2025.12.20 岩に建てるシリーズ「終末の学び」を追加

【黙示録14章3節~6節】あなたは「地に住む人」ではありません

再臨を待つ

黙示録14:6
また私は、もう一人の御使いが中天を飛ぶのを見た。彼は地に住む人々、すなわち、あらゆる国民、部族、言語、民族に宣べ伝えるために、永遠の福音を携えていた。

神と子羊に献げられる初穂

使徒ヨハネは、地上で行われる忌まわしい出来事を見ました。

人々が「獣」を拝み「獣の刻印」を受ける姿を見つめていました。

しかし、突然、場面が切り替わります。これは、恐らく連続した出来事ではないでしょう。

使徒ヨハネは、今までとはまったく違う麗しい出来事を目撃します。

黙示録14:1
また私は見た。子羊がシオンの山の上に立っていた。また、子羊とともに十四万四千人の人たちがいて、その額には子羊の名と、子羊の父の名が記されていた。

子羊が「十四万四千人」の人々ともにシオンの山に立っておられます。

この「十四万四千人」は、七章に登場した「十四万四千人」と同じ人々であろうと私は考えます。

彼らは、新しい歌を歌います。

黙示録14:3
彼らは御座の前と、四つの生き物および長老たちの前で、新しい歌を歌った。しかし、地上から贖われた十四万四千人のほかは、この歌を学ぶことができなかった。

彼らは「御座の前と、四つの生き物および長老たちの前で」新しい歌を歌っています。

この新しい歌は「地上から贖われた者の歌」ですが、聖徒ならだれでも歌えるというわけではなさそうです。

「十四万四千人のほかは、この歌を学ぶことができなかった」と記されているからです。

彼らの「経験」は、他のだれとも違う特別なものなのでしょう。大患難時代を生き抜いた彼らだけが歌える「新しい歌」があるのだと私は思っています。これは、彼ら特有の「証し」なのではないかと思うのです。

黙示録14:4
この人たちは、女に触れたことがない者たちで、童貞である。彼らは、子羊が行く所、どこにでもついて行く。彼らは、神と子羊に献げられる初穂として、人々の中から贖い出されたのである。

これは、霊的な解釈と文字通りの解釈に意見が分かれています。

けれど、私は素直に「両方の意味」であると思っています。

彼らは、結婚していない独身者たちなのでしょう。そして、同時に「霊的」にも汚れのない純潔な人々なのでしょう。

神様が「結婚」を定められました。ですから聖書はもちろん「結婚」に反対していません。それは素晴らしいことだからです。

けれど、特殊な状況下において「独身」でいることが求められる場合があることは確かです。

主は、預言者エレミヤに結婚してはならないと命じられました。

エレミヤ16:1~2
次のような主のことばが私にあった。「あなたはこの場所で、妻をめとるな。息子も娘も持つな。」

エルサレムがバビロンに滅ぼされるという特殊な状況の中で、これはエレミヤに特別に与えられた命令でした。

パウロは、結婚に関してこのように言っています。

Ⅰコリント7:26
差し迫っている危機のゆえに、男はそのままの状態にとどまるのがよい、と私は思います。

大患難時代ほどの「危機的状況」は、ほかにないでしょう。

Ⅰコリント7:32~34
あなたがたが思い煩わないように、と私は願います。独身の男は、どうすれば主に喜ばれるかと、主のことに心を配ります。

「十四万四千人」の人々は、まさにそのような人々なのです。

彼らは「身も心も主のもの」であって、ただ一心に「主のことだけ」を思う人々なのです。

そのような彼らが「霊的な姦淫」つまり「偶像崇拝」の罪を犯すことなどあり得ないでしょう。

黙示録13:16
また獣は、すべての者に、すなわち、小さい者にも大きい者にも、自由人にも奴隷にも、その右の手あるいは額に刻印を受けさせた。

地上の人々が、大人から子どもまで、貧しい人も富んでいる人も、みなが「獣の刻印」を受け「獣の所有」とされていきます。

そのような世界において「十四万四千人」の人々は、特殊な存在となります。彼らは「額に主の名」を刻み「主のもの」として地上に存在するのです。

彼らは「子羊の行く所、どこにでもついて行く」人々です。それは、地上だけのことでなく「永遠に」そうなのです。

彼らは「神と子羊に献げられる初穂」です。

彼らは、大患難時代に救われる「イスラエルの初穂」なのかもしれません。恐らく、彼らが「千年王国の中心」となるのではないだろうかと私は想像しています。

十四万四千人の特徴

使徒ヨハネは「十四万四千人」についてこのように記しています。

黙示録14:5
彼らの口には偽りが見出されなかった。彼らは傷のない者たちであった。

彼らは「口に偽りのない者」「傷のない者」として紹介されます。これが「十四万四千人」の特質なのです。

詩篇24:3~4
だれが 主の山に登り得るのか。だれが 聖なる御前に立てるのか。手がきよく 心の澄んだ人 そのたましいをむなしいものに向けず 偽りの誓いをしない人

