ガラテヤ5:1
キリストは、自由を得させるために私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、堅く立って、再び奴隷のくびきを負わされないようにしなさい。
自由を得るようにと解放されました
まだ世間に「分煙」などという考えのなかった時代の話です。(文中の「私」とは「滝元 明師」のことです)
数年前、豊橋市で私はタクシーに乗りました。すると運転手がおもむろにポケットからタバコを取り出して、「どうぞ一本」とすすめてくれました。そこで私は、「どうもありがとう。私は、タバコは吸わないのでいりません。」と断りました。「ああ、そうですか。いいですね。私は何とかタバコを止めたいのですが、どうしてもやめることができません。」
「ああ、そうですか。それでしたらキリスト教会に来てください。イエス・キリストを信じると簡単にやめることができますよ。」
~中略~
それから間もなく運転しながら、
「まあね、私はこれでも法政大学を出ましてね。ところで私に言わせれば、まあ信仰なんてことは、意志の薄弱な、そして信念のない人のすることだと思いますよ。」~中略~
私は嫌な気持ちになりました、そこで一つ質問しました。
「では、ちょっとお聞きしたいのですが、あなたは先ほどなんと言いましたか」
「何ですか」
「あのね、あなたはどうしても、タバコを吸うのをやめたいけれども、やめられないと言ったでしょう。」
「ええ、言いました」
「ふん、あなたという人はなんて、意志薄弱な人ですか。やめたいと思ったらやめたらいいでしょう」
と言いますと、運転手は赤い顔になって、頭を掻きながら、
「まあ、そう言われれば、そうですけれども」と自分の弱さを認めていました。平安を持つ秘訣 滝元 明著 新生宣教団発行
初対面の人に対する滝元先生の「気の強さ」に驚きますね。本当に大好きな先生でした。
私たちは「あれをしてはいけない」「これをしてはいけない」という「戒め」が「縛る」ものであると考えてしまいます。そして、何でも自分の意志で好き勝手に生きることを「自由」と呼ぶのです。
しかし、本当に自由ならば「止めることができる」はずなのです。もし、あなたに「止めることができない」事や物があるならば、あなたはその「物と事」に縛られているのです。
イエス様を信じた時、私たちの「霊」は生きます。罪過と罪の中で死んでいた「霊」が生き返るのです。
それは、今まで機能していなかった「スイッチ」が押せるようになるということです。
私たちは今まで「一つのスイッチ」しか押せない状態でした。何がしかの刺激に対する反応は「一つ」しかなかったのです。
思い通りにならなければ「怒る」というスイッチしか押せません。嫌なことがあれば「ふてくされる」というスイッチしか押せません。こんな態度を取りたくないと思っても「そうしてしまう」のです。それは「自由」と呼べる状態でしょうか。
ある人は「タバコを吸う」「お酒を飲む」「ギャンブルをする」というスイッチしか押せないように縛られてしまいます。それが「依存症」というものです。
覚えてください。
「自由」であるとは「選べること」なのです。
私たちは「もう一つのスイッチ」を起動させることができます。私たちは、毎日、選ぶことができるのです。
私たちの意志は弱くて「いつものスイッチ」を押してしまうこともあるでしょう。しかし、私たちのうちにおられる方は「強い」のです。私たちは「うちにおられる強い方」に依り頼むことができます。
イエス様が与えてくださった「自由」を無駄にしてはなりません。「自由」をはき違えてはなりません。
あなたは「その生き方」「その反応」をやめることができます。
イエス様は「自由を得させるために私たちを解放して」くださいました。私たちは、もう奴隷のくびきを負わせられる必要はないのです。
私のうちにおられる方は「強い方」です
私は御霊に依り頼みます
主にある「御霊の実」を結ぶ生き方を選びます