詩篇119:71
苦しみにあったことは 私にとって幸せでした。それにより 私はあなたのおきてを学びました。
それは振り返った時にわかるものです
「苦しみにあったことは 私にとって幸せでした」と詩人は言います。これは「苦しみの最中」にはできない告白です。
「苦しみにあったこと」は、別の訳では「卑しめられたこと」です。
ヤコブは「神と格闘」をするまで、自分自身が何者であるか気がつきませんでした。いえ、格闘しても気がつかなかったのです。
ラバンのところで「卑しめられる」という痛みを知りました。一生懸命に頑張って仕えて来たのに「ひどい仕打ちにあった」と思っていました。
ラバンから解放され、カナンの地に戻ることとなりましたが、まだ「苦しみ」は続きます。今から戻るあの地には「エサウ」という大問題が待っているのです。
ヤコブは「闘う人」です。彼は強いのです。
主は、ヤコブに「勝てない」と思われました。それほどヤコブという人は「強い」のです。ももの関節を打たれ、それでもなお、すがりついて来るヤコブに、主は言われました。
ヤコブとは「押しのけるもの」「かかとをつかむもの」という意味です。
主は、ヤコブの「名」を尋ねられました。つまり「おまえは何者か」と言われたのです。
「押しのけるものです」とヤコブは答えました。
ヤコブは、今まで「人を押しのけ」「人の足をひっぱって」生きてきました。
主は、ヤコブの「姿」を浮き彫りにされたのです。そして、それが主の目的でした。ヤコブに自分自身の「実際の姿」を知らしめるための苦しみでした。
自分の「姿」が浮き彫りになるのは辛いことです。しかし「卑しめられる」という経験を、主が許されることがあるのです。
私たちは「苦しみ」の意味を完全に理解することはできません。しかし、確実なことが一つだけあります。
「金が火に入れられるのは純化するためである」ということです。金の不純物は溶かされなければ取り除くことはできません。何事も起こらなければ、私の中の不純物は明らかにはされないのです。
ヤコブが、自分の本当の姿を完全に理解したかどうかは分かりません。しかし、自分の姿を告白したヤコブに、主は「新しい名前」を下さいました。
彼は、これから「イスラエル」として生きていくのです。
その後のイスラエルの行動を見ると、彼が「変えられた」ことが分かります。彼は、自ら先頭に立って、エサウとの対面を果たしました。
しかし、同時に「まだヤコブを引きずっているな」と思える部分も残っています。
私たちは、新しく変えられますが完全ではありません。しかし、主とともに歩くなら「栄光から栄光へ」と変えられていきます。主は、私たちを「苦しみ」「悩み」によって練られます。純化されます。
あなたが苦しみの中を通っているなら、どうか覚えてください。
主は、あなたの側におられます。そして、ご自身のなさっていることをご存知です。苦しみの時は、必ず過ぎ去ります。それはいつまでも続きません。
私たちは、振り返ったとき、必ず言うでしょう。
主よ、私を純化してください
今の苦しみの時、主だけを見上げます
どうしたらいいのか分からなくても委ねて歩みます