黙示録2:28
わたしも父から支配する権威を受けたが、それと同じである。また、勝利を得る者には、わたしは明けの明星を与える。
私たちは世を招き入れるのではなく「全世界に出て行く」のです
今回で「ティアティラの教会への手紙」の学びは最後です。長かったですね。
ティアティラの教会への手紙は、七つの教会の中で最も長い手紙です。そこに、この教会の「複雑さ」が表されているように感じます。
教会は、いつの間にか「複雑」になってしまいました。イエス様が命じられたこと「以外」が、常に「論争の的」とされます。
教会の問題のほとんどが「肉の人たちの争い」であると言っても過言ではないでしょう。
私たちは、それらの争いに巻き込まれる必要はありません。それらの問題を解決しようとして「くたびれて」しまう必要はありません。
私は、今まで「それらの争い」を解決するのが牧会者の務めであると思っていました。しかし、それはとんでもない勘違いであったと認めざるをえません。私は、無駄なことにエネルギーを使って疲れ果ててしまっただけなのです。
イエス様は「世界を教会の中に連れて来なさい」とは命じられませんでした。
イエス様は「全世界に出て行け」と言われました。
しかし教会は「世」を自分たちの中に連れて来てしまったので、「世」と一体化してしまったのだと私は思います。
ティアティラの教会の問題は「世と一体化」したことにあります。
主は「あなたがたは行って」と命じられたのです。ですから、私たちは「行かなければ」なりません。
「行って」何をするのでしょう?
私たちは、あらゆる国の人々を「弟子」とするのです。
「弟子」とは、人々に「裂かれたパン」を配る人のことです。「くれろ、くれろ」と手を伸ばし「満腹」しようとする人々は「群衆」です。イエス様が求めておられるのは「群衆」ではなく「弟子」です。主と一緒に「分配」する人です。
教会に「何かを求める人」は、キリストの弟子ではありません。「教会」が自分に何もしてくれないと不平不満を言うのなら、私は「キリストの弟子」ではありません。
「あの女、イゼベル」に群がる人々は、本当の意味において「キリストの弟子」ではありませんでした。彼らは「十字架の敵」として歩んでいます。
彼らの神は「彼らの欲望」です。口先では「霊的」に見えることを語っていますが、結局のところ「自分のことだけ」を考えて生きているのです。
「自分のことだけ」を考えて、不道徳を行う人もいます。「自分のことだけ」を考えて、断食する人もいます。
どちらにしても「自分のことだけ」を考えているならば、それは「自分の欲望を神」とすることです。たとえ「霊的」に見えることを言っていてもです。たとえ節制して「断食」をしていてもです。
つまり、それこそ「イゼベルの教え」であると私は思います。イゼベルの教えの中心は「自分の欲望を神とすること」なのです。
私たちは「弟子」であることを選びましょう。「弟子」は「師」の足跡に従う者です。「弟子」は「師」の教えに従うものです。
私たちは「世」を招き入れるのではなく「全世界に出て行く」のです。
私たちは「世」の影響を受けるのではなく「世」に変革をもたらす者です。
私たちの目が「教会の内部」ではなく「全世界」へと向けられるならば、イゼベルの教えに惑わされることは少なくなると私は信じます。
「最後までわたしのわざを守る者には」と言われます
「最後までわたしのわざを守る者」とイエス様は言われます。
「最後まで」というのが肝心なのです。途中で失うなら「勝利者」にはなれません。
「神が遣わした者」とは、主イエスのことです。
「イエス・キリスト」を信じることこそ「神のわざ」であると主ご自身が言われたのです。
私は、最後まで「イエスは主」と告白します。
最後まで「主よ、信じます」と宣言しながら歩みます。
私たちは「信仰」だけを握りしめて歩みます。見えるところではなく「信仰によって」歩みます。
主は私たちに「どんなときでも」信じて欲しいと望まれるのです。主は、私たちに「信仰によって生きる」ことを知って欲しいと願っておられるのです。
主は、ティアティラの教会に「わたしが行くまで」と約束されました。
主は「必ず」来られます。遅いように思えても、決して「遅れることはない」のです。
ですから信じましょう。
主が求めておられるのは「最後までわたしのわざを守る」ことだけです。
そして「最後まで主イエスのわざを守る者」には大いなる約束が与えられています。
もう一度、黙示録2章26節を読んでみましょう。
最後まで信仰を保ち続ける者には「諸国の民を支配する権威」が与えられるのです。
「支配する」と訳されている語は「職権」「資格」「権利」「支配権」「権威」などという意味があります。
驚くべき「約束」ですね。
ただ「主のわざを最後まで守る」だけで「権利」「資格」が与えられるというのです。
聖書は言います。
「この石」とは、もちろん私たちの主イエスのことです。
主イエスに対する「信仰」は、何にもまして尊いものです。しかし「信じていない人」にとっては「捨てた石」つまり「不必要なもの」なのです。
この世にあって、信仰を「不必要なもの」として扱っている人のなんと多いことでしょう。教会に集っていても「信仰によって生きる」ことをせず「いたずらに肉の力を誇り」ながら生きることもできます。
