2025.12.20 岩に建てるシリーズ「終末の学び」を追加

No.590 信仰によって目は開かれます

砂漠の虹

エペソ1:18
また、あなたがたの心の目がはっきりと見えるようになって、神の召しにより与えられる望みがどのようなものか、聖徒たちが受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものか、

心の目がはっきりと見えるように

つまり、心の目というものがあるのです。

それは、言い換えると「識別力」とか「理解力」ということになるのかもしれません。

けれど、それ以上のものであると私は信じています。

私たちは「心の目」によって「見えないものを見る」ことができるのだと私は信じます。

私は、毎週、礼拝のたびに「エペソ1:17~19」を祈っています。しかし、本気でそう信じて祈っているだろうかと思うのです。ただ「みことば」を反復していることで満足していて、心から「願って」いないのではないかと思うのです。

イエス様は、目の見えない人たちの呼ぶ声に答えて言われました。

マタイ9:28
イエスが家に入られると、その人たちがみもとに来て言った。イエスが「わたしにそれができると信じるのか」と言われると、彼らは「はい、主よ」と言った。

イエス様は、彼らの目を開かれる前に「わたしにそれができると信じるのか」と尋ねられました。

彼らは、迷うことなく答えます。「はい、主よ」と。

マタイ9:29
そこでイエスは彼らの目にさわって、「あなたがたの信仰のとおりになれ」と言われた。

イエス様は「あなたがたの信仰のとおりになれ」と言われました。

ここで「信仰」と訳されている語には、原文では「定冠詞」がついていますから、彼らの「その信仰」ということです。

彼らが「イエス様にはできる」と信じた「その信仰」のとおりになるように…

そして「その信仰のとおりに」彼らの目は開かれたのです。

私は、心から「見えないものを見たい」と願います。見えないものが「現実である」ことを確信したいのです。

主は、今、私にも同じように尋ねられます。

「おまえは、わたしにそれができると信じるのか」

イエス様は「信仰」があるかどうかを確認されます。私が「それを信じているのか」を確認されるのです。

なぜなら「その信仰のとおり」になるからです。

私は、自分の心を奮い立たせて願います。

「主よ、どうか私の心の目をはっきりと見えるようにしてください」

そうすれば、主が、御手を置いて言ってくださると信じます。

「あなたの信仰のとおりになれ」

主は、必ず、私の心の目を開いてくださいます。私は「見えないものを確信して」「見えない方を見るようにして」歩むことができるのです。

神の召しによる望みがどれほど素晴らしいか…

聖徒の受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものか…

神のすぐれた力が、どれほど偉大であるか…

私たちは、必ずそれを知ることができます。

主よ、心の目を開いてください
はっきり見えるようになりたいのです
私の信仰のとおりになります