詩篇24篇は、この時代に向けての預言ではないだろうかと思います。

まさに、十四万四千人の人々のことを言っているようです。

口に偽りのない彼らは「シオンの山」に立ちます。また、神の御前で新しい歌を歌います。

終わりの時代、主が求めておられるのはこのような人々です。

私たちは、もちろん「強くありたい」と望みます。

「キリスト・イエスの立派な兵士」として戦いたいと望みます。

しかし、すべてが終わって、主の御前に立つときに評価されるのは「強さ」よりも「聖さ」であることを覚えておかねばなりません。

獣たちが権力を握り、偶像礼拝が強要される世界で、彼らは決して妥協することなく、ただ子羊だけを見て歩みます。彼らは「むなしいものに目をむけず、偽りの誓い」をすることはありません。

彼らには「二心」がないのです。

主が、聖徒に求めておられることは、いつの時代であっても変わりません。

ミカ6:8
主はあなたに告げられた。人よ、。何が良いことなのか、主があなたに何を求めておられるのかを。それは、ただ公正を行い、誠実を愛し、へりくだって、あなたの神と歩むことではないか。

覚えてください。

主は、あなたとともに歩くことを望んでおられるのです。主は、あなたにともに歩いて欲しいと願っておられるのです。

聖書は「特別な人の特別な行為」が記された書ではありません。聖書には、「普通の人が普通に行ったこと」が記されているのです。

エノクは、特別な人だったので「神に取られた」のではありません。彼は「神とともに歩んだ」ので神に取られたのです。

アブラハムは、特別な人だったので「義と認められた」のではありません。彼は「神を信じた」ので義と認められ望みを得たのです。

ダビデは、特別な人だったので「神に愛された」のではありません。彼は「ただ一つのことを求めた」ので、求めたことを、つまり「神ご自身」を得たのです。

「十四万四千人」の人々には、特別な使命が与えられるでしょう。しかし、私は、彼らとて「普通の人」であると信じています。ただ、彼らは大患難の中にあって「決して偽らず」一心に子羊の後について行く人々であると思うのです。

あなたも私も、彼らのように歩むことができます。

エノクのように、アブラハムのように、ダビデのように…

そして、これから現れる「十四万四千人」の人々のように…

ユダ24
あなたがたを、つまずかないように守ることができ、傷のない者として、大きな喜びとともに栄光の御前に立たせることのできる方、私たちの救い主である唯一の神に、私たちの主イエス・キリストを通して、栄光、威厳、支配、権威が、永遠の昔も今も、世々限りなくありますように。アーメン。

永遠の昔から、今も、そして未来も…

私たちの救い主である神は唯一です。

エノクの神と私の神は同じ方です。主は、私のことも天に上げることがお出来になります。

「十四万四千人」を傷なき者として守ることがお出来になる方は、今の時代の私たちをも「完全に」守ることがお出来になります。

私たちは何よりも、主が忌み嫌われる「偽りを語る口」を憎みましょう。

「主よ、私の口のことばと心の思いが御前に受け入れられますように」と日々祈り求めましょう。

主とともに歩むことを何よりも求めて生きましょう。

主は、必ず、私たちを最後まで導いてくださいます。

主は、必ず、私たちを「傷のない者」として御前に立たせてくださいます。

私は「天上に座る者」です

使徒ヨハネの視点が、十四万四千人から「御使い」に移ります。

黙示録14:6
また私は、もう一人の御使いが中天を飛ぶのを見た。彼は地に住む人々、すなわち、あらゆる国民、部族、言語、民族に宣べ伝えるために、永遠の福音を携えていた。

さてさて、いろいろと考えるべきことがありますね。時間の都合で、すべてを考え尽くすことはできませんが、いくつか一緒に考えてみましょう。

使徒ヨハネが見たのは「もう一人の御使い」です。「もう一人」とは「すでに登場した御使いとは別の」という意味でしょうか。どの御使いのことを指しているのかは分かりませんね。

