黙示録12:15
ー 見よ、私は盗人のように来る。裸で歩き回って、恥ずかしい姿を人々に見られることのないように、目を覚まして衣を着ている者は幸いである ー。
ユーフラテスの水が涸れます
さて、金の鉢も「残り二つ」となりました。
第六の御使いが鉢の中身を注ぎだします。
第六の御使いは「鉢の中身」をユーフラテスに注ぎます。
創世記のはじめから登場する「大河ユーフラテス」が、この最後の時にも登場します。主なる神は、この大河に何か特別な思いを持っておられるのかもしれません。
第六の鉢の中身が注がれても、地上に「わざわい」らしきことは起こりません。大風が吹きつけたり、病が蔓延したりというようなことは起こりません。
ただ「大河ユーフラテス」が涸れるのです。もちろん、それは重大なことです。
ユーフラテスの水不足は、とても深刻で「2040年までには完全に干上がる」などと言われていました。
「イラクの水資源省が発表した報告書は、気候変動による干ばつと水位の低下が続くことで、チグリス川とユーフラテス川は2040年までに完全に干上がると警告している。同国を『2040年までに川のない土地』にする可能性がある」
ARAB NEWS(アラブニュース・ジャパン)2023年9月23日
しかし、なぜか、最近「劇的に回復」しているらしいのです。
近年、チグリス川・ユーフラテス川流域では干ばつや上流からの流量の減少による渇水が頻発していたが、今期については、イラク、シリアでは比較的降水量に恵まれ、上流部のダムで大雨に伴う放水が行われるほどになっている。
公益財団法人 中東調査会(中東かわら版)2026年4月23日号
一時期、巷では「ユーフラテスが涸れる」だとか「金の鉢が注がれた」などと騒がれました。大手新聞に「エデンの園が涸れる」などというタイトルの記事が掲載されていて、私はたいへん驚いてしまいました。世間の人たちも「ユーフラテスの枯渇」と「聖書」を結びつけるのだなぁと何だか感心したのです。しかし、まだ「第六の鉢」の中身は注がれていません(笑)
目に見える現象は「様々」です。「それらしきこと」も多く起こるでしょう。けれど、私たちは一つ一つの現象に惑わされないようにしましょう。
主は、終わりの日のことについて「多くのこと」を語られました。私たちは「一つの現象」に囚われるのではなく、主が語られた「すべてのこと」を心に留める必要があります。
しかし、今、起こっている出来事をすべて「無視」してはなりません。それは、私たちに対する「警告」であるかもしれないからです。私たちが「目覚めて祈り続けるために」です。
私たちは振り回されずにしっかりと立ちましょう。そして、その背後にある流れを見極めることができるように祈りましょう。
終わりの日が迫っていることは確かです。つまり、それは、その前に必ず起こるであろう「大収穫のとき」も迫っているということです。
目を覚まして祈りましょう。私たちは、主の「大いなるみわざ」が行われるときに生かされていると私は信じているのです。
さて黙示録に戻りましょう。
「第六の鉢」が注がれると、誰がどう見ても「大河ユーフラテスが完全に涸れた」と言う日がやって来ます。
しかし、それは「さばき」そのものではありません。
「水」という「いのちを保つもの」が涸れる以上のことが起こります。「水がなくなる」ことを心配できるような世界情勢ではないということです。
大河ユーフラテスが涸れるのは「日の昇る方から来る王たちの道を備える」ためなのです。
ハルマゲドンに召集されます
さて、もう一度「黙示録16:12」を読みましょう。
大河ユーフラテスが涸れると「日の昇る方から」王たちが来るのです。
英語の聖書(KJV)では「東の王たち」と訳されています。イスラエルから見れば「ユーフラテスの向こう側」から軍隊がやって来るということでしょう。
終わりの日、「日の昇る方から来る王たち」がユーフラテスを超えて「ハルマゲドン」と呼ばれる場所に集うのです。
この「日の昇る方から来る王たち」は、バビロンに攻め入った「メド・ペルシャ」を思い起こさせますね。
「メド・ペルシャ」の軍は、自分たちで「川の流れ」を変えてバビロンに侵入しましたが、終わりの日には、主がユーフラテスを涸らされるのです。
そう考えると、やはり、この「日の昇る方から来る王たち」は、反キリストたちへの敵対勢力なのかなぁと思うのです。
この「彼」が、「偽預言者」のことか「反キリスト」のことかは分かりません。しかし、この「東と北からの知らせ」は、もしかしたら「日の昇る方から来る王たち」のことではないだろうかと思うのです。
彼らはハルマゲドンの戦いのためにやって来ます。ダニエル書の11章36節から45節までを読むと、そのときのことがさらによく分かります。44節には「東と北からの知らせが彼を脅かす」と記されています。つまり、北の王と東から来る王たちが反キリストの十か国連合を攻撃するのです。
黙示録 J・B・カリー著 伝道出版
多くの注解者が「これはロシアを中心とした同盟国だろう」と言っています。そうかもしれません。また、そうでないかもしれません。
確かなことは、ユーフラテスが涸れるのは「日の昇る方から来る王たち」に道を備えるためだということです。そして、その背後に「神のさばき」の計画があるということです。
さて、このとき「ハルマゲドン」に召集される王は、彼らだけではないようです。
この「蛙のような三つの汚れた霊」は、実際には人々には見えないのだろうと思います。このとき、使徒ヨハネにだけ開かれた啓示なのでしょう。
竜の口、獣の口、偽預言者の口から、恐らく何らかの「ことば」が発せられるのではないうでしょうか。そして、それを実行する「悪霊」が全世界に遣わされるのだろうと思います。
