黙示録2:12~13a
また、ペルガモンにある教会の御使いに書き送れ。「鋭い両刃の剣を持つ方が、こう言われる。ー
わたしは、あなたが住んでいるところを知っている。そこにはサタンの王座がある。
鋭い両刃の剣を持つ方からペルガモンの教会へ
今回は、黙示録2章12節から13節の前半までを学びます。
イエス様は「鋭い両刃の剣を持つ方」として、ペルガモンの教会に手紙を送られました。
主の剣は「鋭い両刃の剣」です。使徒ヨハネは「口から両刃の剣が出て」いるイエス様の姿を見ました。
イエス様は「みことば」によって戦われます。主の「みことば」は剣なのです。
最後の戦いのときも「みことばの剣」を振るわれます。人々を打つのは「みことば」です。これが具体的に「どのような状態」なのかは分かりませんが、確かなことが一つあります。
「終わりの日」に人をさばくのは「イエス様が話したことば」です。
私たちは、決して「みことば」を耳から滑り落してはなりません。私たちは、イエス様の言われたことを受け入れ救われたのです。
イエス様によって語られたことを「ないがしろ」にしたならば、私たちには救われる術はありません。「神のことば」を拒むことは「主ご自身」を拒むことです。
さて、ペルガモンの教会の話に戻りましょう。
ペルガモンに現わされたイエス様の姿は「鋭い両刃の剣を持つ方」です。つまり、主は「何かと戦う」おつもりだと言うことです。
「みことばの剣」は、まず「見分けるため」に振るわれるものです。
ペルガモンの教会は「見分ける方」が必要な状態であったということです。主は「刺し貫く」ために剣を用いられます。
「たましい」と「霊」を自分で分けることは不可能に思えます。私たちはみな「霊的」であるべきです。私たちはみな「御霊に導かれて」歩むべきです。
けれども、そうありたいと望みつつも「たましい、肉の思い」に引っ張られてしまうことが多々あります。
「これは自分の考えだろうか。それとも御霊から来たものだろうか」と悩んでしまうこともあります。考えすぎて訳がわからなくなることもあるでしょう。
しかし、主の「みことばの剣」は、それを「刺し貫き」分けることができるのです。
ヨシュアは、抜き身の剣を持つ人を見ました。そして言ったのです。
「あなたは私たちの味方ですか、それとも敵ですか」
その人は答えました。
「主の軍の将」は、ヨシュアに「敵である」とも「味方である」とも告げられませんでした。ただ「主の軍の将」として、そこに立っておられたのです。
ヨシュアは「顔を地につけて伏し拝み」ました。このヨシュアの態度は正解だと思います。
私たちは「抜き身の剣」を持つ方の御前にひれ伏すべきです。
言い換えれば、私たちは「みことば」の前にひれ伏すべきなのです。
私たちは御言葉に対して「敵か味方か」と問うべきではありません。
もちろん御言葉は、あなたを慰めたり励ましたりしてくれます。私たちは御言葉によって力を得ます。
けれど、御言葉は、ただ「心地よいこと」を聞くためだけに啓示されているのではありません。私を慰め助けます。しかし同時に「導く」ためにも啓示されます。つまり「みことば」には「従う」必要があるということです。
「みことば」を読みたいときだけ、必要だと感じる時だけ読むという態度は改めなければなりませんね。どちらに「主権」があると私は思っているのでしょう。
主権は「主のみことば」にあります。それは「神のことば」であり「生きている」のです。そして、それは「剣」なのです。
私が御言葉の前に「ひれ伏す」ならば、聖霊様が「剣」を用いてくださいます。
私の「心の思いやはかりごと」を見分けてくださいます。自分の中で「こんがらがって」どうしようもない心を「刺し貫いて」見分けてくださいます。
もしかすると「罪」を示され「分離」せよと言われるかもしれません。
知らないうちに世の中に呑まれて妥協していたことを示されるかもしれません。
「えっ、そんな小さなこと?」と思われることを示されるかもしれません。
主の「みことば」の前に、私たちはひれ伏しましょう。それは「神のことば」「いのちのことば」です。それは、イエス様そのものです。
ペルガモンの教会は、今、「みことばの前にひれ伏すのか」を問われているのです。
主は「鋭い両刃の剣」を持って教会の前に立っておられます。
あなたの住んでいるところを知っている
イエス様は言われます。
「わたしは、あなたが住んでいるところを知っている」と。
