【創世記16:3】あなたでなければダメなのです!

猫と犬

【創世記16:3】
アブラムの妻サライは、アブラムがカナンの地に住んでから十年後に、彼女の女奴隷であるエジプト人ハガルを連れて来て、夫アブラムに妻として与えた。

サライも色々と悩み考えたのです

約束の地に入って十年です。サライもこの十年間、悩んでいただろうと思うのです。

主は、夫のアブラムに子孫の約束を与えてくださったけど、一向にその気配はない。「自分のせいだろうか」と思い悩んでいたのではないでしょうか。

当時の慣習として、正妻に子どもが産めなければ、その女奴隷によって跡継ぎを得るという方法が取られていたようです。

このような方法は、古代東方世界の一般的な慣習であった。女奴隷のひとりを、第二夫人にするのである。こうして女奴隷は、子を生めば自由の身になることができた。

(創世記 尾山令二著 p243 羊郡社)

アブラハムは、十年間、子どもが与えられなくても、その方法を取ろうとは言わなかったのです。私はアブラハムのこのようなところが好きです。

さて、この前の章(創世記15章)でアブラムは、再び主から素晴らしい約束をいただきます。

創世記15:3~4
さらに、アブラムは言った。「ご覧ください。あなたが子孫を私に下さらなかったので、私の家のしもべが私の跡取りになるでしょう。」すると見よ、主のことばが彼に臨んだ。「その者があなたの跡を継いではならない。ただ、あなた自身から生まれ出てくる者が、あなたの跡を継がなければならない。」

「自分のしもべ(エリエゼル)が財産を受け継ぐことになるのだろうか」とアブラムは考えていたのです。何のために「カナン」の地に来たのだろう。財産をしもべに継がせるためなのか。そうであるとすれば、自分は何のために苦労して生きて来たのか。アブラムは、自分の人生に疑問を抱いていたのです。

しかし、主は、はっきりと答えてくださいました。「いや、あなた自身から生まれ出る者が跡継ぎだ」と。

これは、想像でしかありませんが…、
主の約束をいただいて、アブラムはとても心が高揚していたのではないかと思います。

主は、必ず子孫を与えてくださる。跡継ぎは、エリエゼルではない。私から出る「私の子」が跡を継ぐ。そのように、たいそう興奮してにサライに語ったのではないでしょうか。サライも、恐らく主の約束のみことばを一緒に喜んだのでしょう。

しかし、ふと思うわけです。
「アブラムに子が与えられる」という約束は素晴らしい。けれど、もうカナンに来て10年が過ぎた。もしかして、私には子どもが与えられないのかもしれない。「アブラムの子」であればいいということかしら? 私でなくても「アブラムの子」であればいいのかもしれない。

サライの気持ちも理解できます。このとき、サライは75歳ぐらいになっています。アブラムは85歳ぐらい。自分には子どもは産めないのではないかと不安になったとしても不思議ではありません。自分が約束の妨げになっているのだろうかと考えたとしても、その思考は理解できます。

いろいろと考え、悩み、「自分」である必要はないんじゃないかとサライは結論付けました。

あなたでなければダメなのです

「自分でなくてもいいのではないか」そう思ってしまう気持ちは、とてもよくわかります。私も常々そう思ってしまうからです。

私も「自分でなくても」と考えてしまいます。「もうすでにやっている人がいるし、もっと上手くやっているし、自分が今更それをする必要があるのか」などと思います。

人それぞれ、理由はさまざまあるでしょう。ですが「自分でなくてもいい」という考え方を神様はあまり好まれないと思います。

サライのことについて神様が言われたことを見ましょう。

創世記17:15~16
また神はアブラハムに仰せられた。「あなたの妻サライは、その名をサライと呼んではならない。その名はサラとなるからだ。わたしは彼女を祝福し、彼女によって必ずあなたに男の子を与える。わたしは彼女を祝福する。彼女は国々の母となり、もろもろの民の王たちが彼女から出てくる。」

創世記17:19
神は仰せられた。「いや、あなたの妻サラが、あなたに男の子を産むのだ。あなたはその子をイサクと名付けなさい。わたしは彼と、わたしの契約を立て、それを彼の後の子孫のために永遠の契約とする。

神様は、はっきりとサラによって子を与えると言われました。サラによる子でなければダメなのです。

主は、私たちにも言われます。「あなたでなければダメだ」と。

タラントを与えるのは神様です

主は、私たちに賜物をくださいました。ひとりひとりに分け与えてくださったのです。

マタイ25:14~15
天の御国は、旅に出るにあたり、自分のしもべたちを呼んで財産を預ける人のようです。彼はそれぞれの能力に応じて、一人には五タラント、一人には二タラント、もう一人には一タラントを渡して旅に出かけた。

分け与えるのは「主人」です。しもべは、預けられたものに対して何も言う権利はありません。それは、預かったものであって「主人のもの」です。5タラントでも、1タラントでも「しもべのもの」ではありません。しもべは、ただ預かったものに忠実であればいいのです。

