【創世記8:20】
ノアは主のために祭壇を築き、すべてのきよい家畜から、また、すべてのきよい鳥からいくつかを取って、祭壇の上で全焼のささげ物を献げた。
ノアは箱舟から出ました
ノアが601歳になった時、水は地の上から干上がりました。ノアは一年間ほど箱舟で暮らしたことになります。主は、ノアに箱舟を出るようにと言われました。箱舟には主の指示で入ったのですから出るときも、また、主の指示によるのです。
箱舟から出たノアは、まず祭壇を築きます。
箱舟から降りて見た光景は、以前の世界とはまるで様子が違っていたことでしょう。ノアたちと箱舟から出た動物以外生きているものは何もいないのです。ノアの心情はいかばかりであったかと思います。驚き、そして、ある種の恐れや不安もあったかもしれません。
しかし、ノアは、まず祭壇を築くのです。自分たちの必要を満たすためではなく祭壇を築き、全焼のいけにえを献げたのです。
これはバプテスマの型です
このノアの箱舟についてペテロは言っています。
ノアたち8人は、水を通って救われました。そして、その水はバプテスマの型です。それは、私たちをイエス・キリストの復活を通して救うバプテスマの型であるのです。
バプテスマによって私たちはキリストとともに葬られました。キリストの死にあずかって、キリストの復活にもあずかるのです。
バプテスマを受けて、私たちは「新しいいのち」に歩むのです。それはちょうど、ノアが新しい世界に歩み出したことと同じようにです。
そう考える時、まず祭壇を築いたノアの行動には学ぶべき事が多いと言えます。ノアは「全焼のささげもの」をささげました。「全焼」とは文字通りです。「全てを焼く」ということです。いけにえの一部を自分のものとするのではなく、まったくすべてを主にささげることです。
ノアはまず「全焼のささげ物」をささげました。私たちがバプテスマを受けて「新しいいのち」に歩むときも同じです。
祭壇を築き「全焼のささげ物」をささげる
私たちは、自分自身を生きたささげ物としてささげます。それは「全焼のささげ物」としてささげるのです。一部分でも自分のために取っておいてはなりません。主は、ノアの「ささげ物」を喜んでくださったように、私たちの「ささげ物」も喜んでくださいます。
自分を「ささげ物」とすることは「新しいいのち」に歩むために必要なことです。それは、今までの生き方を捨てて、神とともに歩むことです。
ノアは神とともに歩んだ人でした。おそらく、ノアにとって、祭壇を築くという行為は自然なことであったと思います。「どうしても築かねばならない」「ささげなければならない」という悲壮感の漂う行為ではなかったはずです。
そこには「信頼」があったことでしょう。そこには「感謝」があったでしょう。また、新しい世界を生きる「決意」と「委ねる心」もあったでしょう。
ノアは、無理矢理に祭壇を築いたわけではありません。祭壇は、ノアの心の表れです。神とともに歩む者は、ごく自然に祭壇を築き、自分の心を明らかにし、すべてを神にささげるのです。
私たちは祭壇を築くことを、「とても頑張ってやらねばならないこと」としてしまいがちです。けれど、実際、祭壇を築くことは、信仰者として生きて行くうえで、ごく自然なことであると私は思います。
ノアも特に意識することもなく、ごく自然に、当然のこととして祭壇を築き、全焼のいけにえをささげたのでしょう。神とともに歩くとはそういうことなのです。
新しい世界がノアの前に広がっています。箱舟から出た解放感で満たされたことでしょう。見上げた青空は本当に輝いて見えたでしょう。しかし、地を見渡した時、少し途方に暮れたのではないかと思います。そこには何もありませんでした。そして、水が引いた後の世界は、おそらく、それほど美しいものではなかったと思います。
ある意味において、私たちが「新しいいのち」に歩むときも同じであるかもしれません。
私は、自分がバプテスマを受けた時のことをよく覚えています。水から上がったあと、何もかもが輝いて見えました。今までと同じ世界とは思えないほど美しく感じました。しかし、実際に信仰生活に歩み出すと、正直、つまずくことだらけでした。歩いて進んだというより、転がって進んだと言うほうが正しいでしょう。転びながら、つまずきながら、立って歩くことを覚えていったのです。