その「もう一人の御使い」が「中天」を飛ぶのをヨハネは見ています。「天に階層」があるのは明らかです。

「中天」を飛ぶ御使いを「地に住む人々」は見ることはできません。

見えないけれど、あらゆる国民、部族、言語、民族の上を「御使い」は飛び回っているのです。

今も、恐らく「御使い」は、人々の上を飛び回っているのでしょう。

使徒ヨハネの見た御使いは「特別な使命」を帯びています。

彼は「永遠の福音」を携えています。つまり「福音を宣べ伝えるため」に世界中を飛び回っているということです。

聖徒以外に「福音を携えることはない」という意見もありますが、個人的には特に疑問は感じません。

主イエスがこの地にご降誕されたとき、その知らせを羊飼いに告げたのは御使いでした。

ルカ2:10~11
御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。見なさい。私は、この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。

御使いによって「主の恵みの年」が告げ知らされました。

私たちは「恵みの時代」に生かされています。

イエス様のご降誕は「恵みの年」の始まりです。しかし、いつか「復讐の日」が来るのです。

「もう一人の御使い」が携えている「永遠の福音」は、もしかすると「復讐の日」を告げ知らせるものなのかもしれません。

もうしばらくすれば「来たるべき方が来られる」という知らせなのではないかと思います。つまり「主の再臨の日」が間近に迫っているという知らせです。

私は、この時、どのようにしてだかは分かりませんが、全世界の人々が「永遠の福音」を聞くのだろうと思います。

「あらゆる国民、部族、言語、民族」が永遠の福音を聞くのです。この「永遠の福音」については次回にもう少し考えてみたいと思います。

今回は「地に住む人々」という語に注目しましょう。ここには「天に座す者」との対比があります。

「地に住む人々」とは、直訳すると「地に座る人々」です。

「地に座る」とは「地に根付く」「地に属する」ということです。

エペソ2:6
神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。

愛する兄弟姉妹。

あなたは「今」すでに「天上に座っている者」であることを覚えてください。

あなたは「地に住む者」すなわち「地に座る者」ではありません。

あなたは、この世から分離されて「神の所有」となっているのです。この世の中で「地に根ざして」歩むことはできないのです。

私たちは「地に属する者」ではないのです。

「地に根ざそうとする」のはやめなさい。主にある聖徒に「それは不可能」だからです。もし、あなたが「地に根ざす」ことができたと感じるなら、そのとき、もはや、あなたは「聖徒」ではありません。

コロサイ3:2
天にあるものを思いなさい。地にあるものを思ってはなりません。あなたがたはすでに死んでいて、あなたがたのいのちはキリストとともに神のうちに隠されているのです。

私たちは「天上に座っている者」です。

私たちは「天に住む者」「キリストに根ざす者」なのです。

ですから、私たちは「天にあるものを思って」生きましょう。

私たちは「地上では旅人であり寄留者」なのです。

敵は、あなたにささやくでしょう。

「おまえの持ち物はそれだけか。何十年も生きてきたのにそれっぽっちか」と。

もし、敵が「それっぽっちか」とささやくなら、私は言います。

「私は、その『それっぽっち』も捨てよう」と。

私たちは「じっと手を見る」ような生き方は捨てましょう。働いても働いても報いを得られないと嘆きながら、自分の手を見つめるような生き方は「聖徒の生き方」ではありません。

地上の「それっぽっち」にしがみつくのはやめましょう。

私たちは「天のことを思い」ながら生きましょう。

あなたの上に「天が開けて」いるのが見えませんか?

御使いが、あなたの上を「上り下り」していることを信じなさい。

地上の「それっぽっち」から目を離しなさい。

天に「豊かな宝」があふれているのが見えるでしょう。その「宝」こそ、あなたのものです。

確かに、あなたは「肉のからだ」においては、まだ地上にいるでしょう。しかし、決して忘れてはなりません。あなたはすでに「天上に座る者」であることを。

王の息子よ。王の娘よ。

あなたは、地に根付く者ではなく「地を支配」する者です。地から「恩恵」を得ようとするのはやめなさい。

それは、王の子どものすることではありません。あなたの天の父が「完全」であることを信じなさい。

「地」には、神の子どもたちの「住まい」はありません。私たちの「住まい」は「天」にあります。

そこに「あなたの宝」があることを決して忘れてはなりません。

マタイ6:21
あなたの宝のあるとろ、そこにあなたの心もあるのです。

あなたの心は、どこにありますか?

シャロームを祈ります。