エペソの教会には「あなたの行い、労苦と忍耐を知っている」と言われました。
スミルナの教会には「あなたの苦難と貧しさ」を知っていると言われました。
そして、ペルガモンの教会には「あなたが住んでいるところを知っている」と言われるのです。
主は「環境」に注目しておられます。「困難な場所」に注目してくださいます。
主は、私たちが「どこにいるのか」をご存知です。
あなたがどんな場所に住んでいるのか知っておられます。
あなたがどこで働いているのかを知っておられます。
あなたがどんな境遇に置かれているのか知っておられます。
主は、そこが、あなたにとって「心地よいところ」ではないことをご存知です。
「困難な場所」に置かれていることは「見捨てられた証拠」ではありません。主が「あなたの住んでいるところを知っている」と言われることを覚えてください。
あなたがそこで守られるのか、それとも脱出させてくださるのか、それは私にはわかりません。
しかし、主が「ともにおられる」ことは確かです。主が「知っている」と言われることも確かです。
そして、主が「ともにおられ」「知っておられる」のならば、私たちは信頼して待ち望むしかありません。そこには必ず目的があるのだと私は信じています。
ペルガモンの教会は、キリスト者として生きることが困難な場所に住んでいました。
主は言われます。
「そこにはサタンの王座がある」と。
ペルガモンの教会が住んでいるところには「サタンの王座」があったのです。
「死に至るまで忠実であれ」と言われ多くの殉教者をだしたスミルナの教会へのことばではないのです。
「サタンの王座」は「激しい殉教の場所」にあるわけではないということです。
私たちが考える「危険な場所」と、主が見ておられる「危険な場所」は違うのではないかと思います。
私たちの戦いは「血肉によらない」ものです。それは「霊的な戦い」です。
サタンの王座とは何か?
イエス様はペルガモンに「サタンの王座」があると言われました。
ペルガモンの町には、エペソやスミルナ以上に偶像の神殿がたくさんありました。
ペルガモンと言う町には、その名前「ペルガモン」が要塞を意味するように、ぐるりと弧を描くカイクス川を見下す高台にありました。古く美しい町です。ギリシャ文化の最高の華とまで評された町でした。文化の中心地、二十万冊を誇る図書館を持っていました。アクロポリスには、他の町の例にもれず、当時の四大神殿、ゼウス、酒の神バッカス(ディオニュソス)、芸術と戦の女神アテーネ、そして医療の神アウスクレビオスと、豪勢な神殿が建ち並びます。ついでに、アウグストゥスとローマの女神を祀るに及んで、まさにこの町は神々の住む所といった賑わいでした。
黙示録の七つの教会への手紙 柴田敏彦著 いのちのことば社
さて、このように「多くの偶像神殿」がある中で、いったい「どれがサタンの王座なのか」という議論がなされます。
最も多い意見は「ゼウス神殿こそサタンの王座である」というものでしょう。
「いや、皇帝礼拝こそサタンの王座だ」という人もいます。
「アウスクレビオスは、蛇を使うのだから、間違いなくサタンの王座がある」という意見もあります。
しかし、私は個人的には「どの神殿」「どの偶像」という議論はナンセンスだと思っています。
イエス様は「あなたの住んでいるところにサタンの王座がある」と言われました。ですから、私は「ペルガモンの町そのもの」にサタンの王座があるという解釈でよいのではないかと思います。
J・バーノン・マギー神学博士はメッセージの中でこう言いました。
「ペルガモンにはサタンの司令部があった」と。
私は、全面的にこの意見に賛成です。
当時のペルガモンに「サタンの司令部」があったと私も思います。
サタンは「支配者」としてペルガモンに王座を設け、そこから「司令」をくだしていたのだろうと思うのです。
「どこの神殿」「どの偶像」ではなく「ペルガモン」にあったのです。もちろん、今もそこにあるとは思いません。歴史の中で「サタンの司令部」は、場所を移しているのではないかと思います。あくまで個人的にそう思うだけですが。
サタンは、確かに「この世の支配者」です。恐ろしく、賢く、強く見えます。
しかし「遍在」ではありません。
つまり、同時に複数の場所に存在することはできないのです。
全能の神の真似をしてはいますが、所詮は「被造物」にすぎません。「天にも地にも満ちておられる方」のようには決してなれないのです。
