黙示録15:1
また私は、天にもう一つの大きな驚くべきしるしを見た。七人の御使いが、最後の七つの災害を携えていた。ここに神の怒りは極まるのである。
大きな驚くべきしるし
さて、黙示録15章の学びに入りましょう。
14章の最後で、使徒ヨハネは「地に広がる凄惨な光景」を見ました。
その後、ヨハネの視点は再び「天」に戻ります。15章では「最後のわざわい」が起こる前に「天において」どのようなことが行われるのかということが記されています。
ここで使徒ヨハネが見た幻は「大きな驚くべきしるし」です。
ただ「大きい」だけでなく、さらに「驚くべき」しるしだとヨハネは言っています。
黙示録12章で、使徒ヨハネは「一人の女のしるし」を見ました。
この「一人の女」の幻も十分に驚くべきものだと思いますが、ここでは「大きなしるし」と言われているだけです。
けれど15章では「大きな驚くべきしるし」だと記されています。
「大きな」と「驚くべき」という二語が重ねて使われています。この二語が「まぼろし」に対して重ねて使用されている聖句は新約聖書には他にはありません。
「大きな」と「驚くべき」という二語が重ねて用いられるのは「神の偉大さ」を表すときです。「神の偉大な驚くべきみわざ」などと言うときです。
つまり、この後、使徒ヨハネが見た「しるし」は、尋常ではないものであったということです。
今までも、たいがい「尋常ではなかった」と私は思いますが、それ以上であるということです。
この後、16章以降で起こることは「最後の七つの災害」です。それは「七つの鉢のわざわい」とも呼ばれます。そして、それは「神の憤りの極み」の現れでもあります。
七人の御使いが「最後の七つのわざわい」を携えています。この七人の御使いは、ラッパを吹き鳴らした御使いたちとは違う御使いであろうと思われます。
「ここに神の憤りが極まるのである」とヨハネは言います。
「極まる」と訳された語は「完成される」「完了される」「成就される」「満たされる」と訳すこともできます。
原形は、イエス様が十字架上で言われた「完了した」と同じです。
聖書には二つの完了が記されています。
一つは、私たちのための「贖いの完了」です。
イエス様は、私たちの「罪」となられ、その身に「わざわい」のすべてを負ってくださいました。つまり、イエス様は「神の憤りの杯」を飲まれたということです。
それは、この後、金の鉢から地に注がれる「神の憤り」と同じものです。イエス様は、私たちのために「神の憤り」を余すことなく飲み干してくださいました。
覚えてください。
本来ならば、その「憤り」は、私たち自身が受けるべきものであったのです。
私たちは「生まれながら御怒りを受けるべき子ら」でした。
けれど「あわれみ豊かな神」が私たちを生かしてくださったのです。
私たちは、神の大きな愛のゆえに「恵みによって」救われました。
私は、黙示録を読むたびに、その大きな愛、豊かな恵みに感謝せずにはいられません。そして、同時に、イエス様がどれほどの苦しみを負ってくださったのかと思うのです。
愛する兄弟姉妹。
御父は、すべての憤りを御子イエスに注がれました。それは、あなたを愛されたからです。
御子は、すべての憤りをその身に負ってくださいました。それは、あなたの贖いのためです。
あなたの贖いは「完了」しています。イエス様が「完了した」と宣言されたのです。あなたは「神の憤り」を受ける必要はないのです。
聖徒はだれも「神の愛」を疑ってはなりません。
もし、自分は「愛されていない」と感じているならば「十字架」をもう一度見上げなさい。
御父の「憤り」を考えてみなさい。それがどれほど恐ろしくすさまじいものかを考えてみなさい。
そして、御父が、その憤りを愛する御子に注がれた、その御思いを考えてみなさい。
最終的に「身代わり」にされたのは「御子イエス」です。
御父は、あなたの代わりに御子を十字架につけることを選ばれました。あなたの身代わりに「憤り」を御子に注ぐことにされたのです。
あなたは「高価で尊い」ということを忘れてはなりません。十字架によって「愛が明らかにされた」ことを決して忘れてはなりません。
神の憤りは「御子イエス」によって「完了」されたのです。
しかし、黙示録は「神の憤りの極まり」「最後の七つの災害」があることを記しています。
御子イエスを受け入れなかった人々は「贖い」を受けることはできません。神の大きな愛、豊かな恵みを軽んじた人々に対して「神の憤り」が極まるのです。
これが、二つ目の「完了」です。
この日には、もはや「救い」はありません。
人は「二つの完了」のどちらかを選ばなければなりません。
イエス様に「完了」していただくか、自分自身で「完了」するかです。
言い換えれば、イエス様に罪を負っていただくか、自分で自分の罪を負うかということです。
願わくば、すべての人が生ける神に立ち返りますように。すべての人が、主の大きな愛と豊かな恵みの前にひれ伏しますように。イエス様の「完了」を選んで救われますように。
私たちは、自分が救われたことを大いに感謝しましょう。主イエスのみわざをほめたたえましょう。そして、まだ救われていない人々のために心を尽くして祈り続けましょう。
ガラスの海のほとりに立つ人々
さて、ヨハネは天の光景を見ています。
ヨハネは「火が混じったガラスの海のようなもの」を見ました。
黙示録4章では「水晶に似たガラスの海のようなもの」と描写されています。
御座の前には「ガラスの海のようなもの」があるのですね。それは、ガラスそのものでも海でもない「そのようなもの」と言うしかない光景なのです。