愛する兄弟姉妹。
私たちには「キリストに対する信仰」があります。私たちは「この方に信頼する者」です。
それがどれほど素晴らしいことか考えてみてください。
それは、主があなたに現れてくださったということです。主があなたに「信仰」を与えてくださったのです。世界の基が据えられる前に、主があなたを選んでくださったのです。
あなたが「信じている」ならば、あなたは「選ばれた者」です。
「最後まで信じ続ける者」となるように「今」信仰が与えられているのです。
「主イエスを信じる」ことには、このような「特典」が付与されるのです。それは「信仰」に添えて与えられるものです。つまり「信仰」を失えば、それらの「特典」も失うのです。
私たちは「信仰」によって守られているのです。
忘れないでください。
「信仰」は「確証」であり「保証」なのです。
あなたが「信仰」を持っているならば、あなたは「王である祭司」です。鍵となるのは「信仰」です。
「治める資格」を得たいのなら、神学校に行く必要はありません。ただ「信仰」を握りしめればよいのです。
「信仰」を持たずに「資格」を得ることはできません。「形式上の資格」は与えられるでしょうが、それは「主からの資格」ではありません。
「諸国の民を支配する権威」が「本当の形」として現わされるのは、おそらく「千年王国の時代」からであろうと思います。主が、再臨された後、私たちは「約束の本当の形」をはっきりと見ることになります。
しかし「信仰者」にとって「後の来るもの」は「今あるもの」につながっています。
このヘブル書の御言葉は「味わったうえで堕落してしまうなら」という警告がなされている箇所です。
しかし、ここからわかることがありますね。
それは、今ここで「来たるべき世の力」を味わうことができるのだという事実です。
私たちは「来たるべき世の力」を今ここで用いることができるのです。
私たちは後に「王である祭司」とされますが、今も「王である祭司」なのです。
ですから、信仰によって「支配する権威」を「今」から用いましょう。
エリヤは「信仰の人」でした。
「信仰」によって、どれほどのことができるのか、エリヤを見るとわかります。
火をよびくだし 雨を降らしし エリヤも我と同じ人なり 昔も今も 変わりなき主は わが祈りにも必ず答えん
聖歌253番 めぐみあふるる
「信仰」によって「火を下し」「雨を降らせる」ことができるのです。
「信仰」によって、私たちは「山よ、海に入れ」と命じることができるのです。
しかし「信仰」が失われたならば、その「権威」は失われます。
「イゼベル」を恐れて逃げていたとき、確かにエリヤは「不信仰」であったのです。
それでも、エリヤの信仰は回復し、彼には再び「大いなる権威」が戻ってきました。
ティアティラの聖徒たちに与えられた「大いなる権威」を見てください。「あの女、イゼベル」に怯えている彼らにも「大きな権威」が与えられているのです。
彼は鉄の杖で彼らを牧する
「あなたが持っているものをしっかりと保ちなさい」とイエス様は言われます。
それは「イゼベル」に怯えながら、とにかく「信仰」を手放さずに「コソコソ」生きなさいという意味ではないと私は思います。
「信仰」を握りしめて「コソコソ」と生きるなんて「不可能」です。
それは「しっかり」と保つ必要があるのです。
イエス様は言われます。
イエス様は「御父」から「権威」を授けられました。
主イエスに与えられた権威は「鉄の杖で牧する権威」です。
主は「鉄の杖」で「土の器」を粉々に砕かれます。
詩篇二篇には、このことの預言が記されています。とても興味深いですが、詳しく見ていく余裕はありません。そんなことをすれば、今回でティアティラの教会への手紙を完了させることはできなくなります。やりたいけれど、我慢です(笑)
ただ確実なことは「主に相逆らって立ち向かう人々」は、鉄の杖をもって粉々に砕かれるということです。
しかし、主に付き従う人は砕かれることはありません。むしろ、主と同じ権威を持って一緒に立つことができるのです。
私たちは「キリストとともに共同相続人」であると聖書は言います。
驚くべき事実ですね。
「相続人」とは、神の栄光の富をすべて受け継ぐことができるということです。主イエスは、私たちに身に余る光栄を授けてくださいました。
「相続人」となる条件はたった一つです。それは「神の子ども」とされることだけです。
そして、神の子どもとなる条件もたった一つです。
「この方」つまり「主イエス・キリストの名」を信じることで「神の子ども」とされるのです。
それはまさしく「特権」です。
これが、私たちの「持っているもの」です。
これこそ、私たちが「しっかりと保つ」べきものです。
「信仰」を保つことは、主イエスの権威の下にとどまり続けることです。
「信仰」を持つならば、私たちには「その偉大な権威」を用いる資格が与えられるのです。
信仰に堅く立つならば「立ち向かう」ことができます。
「あの女、イゼベル」に惑わされなかった聖徒は、少数であったかもしれません。「イゼベル一派」は教会の中で力を持っていたかもしれません。
しかし「残りの者たち」にイエス様は言われます