新しいいのちに歩み出したとき、そこに「どうすればいいかわからない」「思っていたのとは違う」という世界が広がっているかもしれません。ほとんどの聖徒は、大空は美しいのに、地には混沌があるという矛盾の中を生きることになるだろうと思います。
しかし、だからこそ、そこに祭壇を築くのです。輝く空を見上げるために、全焼のささげ物を煙とし香りを立ち上らせるのです。
「これからどうしよう」
「ここからどこへ行こう」
「どうすればいいのか分からない」
「何もかもが壊れてしまった」
そのような状況に出会ったなら、まず、するべき事は祭壇を築くことです。全焼のささげ物をささげることです。つまり「聖なる生きたささげ物」として「自分自身をささげる」ことです。
「聖なる」とは「聖別」ということです。「聖い区別されたもの」として、自分をささげるのです。「世から区別されたもの」として、今までの考え方、世間の常識から区別された者であると表明することです。
全焼のささげ物は、焼き尽くすささげ物です。それは煙となって天に上ります。その香りは主の御もとに立ち上ります。
主がすべてを受け取ってくださいます。私たちは、「ささげた物」ではなく、上っていく煙に目を向けましょう。そこにおられる方を見るために。
私たちは、日ごとに祭壇を築きます。日ごとに自分を区別して主のものとしてささげます。日ごとに、天を見上げます。そして、その生き方が「普通のこと」「自然なこと」になるのが、本来の信仰生活なのです。
それはキリスト者の「標準」です
パウロは言います。もはや「私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きている」と。
そして、このことは「キリスト者の基準の啓示」であるとウォッチマン・ニーは言っています。
パウロはここで、何か特別に高度なキリスト教を述べようとしているのではなく、むしろ、神がキリスト者に求めておられる基準を啓示していると信じます。すなわちそれは「生きているのはもはや私ではなく、キリストが御自身の命を私のうちに生かしめていいるという言葉に要約できます。
キリスト者の標準 ウオッチマン・ニー著 いのちのことば社 p1
ともすれば、私たちは、主に「すべてを献げること」と「私は死んで、今キリストが内に生きておられる」ということを目標とかゴールだと考えてしまいます。
けれど、パウロが言っているのは「目標」ではなく「基準」なのです。つまり、それは「キリスト者の標準」なのです。神とともに歩く者には「祭壇を築くこと」「全焼のささげ物をささげる」ことは特別なことではなく、ごく自然なことなのです。
主が望まれることです!
「息をするように祈る」などと言われることがあります。「絶えず祈る」とはそういうことなのだと思います。常に、どんなときでも、誰といても、「絶えず祈る」それを本当に実行しようとしたことがありますか?
つまり、それは「絶えず主と交わりを保つ」「主の臨在の中にいる」ということです。「5分と主の臨在から離れたことはない」と、C・H・スポルジョンは言いました。私もそうでありたいと切に願います。
「祈りのハイド」という本があります。「祈りの使徒」と呼ばれる宣教師「ジョン・ハイド」の短い伝記です。少し引用します。
ジョン・ハイドは第一級の説教者でしたが、彼の力の出所は、神との交わりにありました。彼の祈りの生活は、神への絶対的な服従の一つの表れでした。こんな出来事を覚えています。私たちがともに祈祷室にいるとき、昼食のベルが鳴りました。私は彼が、「父よ、行ってもよろしいでしょうか」とささやくのを聞きました。しばらくして答えがあったのでしょう。「感謝します、父よ」と言って、彼はほほえみながら立ち上がり、昼食をとりに行きました。言うまでもなく、彼は主が食卓に共に座しておられることを覚えました。そして、ああ、なんと多くの飢えたたましいが彼の話によって元気づけられたことでしょう。
祈りのハイド フランシス・A・マッゴー著 いのちのことば社 P25
私は、主に聞かなければ昼食をとってはならないと言いたいのではありません。ハイドの生活のすべてが、主との関係の中で行われていると言いたいのです。そして、昼食をとることすら、主の栄光が現れる場となり、「いのちのパン」に飢えた人たちを元気づける場となるのだと言いたいのです。
何をするのも神の栄光を現すために行いなさいとパウロは言います。
それは、どんなときでも、主との関係の中ですべてのことを行うということです。
本当にそのようなことが可能なのでしょうか?
