【創世記9:26-27】
また言った。「ほむべきかな、セムの神、主。カナンは彼らのしもべになるように。神がヤフェテを広げ、彼がセムの天幕に住むようになれ。カナンは彼らのしもべとなるように。」
新しい生活をノアは始めました
ノアは大洪水の後、350年生きたと記されています。箱舟を出てからノアの人生は350年あったのです。その間、いろいろなことが起こったに違いありません。
けれど記されている出来事は一つだけです。ノアの人生において、これだけは特別に記しておかなければならないと創世記の著者は考えたのでしょう。それは、つまり聖霊様がそのように導かれたということです。
ノアの人生において、なぜこの1つの出来事が特記されるべきであったのか考えてみましょう。
まずは、何があったかを確認します。
箱舟を降りて祭壇を築いて後、ノアは農夫になりました。アダムも農夫でした。ノアが新しい人類として農夫になったことは当然の結果だったのかもしれません。農夫になるしかなかったとも言えますが。
ノアは、ぶどう畑を作り始めました。おそらく他の作物も作っていたことでしょうが、ぶどう畑を作ったことに聖書は注目しているのです。それはその後のノアの行動を説明するためでしょう。
ノアは、ぶどうを収穫して葡萄酒を作ったのです。そして、それを飲んで酔っ払ってしまったのです。神とともに歩いたノアでも失敗することがあるのです。
私は失敗したと言いましたが、その他の解釈もあります。
神の人ノアが酒に酔うなどということはない、葡萄酒の作成の過程で生じた何らかのアクシデントだろうという説があります。また、お酒に慣れていないノアが、少し試飲してフラフラしたのだろうという説もあります。
いずれにせよ、酔っぱらって天幕の中で裸になっていたということは事実です。
さて、そのノアの姿を息子であるハムが見つけました。「カナンの父ハム」と呼ばれていることが意味深いですね。
ハムは、外にいた2人の兄弟に知らせるのです。この場合、単なる報告であったとは思えません。「兄さんたち、父さんが倒れているよ。心配だねえ。どうしよう」と相談したとも思えません。この後のノアの言動から察するに「悪意があった」「告げ口であった」と思います。
そのハムの言葉を聞いて2人の兄が行動しました。
セムとヤフェテは、ノアに上着を掛けました。彼らは、顔を背け、父の裸を見ないように細心の注意を払ったのです。これは、ノアに対する尊敬の表れです。
裸の恥を暴くのはサタンの仕業です
アダムとエバのことを少し考えてみましょう。彼らは、善悪の知識の木から取って食べ、自分たちが裸であることを知ります。
「だれがあなたに告げたのか」と、主は言われました。もちろん、主ご自身ではありません。主は、その知識が2人に必要であるとは思われませんでした。二人は目が開かれるまで知らなかったのです。
「だれがあなたに告げたのか」
2人は自分達の意志で、主に背きました。主の言葉に逆らって善悪の知識の木から食べたのです。しかし、そうするようにと彼らをそそのかしたのは蛇です。蛇は人の「裸の恥を暴く」のです。
それは何のためでしょう?
主は、アダムが隠れていたことはご存じでした。しかし、それでも、アダムのことばを聞いて悲しく思われたことは間違いないでしょう。これは、本当に悲しいことばです。
アダムたちは、あんなにも愛し慕っていた方から隠れました。そうするしかないと思ったのです。なぜなら「自分が裸であるのを恐れた」からです。そして、それこそサタンの目的でした。
サタンの目的は、常に一つです。それは「神」と「人」とを断絶することです。できるなら、永遠に断絶したいと願っているのです。できるだけ多くの人を自分と同じところにおらせたいのです。自分の側につけたいのです。そして、おそらく、神が裏切られるところが見たいのでしょう。弟子たちを裏切らせたあのやり口を見ればそれは明白です。
主は皮の衣を2人に着せてくださいました。つまり彼らをおおってくださったのです。
おおうのは神の御業、キリストの御業です。
そして、暴くのはサタンの業です。
大切なことはどちらの側にいるかです
ノアは、ハムが自分にしたことを知りました。
そして言ったのです。
カナンとはハムの息子です。ハムの行いは、その子孫にのろいをもたらしました。
この場合、ノアの言葉は預言でした。主は、カナンを兄たちのしもべとすると定められたのです。ノアが言った通りに、セムの子孫であるアブラハムの子孫イスラエル人がカナンの地を征服します。
ハムには、ほかにも子どもがいましたが呪われたのはカナンだけです。
なぜハムでなく、その子であるカナンがのろわれたのかわよくわかりません。ハムの末の子であるカナンが告げ口の張本人ではないかと言う説もありますが確かではありません。
理由は分からないけれど、ハムの子カナンの子孫が、セムのしもべになることは定められたのです。
そして、おそらく、これがこの出来事が特に記されるべきとされた理由だと思います。カナンの地が、イスラエルのものとされる預言が語られた出来事だからです。