「口」から出るものが世界を惑わすのです。この三つの汚れた蛙のような霊は「しるしを行う悪霊どもの霊」です。世界は、最後まで「巧言としるし」によって惑わされるようです。
ダニエル書によると「最後の世界帝国」は「鉄と粘土の国」です。
反キリストの帝国は「一つ」ですが、決して「互いに団結」はしません。ですから、獣たちは「巧言としるし」を使って全世界の人々を惑わし続けなければならないのでしょう。
全世界の王たちは召集されます。彼らの「思惑」は一つではないでしょうが、彼らの目的地は一つです。そして、その結末も一つなのです。
終わりの日、主は国々に挑戦されます。この聖句は、聖徒を励まし奮い立たせるために歌われることが多いですね。それで励ましを受け、奮い立った聖徒も多いでしょう。私もよく歌いました。
しかし、実は、この聖句が意味しているのは「真逆」のことです。
これは、主が「国々」を煽っておられるのです。「さあ、上って来い」と言っておられるのです。
生活のための道具さえ武器に変えよ、そして、全力で立ち向かって来るがいいと言っておられるのです。
「日の昇る方から来る王たち」そして「汚れた霊に召集された王たち」は、これが「聖戦」であるとは思っていないでしょう。
恐らく、竜だけは、この戦いが最後の戦いであると知っているだろうと思います。
しかし、それ以外の人々は、地上の「利権」のため「自分たちのため」に戦うつもりです。当然ながら、彼らは「地上の戦い」を想定しているのです。
しかし、これは「聖戦」なのです。彼らが知らずに立ち向かうのは「聖なる全能の神」なのです。
彼らは「判決のため」に集まって来ます。
主は、彼らの行軍を見ながら笑っておられるでしょうか。何をしに集まって来るのか、誰と戦うつもりなのか。
「ハルマゲドン」とは「最終戦争」と言う意味で使われることがありますか、実際には「場所の名前」です。
第七の御使いが鉢の中身を注ぐ日がやって来たのです。
目を覚まして衣を着ている者は幸いである
さて、話の流れの都合で「16節」に飛びましたが、その前に「15節」が挿入されていますよね。
なぜ、この御言葉はここに挿入されているのでしょう。
主は、このみことばを誰に向かって語っておられるのでしょう?
このとき、地上に「主にある聖徒」はいないと私は信じています。
であれば、地上の「獣の国の人々」に対して語っておられるのでしょうか?
しかし、そうすると「目を覚まして衣を身に着けていよ」という呼びかけはおかしいような気がします。
となれば、これは「今、黙示録を読んでいる人々」に対する呼びかけであるとするのが無難な答えなのかなぁと思うわけです。
もちろん、他の意見も多くあります。「再臨」と「携挙」が同時にあると信じる人たちは、このとき「教会」が地上に残っていると考えているわけですから、この呼びかけは「教会」へのものだと素直に受け取ることができるでしょう。
しかし、今回は、これは「今、黙示録を学ぶ私たちへの呼びかけ」と受け取ることにしましょう。
私は、これは特に「ラオディキアの教会の時代」の聖徒に対する呼びかけのようにも思います。つまり、今の時代への呼びかけです。
私たちは「終わりの時代」に生かされています。まだ「終わり」ではないけれど「終わりに突入するだろう時代」に生きています。
「終わりの時代」の聖徒たちは、傾向として「なまぬるくなる」のではないかと私は思っています。
主は「生ぬるい人」のことは「吐き出される」のです。
これは、終わりのとき、主の御前から「閉め出される人々」に似ていますね。
多くの人が「主よ、主よ」と地上で御名を口にします。しかし、彼らがみな天の御国に入れるわけではないとイエス様は言われました。
ともしびをかかげた十人の娘もそうです。五人は受けいれられ、五人は閉め出されました。
ここで閉め出された人々には、共通の特徴があります。それは、彼らが皆「自分は、当然、閉め出されることはない」と思っていたということです。
ラオディキアの人々は、まさか、自分たちが「吐き出される」とは思っていなかったでしょう。
「主よ、主よ」と呼ぶ多くの人々は、自分が「わたしはおまえたちを全く知らない」と言われるとは想像もしていなかったでしょう。
愚かな娘たちは、自分たちのことを「愚かだ」と認識していたでしょうか。おそらく、閉め出された後に、それを痛感したことでしょう。
これは「携挙」に対する警告のようにも思えます。
主は「盗人」のように来ると言われます。携挙とは、ある意味において「地上からの強奪」と言えます。
それは、自分たちの意志とは関係なく「強制的な力によって」連れ去られることです。そして、そのことは「いつ起こるのか」だれにも分かりません。
ゆえに「目を覚ましていなさい」と聖書は何度も繰り返し言うのです。
私たちが「目覚めて」いるならば、私たちは「昼の子ども」です。私たちは暗闇にはいません。
私たちが「目覚めて」いるならば、衣を着ていないのに歩き回ったりはしないでしょう。
今、そのことに気が付くならば幸いです。
主の日に、それを暴かれない人は幸いです。
主を恐れ、携挙されることを待ち望んでいる人は幸いです。そのような人は「忠実に」すべてを行うでしょう。「主人はまだ帰ってこないだろう」と言うしもべになってはなりません。それは「目覚めた人」の生き方ではありません。
私たちは、目を覚ましましょう。主が警告しておられるのです。
そして、それは同時に「幸いへの招き」です。
終わりの時代、様々な出来事が起こります。これからも、必ず「何か」が起こるでしょう。
しかし、愛する兄弟姉妹。
そのような中でも「幸い」はあるのです。主は、あなたが「幸い」に生きることを望んでおられます。
目を覚ましていましょう。
それが、幸いに生きる最大の秘訣なのです。
シャロームを祈ります。