しかし、サタンはその部下を統率し命令を下す「司令部」を持っています。持っていることは明らかであると私は思います。
この箇所は、サタンの国にも組織階層があることを示しています。
デレク・プリンス師はこのように訳しています。
私たちの戦いは、血肉に対するものではなく、肉体を持った人間でもなく、様々な領域と階層の支配者たち、現在の暗闇世界の統率者たち、天にいるもろもろの悪霊の力に対するものです。
霊的戦い デレク・プリンス著 DPMアジア・パシフィック
サタンは「高度に組織化された王国」を持っているのです。
目に見える出来事の背後に「支配された暗闇の力」があることを覚えていなければなりません。
本当に危険なことは…
ペルガモンは、サタンの「お膝元」にあったと言えます。
ペルガモンの人々は「サタンの王座」のもとで安穏と暮らしていました。彼らは、文化的な人々でした。
当時の世界で一番と言っていいほど文化的な町でした。
世界一の蔵書を誇る図書館がありました。当時、その蔵書は20万冊であったと言われています。
医療の町と呼ばれていました。医術が発達していたのです。もちろん怪しい医術です。医術と言うより「催眠術だ」という学者さんもいます。
「医療の神アウクレピオス」の神殿は、日本でいう所の「湯治場」の役目もしていました。皇帝アウグストは、ここに来るのが好きだったと言われています。
アウクレピオスは「ソーテール」と呼ばれていました。つまり「救い主アウクレピオス」という意味です。
もし「どの神殿がサタンの王座か」という議論にどうしても答えなければならないとしたら、私は「アウクレピオスの神殿」を選ぶでしょう。
サタンの「お膝元」で、人々は「神癒」に夢中でした。世界一の図書館を誇っていました。しかし、その「癒し」と「知恵」の背後にはサタンの王国がありました。
激しい戦いが「目に見えて行われている場所」に「サタンの王座」があるとは限りません。
ペルガモンの町は、エペソやスミルナほど「派手な町」ではなかったようです。すこし奥まった場所にありました。ですから「ものすごく堕落しているようにも見えない町」でした。
人々が癒しを求めに来る場所、人々が知恵を求めて来る場所、そこに「サタンの王座」があったのです。
愛する兄弟姉妹。
最も危険なのは「迫害」「妨害」がある場所ではありません。確かにそのような場所は「苦難」「困難」に満ちています。しかし、スミルナの教会にイエス様が言われたように、彼らの霊は「富んで」います。
スミルナの教会は「死」を経験しました。しかし、彼らの「たましい」は決して滅びません。彼らの肉体は滅びても、その先にある「永遠のいのち」は誰にも奪うことができないのです。
最も危険なのは「たましいが世の中と癒着する場所」です。
最も危険なのは「たましいを滅びに導く場所」です。
「癒し」を世の中に求めることのできる場所です。
「知恵」を世の中に求めることができる場所です。
恐れるべきは「広い道」を行くことなのです。
「世と世にあるものを愛する」ならば、私たちに「御父の愛」はありません。
イエス様が「両刃の剣」を持って立っておられることを覚えていてください。
その剣は、サタンに対して振るわれるものではありません。
次回に詳しく学びますが、その剣は「教会に対して」振るわれるものです。
終わりの時代を生きる私たちは、このことを心に留めていなければなりません。
ペテロは言います。
サタンは「良いと見えるもの」の背後にもいるのです。ですから「良いと見えるという理由」で従ってはなりません。
私たちは「良いと見えるもの」ではなく「唯一の良い方」を見続ける必要があります。
つまり「いのちのことば」から目を離してはならないということです。
イエス様こそ、私のすべてです。この方こそ、求めるべき方です。
「両刃の剣」を持つ方の御前にひれ伏しましょう。
「いのちのことば」である方の御前にひれ伏しましょう。
心から「みことば」にひれ伏しましょう。
そうすれば、主が「心の思いやはかりごと」を見分けてくださいます。私たちを「世との癒着」から切り離してくださいます。
そうすれば、私たちは「良いと見えるもの」に間違って従うことはなくなります。
「サタンの王座」に怯えることはありません。
私たちの主は、すでに「世に勝った」のです。
イエス様だけを見つめて歩みましょう。
私たちは「世に勝つ者」とされているのです。
次回は、この続きを学びます。ペルガモンの教会の本当の「問題」が何であったのかを学びたいと思います。
祝福を祈ります。