私たちは、それは一部の選ばれた信仰の勇士と呼ばれる人のみに可能なのではないかと思ってしまいます。祈りの使徒と呼ばれたジョン・ハイドのような特別な人だけが味わえる特権なのではないかと思ってしまいます。
しかし聖書はそうは言っていません。
これが、神が「あなたがた」に望んでおられることだと言っています。「あなたがた」とは特別な人のことではありません。それはごく普通の「私たち」のことです。
つまり私たちは「絶えず祈れる」のです。そして、「常に主の臨在のうちに生きる」ことができるのです。
私の「うちに生きるキリスト」は特別な体験ではなく、今日、私も体験することができることなのです。私は、絶えず祈りたいのです。「5分と主の臨在から離れたことはない」と言いたいのです。
ただし、ただ一つだけ条件を満たさねばなりません。
それが祭壇を築くことです。生きたささげ物として自分をささげることなのです。
主の御前に祭壇を築いたことがないなら、つまり、生きたささげ物として自分をささげたことがないなら、この特権にあずかることはできません。
神を抱いて歩くこと
ノアは「何もない」地に降り立ちました。主が新しくことを行われるときには、大抵の場合何もないのです。
天地の創造の時もそうでした。そこにはただ聖霊がおられ、水の面を舞いかけておられました。
アブラハムは望みを持つことができませんでした。彼の能力は失われたのです。しかし、何もない彼が望みを抱いたと書いてあります。その望みとは神ご自身です。
新しいいのちに歩むとは、神とともに歩むことです。何もないところで神だけを抱いて歩むことです。
しかし、私たちは、確かに抱いたつもりだけれども、実際には神に抱かれているのです。神とともに歩くと言いますが、実際には神に背負われて歩いているのです。
「生きたささげ物となる」などというと身構えてしまうでしょうか?
すべてを献げることは恐ろしいと感じるでしょうか?
確かに、主にすべてをお任せすることは、時に勇気がいります。自我が砕かれる時には、痛い思いもするかもしれません。しかし、それでもなお、主とともに歩くことは幸いであると私は大声で言いたいのです。神とともに歩くことは、神に運ばれることだからです。
私たちは、自分の足で歩いてるつもりでも、実際は運ばれているのです。有名な「あしあと」の詩の通りです。
主は、ささやかれた。
マーガレット・F・パワーズ著(松代恵美 訳)『あしあと<Footprints>-多くの人々を感動させた詩の背後にある物語-』太平洋放送協会<PBA>より原詩の一部抜粋
「わたしの大切な子よ。 わたしは、あなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。 ましてや、苦しみや試みの時に。 あしあとがひとつだったとき、 わたしはあなたを背負って歩いていた。」
主は、あなたを運ばれます。主は、あなたを背負われます。主は、ともに歩くと決めた者を決して見捨てられることはありません。
私たちは、全き明け渡しを恐れる必要などないのです。
新しいいのちに歩むために
この世と調子を合わせる生き方は、もう終わりです。「新しいいのち」に歩む者は、神とだけ歩調を合わせます。
ノアの箱舟は水の中を通って救われました。降り立ったとき、そこはノアの知っていた世の中ではありませんでした。
覚えてください。
今、目の前にあるすべてのものは一時的なものです。世のすべては過ぎ去るのです。
水の中を通った(バプテスマを受けた)のに、あなたを世の中にとどめているものは何でしょう。神の友となることを躊躇させて世の友でいたいと思わせるものは何ですか。「そこまでしなくても充分だ」と言わせるものは何でしょう。あなたを愛し背負って運ぼうと言われる方と比べるに足るものがこの世にあるでしょうか。
私は神の友と呼ばれたいと切に願います。息をするように絶えず祈り、私ではなくキリストが私のうちに生きているということを毎日実感したいと願います。使徒の働きに記されているような聖霊の現れを見たいのです。
「新しいいのち」に歩むとは、それらを体験できる特権なのです。何もない世界をノアは神とともに始めました。その一歩こそ、「祭壇」であったのです。そして、「全焼のささげ物」であったのです。
私たちも「祭壇」を築きましょう。「生きたささげ物」として自分を神に献げましょう。
主は喜んで受け入れてくださいます。
私たちは常に神とともに歩めるのです。いつでも神とともに始めることができるのです。
祝福を祈ります。