これは立場の問題です
のろいというのは、祝福と同じように現実のものです。祝福とのろいの差はどこから生じるのでしょう。
聖書は、はっきりと記しています。
聞き従うなら祝福がついてきます。聞き従わないならのろいにとらえられます。
つまり、どちらも、あえて追い求めずとも、望まなくてもそうなるということです。
「わたしに味方をしないものは敵対し」とイエス様は言われました。直訳すると「わたしとともにいない者はわたしに逆らう者であり」となります。
これは立場の問題です。実は、聞き従うとは「立場」の問題なのです。
問われるのは、イエス様と「ともにいる者」であるかです。ともにいない者ならば、逆らう者です。逆らう者であるならば、当然、聞き従う者ではありません。
平たく言えば、イエス様の側か、サタンの側かどっちについているかということです。
ハムは、ノアの外側にいました。ゆえに指を差して恥を暴いたのです。セムとヤフェテは、ノアとともにいました。彼らは、外側から人の失敗を眺める者ではなかったのです。
追い求めるべきものは愛です
主は、私たちとともにおられます。聖霊様は、私たちの内に住んでくださいます。聖霊様は、私たちに罪を気づかせてくださいます。聖霊様に導かれる者は神の子どもだからです。私たちが御心に従って歩むことを助けてくださいます。
しかし、それは「内側」から来ます。私たちには、それが分かります。羊は羊飼いの声を知っているはずです。
外側から「忠告」と称して「中傷」してくるようなやり方はなさいません。恥を暴き出してさらすようなことは決してされません。
この点において、私は大変な過ちを犯したことがあります。解放の働きに携わっていた時、ある人をひどく傷つけてしまいました。「見世物みたいに」と言ったその言葉を今でも度々思い出します。20年も前の出来事だけれど、いつまでも忘れることができません。
暴かれるように感じたのだと思います。私は、手順に従って正しく行っていたつもりだったけれど、その人とともにはいませんでした。そんなつもりはもちろんなかったけれど、私は外側で暴く立場に立っていたのです。
つまり、私は、良いことをしているつもりであったけれど、サタンの業を行ったということです。
イエス様の言われたことばが、今はよくわかります。主に従っているつもりであっても、主の御心を行っていないことがあるのです。
私たちは、正しいことを追い求めるのではありません。
ハムの指摘はもっともではないですか?
ノアがどんな理由で酔っ払ったのかはわかりません。しかし、たとえ天幕とはいえ、裸で過ごされては困ります。万が一、女性陣の目に触れてしまったらどうするのでしょう。
しかし、いくら正しいことであっても「暴く」ことは違うのです。正しいことがすべて「御心」であるとは限りません。
追い求めるべきものは「愛」なのです。
愛ではないものを追い求め始めるとき、私たちは必ず主の御心から離れていきます。
神は愛です。愛を追い求めることは神を求めることです。そこから離れてはなりません。イエス様から決して目を離してはならないのです。
祝福を受け継ぐために
私たちは祝福を受け継ぐために召されました。のろいではありません。
ノアの人生において特記されている出来事から学べるのは、祝福の受け継ぎかたです。
ハムの「中傷」のせいでカナンはのろわれました。その反対に、セムたちは祝福を受け継いだのです。
私は、この記事が特別に挿入されているのは、「カナンがのろわれた理由」ではなくて「イスラエル(セム)が祝福される理由」ではないかと個人的には思います。
セムたちが祝福を受け継いだのはなぜでしょう?
それは「愛したから」です。
セムたちの行為は、キリストの御業です。彼らは、父の裸の恥を見ないようにして、上着でおおったのです。おおうことは主の御心にかなうのです。
「愛は多くの罪をおおう」と聖書は言います。つまりセムとヤフェテのしたことは「愛」と言えます。
彼らは礼儀に反することをしませんでした。高慢にならず、親切でした。父親であるノアを敬っていたのは明らかです。それは権威に対する尊敬です。そして、その尊敬は、主へと向かうものです。彼らは謙遜でした。父の尊厳を傷つけることをしませんでした。そして、それはすべて愛なのです。
一方、ハムの行為はどうでしょう。ハムは父の裸を見て、外に出て告げたのです。これは恥を暴く行いです。告げ口です。そして、それはサタンの業です。
サタンは決して誰のことも尊敬しません。相手を見下します。自分を高めます。人の恥を暴くことは、尊敬の心を欠く行いです。ハムには、ノアに対する尊敬の念が全くありませんでした。そして、それが愛のない心なのです。
私たちは、誰とともに立つでしょう?
私は、イエス様の側に立ちます。それは、人を外側から責めない者です。それは、「暴かない」ことです。それは、「おおう」という生き方です。祝福を受け継ぐものとは、「愛する者」のことです。
私たちは祝福を受け継ぐために召されたのです。ゆえに「愛をもって」「おおう」生き方を求めましょう。
祝福を祈ります。