ヨハネ8:29
わたしを遣わした方は、わたしとともにおられます。わたしを一人残されることはありません。わたしは、その方が喜ばれることをいつも行うからです。
御父の喜ばれることを
イエス様は「わたしは、その方が喜ばれることをいつも行う」と言われました。
その方とは、もちろん「天の父」のことです。
イエス様は「何を食べるか」「何を着るか」と言って心配されることはありませんでした。
それらのことは「天の父」に任せておけばよいと知っておられたからです。
「誰に何と言われるか」「あの人に何と思われるか」を気にして行動されることもありません。
「何を建て上げるか」「どうすれば成功するか」「何が良い事なのか」と思い悩むこともなかったはずです。
イエス様は常に「わたしを遣わされた方のみこころを行い、そのわざを成し遂げる」ことに集中しておられました。イエス様はいつも「御父の喜び」だけを考えておられたのです。
私は、時々、すべてを小難しく考えてしまうようです。
そのように言われると、私は考えてしまうのです。
「では、神の国とは何だろう? 神の義を求めるとはどういう意味だろう?」と。
愛する兄弟姉妹。
私たちは、小難しくひねくり回して考えるのはやめましょう。
子どものような心になって、ただひたすらイエス様の御足のあとをたどりましょう。
主イエスのなさった「みわざ」はもちろん素晴らしいものです。聖霊によって、私たちもイエス様が行われたような「わざ」を行うことができます。
けれど、最も追い求めるべきは「物と事」「見えるわざ」ではなく「主の心」です。
私たちは、イエス様と「同じ心」で歩むことを切に求めましょう。
イエス様が「御父の喜び」のために生きられたならば、私たちも「御父の喜び」のために生きるのです。
私たちは「主のわざ」を求める前に「主の心」を求めましょう。
イエス様の言動の「動機」は、いつも「御父の喜び」でした。
それならば、私たちの言動の「動機」も「御父の喜び」であるべきです。
そして、おそらく、それこそが「神の国と神の義」を求めることなのです。
どんな小さなことでも、取るに足りない「いつものこと」であっても、それを「御父の喜び」のために行いなさい。あなたの存在、あなたのことば、あなたの行いを「天の父」がご覧になります。
あなたは「御父の喜び」として生きることができるのです。
主が歩まれたように歩みます
聖霊様がうちに住まわれます
私の動機は「御父の喜び」です

