黙示録14:6
また私は、もう一人の御使いが中天を飛ぶのを見た。彼は地に住む人々、すなわち、あらゆる国民、部族、言語、民族に宣べ伝えるために、永遠の福音を携えていた。
神と子羊に献げられる初穂
使徒ヨハネは、地上で行われる忌まわしい出来事を見ました。
人々が「獣」を拝み「獣の刻印」を受ける姿を見つめていました。
しかし、突然、場面が切り替わります。これは、恐らく連続した出来事ではないでしょう。
使徒ヨハネは、今までとはまったく違う麗しい出来事を目撃します。
子羊が「十四万四千人」の人々ともにシオンの山に立っておられます。
この「十四万四千人」は、七章に登場した「十四万四千人」と同じ人々であろうと私は考えます。
彼らは、新しい歌を歌います。
彼らは「御座の前と、四つの生き物および長老たちの前で」新しい歌を歌っています。
この新しい歌は「地上から贖われた者の歌」ですが、聖徒ならだれでも歌えるというわけではなさそうです。
「十四万四千人のほかは、この歌を学ぶことができなかった」と記されているからです。
彼らの「経験」は、他のだれとも違う特別なものなのでしょう。大患難時代を生き抜いた彼らだけが歌える「新しい歌」があるのだと私は思っています。これは、彼ら特有の「証し」なのではないかと思うのです。
これは、霊的な解釈と文字通りの解釈に意見が分かれています。
けれど、私は素直に「両方の意味」であると思っています。
彼らは、結婚していない独身者たちなのでしょう。そして、同時に「霊的」にも汚れのない純潔な人々なのでしょう。
神様が「結婚」を定められました。ですから聖書はもちろん「結婚」に反対していません。それは素晴らしいことだからです。
けれど、特殊な状況下において「独身」でいることが求められる場合があることは確かです。
主は、預言者エレミヤに結婚してはならないと命じられました。
エルサレムがバビロンに滅ぼされるという特殊な状況の中で、これはエレミヤに特別に与えられた命令でした。
パウロは、結婚に関してこのように言っています。
大患難時代ほどの「危機的状況」は、ほかにないでしょう。
「十四万四千人」の人々は、まさにそのような人々なのです。
彼らは「身も心も主のもの」であって、ただ一心に「主のことだけ」を思う人々なのです。
そのような彼らが「霊的な姦淫」つまり「偶像崇拝」の罪を犯すことなどあり得ないでしょう。
地上の人々が、大人から子どもまで、貧しい人も富んでいる人も、みなが「獣の刻印」を受け「獣の所有」とされていきます。
そのような世界において「十四万四千人」の人々は、特殊な存在となります。彼らは「額に主の名」を刻み「主のもの」として地上に存在するのです。
彼らは「子羊の行く所、どこにでもついて行く」人々です。それは、地上だけのことでなく「永遠に」そうなのです。
彼らは「神と子羊に献げられる初穂」です。
彼らは、大患難時代に救われる「イスラエルの初穂」なのかもしれません。恐らく、彼らが「千年王国の中心」となるのではないだろうかと私は想像しています。
十四万四千人の特徴
使徒ヨハネは「十四万四千人」についてこのように記しています。
彼らは「口に偽りのない者」「傷のない者」として紹介されます。これが「十四万四千人」の特質なのです。
詩篇24篇は、この時代に向けての預言ではないだろうかと思います。
まさに、十四万四千人の人々のことを言っているようです。
口に偽りのない彼らは「シオンの山」に立ちます。また、神の御前で新しい歌を歌います。
終わりの時代、主が求めておられるのはこのような人々です。
私たちは、もちろん「強くありたい」と望みます。
「キリスト・イエスの立派な兵士」として戦いたいと望みます。
しかし、すべてが終わって、主の御前に立つときに評価されるのは「強さ」よりも「聖さ」であることを覚えておかねばなりません。
獣たちが権力を握り、偶像礼拝が強要される世界で、彼らは決して妥協することなく、ただ子羊だけを見て歩みます。彼らは「むなしいものに目をむけず、偽りの誓い」をすることはありません。
彼らには「二心」がないのです。
主が、聖徒に求めておられることは、いつの時代であっても変わりません。
覚えてください。
主は、あなたとともに歩くことを望んでおられるのです。主は、あなたにともに歩いて欲しいと願っておられるのです。
聖書は「特別な人の特別な行為」が記された書ではありません。聖書には、「普通の人が普通に行ったこと」が記されているのです。
エノクは、特別な人だったので「神に取られた」のではありません。彼は「神とともに歩んだ」ので神に取られたのです。
アブラハムは、特別な人だったので「義と認められた」のではありません。彼は「神を信じた」ので義と認められ望みを得たのです。
ダビデは、特別な人だったので「神に愛された」のではありません。彼は「ただ一つのことを求めた」ので、求めたことを、つまり「神ご自身」を得たのです。
「十四万四千人」の人々には、特別な使命が与えられるでしょう。しかし、私は、彼らとて「普通の人」であると信じています。ただ、彼らは大患難の中にあって「決して偽らず」一心に子羊の後について行く人々であると思うのです。
あなたも私も、彼らのように歩むことができます。
エノクのように、アブラハムのように、ダビデのように…
そして、これから現れる「十四万四千人」の人々のように…