今回は、そこに「火が混じっている」ように見えました。
その「火が混じった、ガラスの海のようなもの」のほとりに、神の竪琴を手にした人々が立っています。
とても美しい場面ですね。
「火が混じった」ように見えるのは、この人々が「燃えさかる試練」を通過してきたことを表しているのかもしれません。
この人々は「獣とその像とその名を示す数字に打ち勝った人々」です。おそらく、殉教者たちでしょう。もしかすると携挙された人々もいるのかもしれません。
この時点で、地上に「聖徒」は一人も残されていないだろうと私は思います。
患難時代に救われた人々も、この時点では、みな「引き上げられて」いるでしょう。それは「殉教」なのか「携挙」なのかは分かりませんが、みな、神の御座の前にいるだろうと思います。
イエス様が「神の憤りの杯」を受けてくださったのです。
なぜ、再び、聖徒が「神の憤りの杯」を注がれる必要があるのでしょう。
「多くの試練を通して金のように精錬される必要があるから、聖徒も大患難を通過する」という意見があることは知っています。
ですから、私も「携挙」が必ずしも「患難時代の前」に起こるとは断定できないなと思っています。しかし、最後の「神の憤りの杯」は「試練」ではありません。ですから、そこに聖徒はいないと言えるのです。
今、話しているのは「試練」についてではなく「神の憤り」についてです。
私は、聖徒が「試練に遭う」ことに同意します。しかし「神の憤り」が注がれるとは思わないのです。
覚えてください。
黙示録が啓示する「最後の七つの災害」または「七つの金の鉢のわざわい」とは「神の憤りの極み」のことです。それは、聖徒が投げ込まれる「試練の炉」とは、まったく別のものです。
「試練」には、脱出の道が用意されています。
思い出してください。
ダニエル3章で「燃える火の炉」に投げ込まれたダニエルの3人の友のことを。
通常の七倍熱い炉の中に彼らは放り込まれました。しかし、奇跡的に助かりました。なぜでしょう。
ネブカドネツァルが見たように、確かに「第四の者」が、そこに存在しました。
主が、3人の聖徒とともにおられたのです。ゆえに、彼らは奇跡的に何の害も受けなかったのです。
あなたが、生かされている今も同じことが起こります。
確かに、あなたが生きるこの世には「苦難」「試練」があるでしょう。しかし、主は、決してあなたを見放されません。
「燃える火の炉」を回避できず「投げ込まれた」ように感じても、主が、あなたを見放されることはありません。その「燃える火の炉」の中を一緒に歩いてくださいます。そして、必ず、脱出の道を備えてくださいます。
けれど「神の憤りの杯」が注がれる日、そこに、主はともにはおられません。
イエス様が十字架上で「わが神、わが神、どうして、わたしをお見捨てになったのですか」と言われたのは、思い違いや不信仰からの言葉ではありません。本当に「御顔が隠された」のです。聖なる神は「罪」を直視されません。イエス様は「罪」となられたので、御父は御顔を隠されたのです。
神の憤りが「完了」するとき、聖なる神は「この地」から御顔を隠されます。
そこには「脱出の道」は備えられません。なぜなら、これは「試練」ではないからです。これは「神の憤り」であり「神のさばき」なのです。
「神の試練」と「神の憤り」は、まったく別のものです。
終わりのとき、「獣とその像とその名を示す数字に打ち勝った人々」は、神の御座の前に立ちます。
彼らは「神の竪琴を手にしてガラスの海のほとり」に立つのです。
イスラエルは守られます
さて、少し余談ですが…
次の節の学びに入るのには時間が足りないようなので、イスラエルについて少し考えてみたいと思います。
このとき、イスラエルは「荒野にある自分の場所」に逃げ込んでいます。
イスラエルは「荒野にある自分の場所」で守られます。
おそらく、出エジプトの時と同じことが、再び、起こるのでしょう。
この世は暗闇で覆われるけれど、イスラエルが逃げ込んだ場所には光があるだろうと、私は信じています。
さて、ここで「誤解」が生じやすいのですが…
「荒野の自分たちの場所」に逃げ込んでいるイスラエルは、この時点ではまだ、イエス様を受け入れてはいません。イスラエル人でありクリスチャンでもあるという人は、みな「御座の前」にいます。
イスラエルがイエス様を認めるのは「再臨のとき」です。
出エジプト記と黙示録を照らし合わせて読んでみるのも面白いものです。
十のわざわいと、黙示録のわざわいには、多くの共通点があります。そのような視点で、ぜひ、一度読んでみてください。黙示録のことが、もっと分かるようになるでしょう。
そのように考えると、聖書は「全体で一つの書物」なのだなと改めて思わされます。
一つ一つのみことばを味わうことは、たいへん恵まれます。一つの書簡だけをじっくりと読むのも素晴らしいことです。そして、また、全体の流れを思い巡らすことも、神様の壮大な計画の一端を垣間見るようで楽しいですね。
主なる神は「終わりから物事を見ておられる」と言った人がいますが、黙示録を学ぶことは、まさに「その視点」を学ぶことです。
私たちは「完了した」という立場に立って生きることができます。
私たちは「天の視点」を持つことができます。
すでに「天上に座って」いる者として生きましょう。
あなたは、今、すでに「天上に座って」いるのです。
一切の権威を持っておられる方とともに座っているのです。
キリストの御名の権威によって「地を治める者」として歩みましょう。
主に「贖われた者」はみな、王国であり祭司なのですから。
シャロームを祈ります。