「あなたがたが持っているものをしっかり保ちなさい」と。
ティアティラの聖徒の「持っているもの」は、決して「役に立たないもの」ではないからです。
確かに「少人数」で「力の弱い」人々であったかもしれません。
確かにその信仰は「小さく」見えたかもしれません。
それでも「信仰」にとって最も大事なことは「大きさ」ではなく「純粋さ」です。必要なのは「薄まった信仰」ではなく「混ぜもののない信仰」です。
「純粋な信仰」を堅く保ちなさい。「わたしが行くまで、しっかり保ちなさい」と主は言われるのです。
私たちも保ちましょう。
主が来られる日まで、しっかりと信仰を保ちましょう。
「からし種」ほどの信仰があれば「山は移る」と言われた方を信じましょう。
「信仰」に堅く立ちましょう。
主の権威のもとにいるならば、私たちは悪魔に立ち向かうことができるのです。
「信仰」を決して手離してはなりません。励まし合いながら、一緒に信仰を全うしましょう。
そして、主が来られる日まで「主の死を告げ知らせて」生きましょう。
勝利を得る者には明けの明星を与えよう
ティアティラの教会には、もう一つ素晴らしい約束が与えられています。
勝利を得る者、最後まで主のわざを保つ者には「明けの明星」が与えられるのです。
「明けの明星」とは、明け方に東の空にひときわ輝いて見える金星のことです。
ある人は「明けの明星とは、ルターによる宗教改革のことだ」と言います。確かにそれは「暗黒時代の夜明け」であったと言えます。
また、ある人は「明けの明星とは、再臨のキリストのことである」と言っています。こちらの解釈の方がしっくりきますね。
「確定的なこと」は分かりませんが、私は個人的には「主イエスご自身のこと」であると考えています。
ここで「明けの明星、暁の子」と呼ばれているのはサタンのことです。
彼は「明けの明星」のように輝く者だったようです。英語の聖書(KJV)には「ルシファー」という名前が記されています。ラテン語で「光をもたらす者」という意味です。
本来は、そのような存在として創造されたのでしょう。彼は「美の極み」であったとエゼキエル書に記されています。
しかし、サタンは落ちました。地に切り倒されました。彼は本当の「明けの明星」ではなかったからです。ただそうなりたくて仕方がなかっただけの存在なのです。
「美しさ」がサタンを高ぶらせました。そして「高慢」が彼の知恵を腐らせたのです。
サタンは「知性の腐った愚か者」です。本当の知者であれば、いと高き方の上に座を設けようなどとは決して考えないでしょう。
しかし、侮ってはなりません。「腐った知性」であっても、サタンは私たちより「賢い」のです。もし、サタンを侮るのなら、私たちの知性も腐ってしまって、彼と同じ道をたどることになるでしょう。
サタンの最大の失敗は「自分でいと高き方のようになろう」としたことです。
そして、エバとアダムの最大の失敗も「神のようになって善悪を知ろうとした」ことなのです。
自分で「明けの明星」になろうとしたことが最大の失敗なのです。そして、それこそ「高慢」なのです。
私は、自分自身に言い聞かせねばなりません。
我がたましいよ、何事も「自分で成し遂げよう」とするな。
我がたましいよ、何事においても「自分で成した」と言ってはならない。
我がたましいよ、何事も「得ようとするな」むしろ捨てよ。
上に行きたいなら下りなさい。
先に立ちたいなら、仕える者となりなさい。
高く上げられたいなら、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。
サタンは「天にのぼろう」と言ったので「よみに落とされた」のです。
私たちは「得よう」として必死になる必要はありません。
イエス様の言われたことを忘れないでください。「あなたが持っているものをしっかり保ちなさい」
あなたが持っている「信仰」をしっかり保つことのみに必死になりなさい。「明けの明星」は「得る」ものではありません。それは「与えられる」ものです。
どれだけ必死に自分を磨いたとしても、私たちは「神のように」はなれません。私たちは決して「神」にはなれません。
しかし、覚えてください。これは偉大な奥義です。
私たちは「神のように」はなれません。ただ「キリストと一つ」になるのです。
「明けの明星」を得ようとして何かを行わなくても良いのです。ただ勝利を得る者に「与えられる」明けの明星を喜べばよいのです。
信仰によって何が起こるのかをパウロが説明しています。
「信仰」によって、キリストが私のうちに「生きて」くださいます。「信仰」によって、私たちには「キリストご自身」が与えられるのです。
常に私たちに与えられる最高最善のものは「キリストご自身」です。
これらは「御霊が告げる」ことです。そして、御霊は「諸教会」に告げられるのです。
教会の外の人々に告げられたのではありません。
教会のうちにいる聖徒たちに告げておられるのです。
イエス様は言われました。
愛する兄弟姉妹。
「信仰」を保ちましょう。「信仰」に堅く立ちましょう。私たちが持っているものをしっかりと保ちましょう。
主が来られるまで、私たちは「信仰」を握りしめて歩みましょう。
祝福を祈ります。