マタイ24:1~2
そこで、天の御国は、それぞれともしびを持って花婿をを迎えに出る、十人の娘にたとえることができます。そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。
五人は愚かで、五人は賢い
さて、10人の娘たちは「外見はみな同じ」に見えました。
彼女たちは全員「花婿」を待っていました。彼女たちは全員「ともしび」を持っていました。そして、全員「眠って」しまいました。
しかし、彼女たちの「結末」は、悲劇的なほど違ってしまいました。
彼女たちは外見は「そっくり」でしたが、よく見ると明らかに「違うところ」がありました。
それは「油の入れ物」を持っているのか、持っていないのかの違いです。
そして、それが「賢い(知恵がある)娘」と「愚か(知恵がない)娘」との決定的な差でした。
聖徒はみな「知恵」を手に入れなければなりません。それは「世の与える知恵」とは違うものです。
「世の中」は「利便性」「効率」を「知恵」と呼びます。
しかし、聖霊の下さる「知恵」は必ずしも「効率」がよいとは限りません。
片手に「ともしび」を持ち、もう片方の手で「油入れ」を持つのは少し面倒です。しかし、賢い娘たちは「面倒」であっても、それが「必要なのだ」と知っていました。
愚かな娘たちは「ともしび」だけで充分だと考えたのでしょうか。「油入れ」の重要性を知らなかったのでしょうか。それとも「故意」に置いて来たのでしょうか。
いずれにせよ、愚かな娘たちには「聖霊の知恵」が欠けていました。
「ともしび」が一瞬消えたとしても、今はまだ「何とかなる」でしょう。
何か「燃え上がるような聖会」に出席すれば、当分の間は大丈夫でしょう。そして、また「消えかかった」ならば「どこかから」補充すればよいのです。もし、そう思っているならば、その人は「とても危険」です。
実際のところ、外見では分からないものです。常に「どこかから補充」している人は「熱心な聖徒」に見えるものです。恐らく、自分でもそう思っているはずです。
けれど、自分の「油入れ」を持ち、自分で補充することを学ばなければ、いつの日か必ず「間に合わないとき」がやって来ます。主の日は「突然」来るのです。
ここでの「知りません」は、体験的に知るという意味ではありません。また別の単語が使われています。
スポルジョンは、これを「目に見える教会における最大の危機」と言っています。
つまり「外見は真面目な信徒に見えるし、実際そのように過ごしてきたけれど、主の御目には縁もゆかりもない赤の他人であった」ということです。
愛する兄弟姉妹。
私たちは「賢い娘」として、主を待ち望みましょう。自分の「ともしび」を整えましょう。そのためには、自分の「油入れ」を持つことが大切です。
あなたの「油入れ」は満たされていますか?
主よ、来てください
私は、主を待ち望みます
油入れを油で満たして待ち望みます