「パム・マーハッド」という「とりなしの賜物」をいただいている女性の証を紹介します。

「これはしばしば私に起こることなのです。誰かのため、あるいはある状況のために祈りを捧げようとすると、『私が祈っても何も起こらない』といった思いにとらわれるのです。そしてせっかく善意で始めようと思ったのに、まったく祈らずに終わってしまうことがあるのです。」
こういった苛立ちがあることを、パムは主に向かって祈りました。すると主がマタイの福音書二十五章を通して語られたのです。この箇所はその人の能力に応じて神が与えられるタラントの話が書かれ、タラントが一個人に与えられる数を決定されるのは、主であることが明記されていました。
パムはこの御言葉から主からの語りかけを受け、罪の悔い改めを示されたのです。
「私は主につぶやきの罪を犯していました。周りの人を見て、心の中でこうつぶやいていたのです。『主よ、私はほんの一タラントの祈り手にしか過ぎません。あなたは他の者たちを五タラントの祈り手に造られました。彼らに祈りを捧げさせてください。私の祈りなんて、これっぽっちも意味がありませんから。」
パムは神の御心がわかりました。つまり神は、与えられたものを用いることのみを彼女に期待しておられたのです。それ以上でもなく、それ以下でもありません。

祈りの盾 P215 マルコーシュ・パブリケーション

この証を読んで私は悔い改めたのです。自分は、まさに預かったタラントを地に埋めようとしているしもべだと思いました。他の人の方がもっとうまくできるとして、それが私に何の関係があるでしょう。

あの人は、5タラントを持っているけれど、私は1タラントしかない。5タラントの人に敵うわけがない。確かにそうでしょう。私に出来ることなど微々たるものです。しかし、だから何だと言うのでしょう?

たとえそうであったとしても、それは、私が何もしなくてもよい理由にはなりません。タラントを分け与えてくださる方は、神様です。そして、神様は、ご自分のしておられることをよくご存じです。

主人の目的を見誤ったのです

「自分でなくても」という考え方は、地の中にタラントを隠すことにつながります。

マタイ25:25
一タラント預かっていた者も進み出て言った。ご主人様。あなた様は蒔かなかったところから刈り取り、散らさなかったところからかき集める、厳しい方だと分かっていました。それで私は怖くなり、出て行って、あなた様の一タラントを土の中に隠しておきました。ご覧ください、これがあなた様の物です。」

地の中にタラントを埋めたしもべは、主人から預かったタラントを失ったわけではないのです。そっくりそのまま主人のもとに返したのです。儲けはしなかったけれど失ったわけでもない。しかし、主人はそのしもべを褒めることはしませんでした。

マタイ25:26~27
しかし、主人は彼に答えた。「悪い、怠け者のしもべだ。私が蒔かなかったところから刈り取り、散らさなかったところからかき集めると分かっていいたというのか。それなら、おまえは私の金を銀行に預けておくべきだった。そうすれば、私が帰って来たとき、私の物を利息とともに返してもらえたのに。

「悪い怠け者のしもべ」とは、厳しい言葉です。このしもべは、タラントを地の中に埋めるなら銀行に預けておけばよかったのです。そうすれば、少しでも主人の利益になったでしょう。

しかし、このしもべの最大の間違いはそこではありません。このしもべの最大の間違いは「主人の目的を見誤ったこと」です。

私たちは、なぜ与えられたタラントを使わないのでしょう?

それは、「失敗したらどうしよう」と思うからではありませんか?
「上手くできなかったらどうしよう」「役に立たたなかったらどうしよう」「失ってしまったらどうしよう」そのように思うからではありませんか?

そのようなことを心配する必要はないのです。私たちの神様は、このしもべが考えているような理不尽な主人ではありません。

考えてみてください。

私たちの神様は、全知全能の神なのです。不可能なことは一つもない方なのです。私たちに上手くやって欲しいなどとは思われません。すべて完全にご自分で上手くお出来になります。

にも関わらず、主は、私たちにタラントを預けてくださるのです。

その目的はただ一つ。

マタイ25:21
主人は彼に言った。「よくやった。良い忠実なしもべだ。おまえはわずかな物に忠実だったから、多くの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。」

「主人の喜びをともに喜んでくれ」

主は、私たちと喜びを分かち合いたいと思っておられるのです。

忠実であることが大切です

あなたが小さなことにでも賜物を用いることを、主は喜ばれます。私たちが忘れてしまうような小さなことでも、主は覚えておられ喜ばれます。最も小さな者たちの一人にしたことは、わたしにしたのだと言ってくださるのです。

マタイ25:40
すると、王は彼らに答えます。「まことに、あなたがたに言います。あなたがた、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。

大きい事とか、小さい事とか、そのようなことは関係ありません。主が問われるのは「忠実であるかどうか」です。

あなたが絵を描くことが好きだとしましょう。けれども周りにはもっと上手な人がいます。だから好きだけれども、私なんか描いても何の役にも立たない、画家になるほどの才能はないと思います。

