Ⅰヨハネ1:7
もし、私たちが、神が光の中におられるように、光の中を歩んでいるなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます。
神には闇が全くないのです
使徒ヨハネが、イエス様から聞いた使信は「神は光である」と言うことでした。
父のふところにおられたひとり子の神が「神は光であり、闇が全くない」と仰ったのです。
私たちは、そのことをよく考えてみなければなりません。
アダムは、光である方と交わりを持っていました。主なる神はアダムとともに歩いてくださったのです。
しかし、その交わりは断たれました。
なぜなら、アダムが「闇の中」を歩む者となったからです。
アダムが罪を犯したあとも、エデンの園には太陽の光が降り注いでいました。園はどこまでも明るく美しいままでした。
しかし、アダムとエバは暗闇の中にいました。
暗闇を歩く者の特徴の一つは「隠れる」ことです。
そよ風の吹くころ、主なる神はアダムを呼ばれました。
「あなたはどこにいるのか」
主は、暗闇の中にいる者を呼び求められますが、彼らとともに歩くことはお出来になりません。
互いに交わりを持つためには、互いが「光の中」にいる必要があるのです。そして、神には闇が全くないのですから、闇の中を歩み交わりを断絶するのは、いつも私たちの方なのです。
アダムが身を隠したのは「自分が裸であるのを恐れた」からです。
罪を犯すと「恐れ」が生じます。それは、神への聖なる恐れとは全く別の恐れです。
それは「恥」を伴う恐れです。「うしろめたさ」の伴う恐れです。「拒絶」への恐れです。
闇は、私たちの目を見えなくさせます。闇は、本当の神の姿を見えなくさせるのです。
ですから、闇の中を歩む者は「想像の神」に怯えるのです。つまり、自分自身で「考え出した神」に恐れを抱いて隠れるということです。
アダムが園の木の間から姿を現した時、主なる神はどうされたでしょう?
確かにアダムもエバも、自らの罪を問われ叱責されました。
しかし、同時に、主は彼らの裸の恥を覆ってくださいました。
光の中を歩みなさい。
それは「隠れない」ということです。
罪を犯してしまって「主の御前に出にくい」と思う気持ちは分かります。本当に、とてもよく分かります。
けれど、隠れたままでは「衣で覆われる」ことはできないのです。
イエス様の血潮は、すべての罪から私たちをきよめます。
しかし、それは「光の中を歩んで」「互いに交わりを持つ」ことが条件なのです。
主の御前に出て来なさい。暗闇の中で「想像した神」は、悪霊によって歪められた神です。
光の中に出て来なさい。そうすれば、主の限りない愛が明らかにされます。
覚えてください。
主イエスの血潮は、光の中でのみ有効なのです。
主よ、私は常に御前に出ます
私は光の中を歩みます
御子イエスの血は私をきよめます