永遠の昔から、今も、そして未来も…
私たちの救い主である神は唯一です。
エノクの神と私の神は同じ方です。主は、私のことも天に上げることがお出来になります。
「十四万四千人」を傷なき者として守ることがお出来になる方は、今の時代の私たちをも「完全に」守ることがお出来になります。
私たちは何よりも、主が忌み嫌われる「偽りを語る口」を憎みましょう。
「主よ、私の口のことばと心の思いが御前に受け入れられますように」と日々祈り求めましょう。
主とともに歩むことを何よりも求めて生きましょう。
主は、必ず、私たちを最後まで導いてくださいます。
主は、必ず、私たちを「傷のない者」として御前に立たせてくださいます。
私は「天上に座る者」です
使徒ヨハネの視点が、十四万四千人から「御使い」に移ります。
さてさて、いろいろと考えるべきことがありますね。時間の都合で、すべてを考え尽くすことはできませんが、いくつか一緒に考えてみましょう。
使徒ヨハネが見たのは「もう一人の御使い」です。「もう一人」とは「すでに登場した御使いとは別の」という意味でしょうか。どの御使いのことを指しているのかは分かりませんね。
その「もう一人の御使い」が「中天」を飛ぶのをヨハネは見ています。「天に階層」があるのは明らかです。
「中天」を飛ぶ御使いを「地に住む人々」は見ることはできません。
見えないけれど、あらゆる国民、部族、言語、民族の上を「御使い」は飛び回っているのです。
今も、恐らく「御使い」は、人々の上を飛び回っているのでしょう。
使徒ヨハネの見た御使いは「特別な使命」を帯びています。
彼は「永遠の福音」を携えています。つまり「福音を宣べ伝えるため」に世界中を飛び回っているということです。
聖徒以外に「福音を携えることはない」という意見もありますが、個人的には特に疑問は感じません。
主イエスがこの地にご降誕されたとき、その知らせを羊飼いに告げたのは御使いでした。
御使いによって「主の恵みの年」が告げ知らされました。
私たちは「恵みの時代」に生かされています。
イエス様のご降誕は「恵みの年」の始まりです。しかし、いつか「復讐の日」が来るのです。
「もう一人の御使い」が携えている「永遠の福音」は、もしかすると「復讐の日」を告げ知らせるものなのかもしれません。
もうしばらくすれば「来たるべき方が来られる」という知らせなのではないかと思います。つまり「主の再臨の日」が間近に迫っているという知らせです。
私は、この時、どのようにしてだかは分かりませんが、全世界の人々が「永遠の福音」を聞くのだろうと思います。
「あらゆる国民、部族、言語、民族」が永遠の福音を聞くのです。この「永遠の福音」については次回にもう少し考えてみたいと思います。
今回は「地に住む人々」という語に注目しましょう。ここには「天に座す者」との対比があります。
「地に住む人々」とは、直訳すると「地に座る人々」です。
「地に座る」とは「地に根付く」「地に属する」ということです。
愛する兄弟姉妹。
あなたは「今」すでに「天上に座っている者」であることを覚えてください。
あなたは「地に住む者」すなわち「地に座る者」ではありません。
あなたは、この世から分離されて「神の所有」となっているのです。この世の中で「地に根ざして」歩むことはできないのです。
私たちは「地に属する者」ではないのです。
「地に根ざそうとする」のはやめなさい。主にある聖徒に「それは不可能」だからです。もし、あなたが「地に根ざす」ことができたと感じるなら、そのとき、もはや、あなたは「聖徒」ではありません。
私たちは「天上に座っている者」です。
私たちは「天に住む者」「キリストに根ざす者」なのです。
ですから、私たちは「天にあるものを思って」生きましょう。
私たちは「地上では旅人であり寄留者」なのです。
敵は、あなたにささやくでしょう。
「おまえの持ち物はそれだけか。何十年も生きてきたのにそれっぽっちか」と。
もし、敵が「それっぽっちか」とささやくなら、私は言います。
「私は、その『それっぽっち』も捨てよう」と。
私たちは「じっと手を見る」ような生き方は捨てましょう。働いても働いても報いを得られないと嘆きながら、自分の手を見つめるような生き方は「聖徒の生き方」ではありません。
地上の「それっぽっち」にしがみつくのはやめましょう。
私たちは「天のことを思い」ながら生きましょう。
あなたの上に「天が開けて」いるのが見えませんか?
御使いが、あなたの上を「上り下り」していることを信じなさい。
地上の「それっぽっち」から目を離しなさい。
天に「豊かな宝」があふれているのが見えるでしょう。その「宝」こそ、あなたのものです。
確かに、あなたは「肉のからだ」においては、まだ地上にいるでしょう。しかし、決して忘れてはなりません。あなたはすでに「天上に座る者」であることを。
王の息子よ。王の娘よ。
あなたは、地に根付く者ではなく「地を支配」する者です。地から「恩恵」を得ようとするのはやめなさい。
それは、王の子どものすることではありません。あなたの天の父が「完全」であることを信じなさい。
「地」には、神の子どもたちの「住まい」はありません。私たちの「住まい」は「天」にあります。
そこに「あなたの宝」があることを決して忘れてはなりません。
あなたの心は、どこにありますか?
シャロームを祈ります。