その考え方こそ「地の中にタラントを埋める」ことです。それは、間違っているのです。私は、あなたに画家になれなどと言いません。周りの人より上手く描けとも言いません。頑張って5タラントにしろとも言いません。ただ、その1タラントで誰かに絵を描きなさいと言います。

もしあなたが、誰かを励ましたいと思って、御言葉を書いたカードを送ろうと思います。その時、そこに小さい可愛らしいイラストを描いてください。それは、美術館に飾られることはないでしょう。けれどそのカードをもらったその人の心に飾られます。「元気が出るな」「ほっこりするな」と思ってもらえたら、それでいいではないですか。御父は、誰かを励まそうとしたあなたの心をご存じです。そして、「よく使ったな。良い忠実なしもべよ」と言ってくださるでしょう。

ヘブル6:10
神は正しい方であって、あなたがたの行いを忘れず、あなたがたがこれまで聖徒たちに仕え、また今も仕えて神の御名のために示したあの愛をお忘れにならないのです。

神様は、あなたが神様の御名のために示した「愛」をお忘れになりません。「上手くできる」とか「失敗する」とか、そんなことはどうでもいいのです。あなたが、そのタラントを「愛」のために役立てたいと考えて実行したことが重要なのです。主は、そのためにタラントを分け与えてくださったのです。

私には、とりなしの賜物がないから祈っても無駄だと言わないでください。思いついた時に、一言だけ祈るような祈りに意味はないとそんなふうに考えてないでください。せっかく主が示してくださった祈りを無視してしまうことはもったいないことです。

確かに、とりなしの賜物を持つ「祈りの勇者」みたいな人は存在します。2時間も3時間も祈り続けられる人もいます。けれど皆にそれができるわけではありません。5タラントの賜物が与えられていないから祈る必要はないという考え方は間違っています。

道を歩いているときに、ふと、そういえば「あの方は元気かしら」そう思ったら、一言祈ります。「そんな一言祈ったところで、何の意味がある?」とそんなふうに思わないでください。

「何の意味がある?」その問いに答えましょう。その一言の祈りは「愛」を実行することです。「愛」を示すことです。誰かのことを気に掛ける心は「愛」です。神は「愛」なのです。「愛」を示すことに「意味」はありませんか?

あなたの「愛」による「一言の祈り」は、主の御前の器に貯められます。主は、その一滴の祈りをささげたあなたに「よくやった。忠実なしもべよ」と声をかけてくださるでしょう。

ですから、私たちは主から言われたことを「つぶやかずに」行わなければなりません。

ピリピ2:13~14
神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださる方です。すべてのことを、不平を言わずに、疑わずに行いなさい。

「自分でなくても」という考え方は改めましょう。主が、あなたのうちに「志を立てさせて」くださったなら、それはあなたがやるべきことです。主は、あなたに「産み出して欲しい」と願っておられるのです。

どんなにそれが「小さな」ことに見えても、大切なことは「忠実である」ことです。どんなにそれが「不可能」に思えても「どうやって」を考えるのは私たちではありません。「どうやって」を考えるのは神様の役割です。策は神様が練ってくださいいます。

あなたのその力で行きなさい

サライは、自分の力が日々失われていくのを感じていました。何とか早く策を講じなければならないと思ったのでしょうか。自分さえ諦めればと思ったのでしょうか。

私たちは覚えていなければなりません。主は、すべてをご存じなのです。サライの力がなくなることも。

士師記6:14~15
すると、主は彼の方を向いて言われた。「行け、あなたのその力で。あなたはイスラエルをミディアン人の手から救うのだ。わたしがあなたを遣わすのではないか。」ギデオンは言った。「ああ、主よ。うどうすれば私はイスラエルを救えるでしょうか。ご存知のように私の氏族はマナセの中で最も弱く、そして私は父の家で一番若いのです。」

主は、ギデオンに「行け、あなたのその力で」と言われました。しかし、ギデオンは「どうすれば救えるでしょうか」とひるみました。

ギデオンの言い分はこうです。「自分の氏族は小さい」「自分は、その小さい氏族の中でも一番若い」

だから何だと言うのでしょう?
「そうか、おまえの氏族は小さいのか、それでは別の氏族から遣わそう」と主が言われると思いますか?

そんなことは、すでにご存じです。

私たちは、自分のタラントを使わない言い訳をたくさん思いつきます。しかし、それを聞いても主が考えを変えられることはありません。

「自分でなくても」とは絶対に考えないでください。あなたでなければ「産み出せない」ものがあるのです。主が、今日、あなたを通して行いたいと思っておられることがあるのです。あなたを用いたいと思っておられるのです。

それは「小さくて取るに足りない」ことに見えるかもしれません。私たちは、その「小さく見える」ことを忠実に行うだけです。

それは「常識的に考えて不可能」に見えるかもしれません。けれど「どうやって」を考えるのは神様です。私たちは、ただ与えられた「その力」で行くだけです。

大切なことは「忠実に行うこと」です。

あなたでなければダメなことがあるのです。地にタラントを埋めてはいけません。

あなたを通して多くの「愛」が生み出されますように。

祝福を祈っています。