、私は前に向かって進んでいるのだろうか…
私は、必死で道を捜し求めます。「まっすぐ」な道はどこにあるのだろうと考えます。
しかし、聖書ははっきりと言います。
道を「まっすぐ」にされるのは、主なのです。
私は、自分の道を「まっすぐ」にすることはできません。自分の進む道のすべてが「曲がりくねって」いるように感じます。
しかし、おそらく「それでいい」のです。
主が、私に求めておられることは「まっすぐな道」を造ることではありません。「まっすぐな道」を捜すことですらないのです。
「あなたの行くべき道すべてにおいて、主を知れ」
主が求めておられるのは「主を知る」ことです。
「知る」とは「体験する」という意味です。「同意する」とか「知り合いになる」と訳すこともできます。
主が求めておられるのは「いま、ここにおられる方」を認識することです。
どこに行くのか分からないことは、そんなにも重大なことでしょうか?
先が見えないことは、そんなにも不安なことでしょうか?
最も重大なことは「今、ここにおられる方」を認識することです。
最も大切なことは「今、主とともにここにいる」と同意することです。
何よりも「今、ここにおられる方」を体験することです。私は、主をもっと「知りたい」のです。主が「実在」されることを経験したいのです。主も、ご自身を「明らか」にすることを望んでおられます。
主は、聖徒を「知り合いになる」という交わりに招いておられます。
私が常に、今、ここにいる方を「知る」ことに思いを注ぐなら…
私の進むべき道は「主がまっすぐ」にされるでしょう。
大切なことは「どこを歩いているか」ではなく「誰と歩いているか」なのです。
主がともにおられるならば、水の上でも空中でも歩くことができるでしょう。
主がともにおられるならば、曲がった道はまっすぐになります。行き止まりは開かれます。道のないところに道ができます。
主が「道をまっすぐ」にされるのです。私は、ただ「主とともに今を」歩けばよいのです。
私は、主を「知る」ことを求めます
主が「今、生きておられる」ことを体験したいのです
うちにおられる方が現実であることを教えてください

