創世記16:5
サライはアブラムに言った。「わたしに対するこの横暴なふるまいは、あなたの上に降りかかればよいのです。この私が自分の女奴隷をあなたの懐に与えたのに、彼女は自分が身ごもったのを知って、私を軽く見るようになりました。主が、私とあなたとの間をおさばきになりますように。」
アブラムの家庭に問題が発生しました
サライが、ハガルを苦しめたので、ハガルは逃げ出してしまったのです。
どうしてこんなことになったのか?
逃げ出して、トボトボと歩きながら、ハガルはそう思ったことでしょう。
本当に、どうしてこのようなことになったのでしょう。
ハガルは、奴隷の身分から「第二夫人」とされたのです。アブラムの子を身ごもった彼女は、それは大切に扱われたことでしょう。何一つ困ることなく、これから幸せに生きるはずだったのです。
それが、なぜ荒野を独りぼっちで歩かなくてはならないのでしょう。行く当てもなく、帰る場所もなく、身重の身で。
ハガルが逃げ出した直接的な原因は、サライがハガルを苦しめたからです。つまり、サライのいじめが原因です。
これは、想像の域をでませんが、かなり酷い苦しみであったのではないかと思います。子どもを身ごもった身体で、荒野へ飛び出さざるを得ないほど辛い目にあったのだと思います。
しかし、なぜ、サライは、それほどまで辛い仕打ちをハガルにしたのでしょう。
サライが「いじめた」理由は、ハガルが「軽く見るようになった」からです。つまり、ハガルは、サライを見下したのです。
さて、この家庭内の問題に対して、アブラムの対応は「ひどい」としか言いようがありません。
アブラムははサライに「見なさい。あなたの女奴隷は、あなたの手の中にある。あなたの好きなようにしなさい」と言ったのです。でも、今回は、このアブラムの態度については学びません。いつか機会があれば学びましょう。
この家庭内の問題は、些細なことではありません。ここに私たちは信仰生活を見ることができます。私たちは、ここから大いに学ぶ必要があります。
しかし、思いもよらず、とても長いメッセージになってしまいました。
なので、これを2回にわけて学びたいと思います。
今回は「サライ」を中心に学びます。次回は、ハガルを中心に学びたいと思います。
サライは「見せかけ謙遜」です
これは、サライが「良かれ」と思って計画したことから始まりました。サライは、この提案を善意で行いました。
私たちは「良かれ」に導かれてはならないとは、前回も学んだことです。私たちは「良い」ことだから行うのではありません。「みこころ」だから行うのです。
人の「良かれ」は、決して「神の約束」を成就させません。主は、ご自身の約束は、ご自身で成就されます。
サライは、自分が「神のようになって」ハガルによって「約束の子」を得ようとしたのです。これは、大いに問題です。
サライは自分が「神の約束」を「コントロール」しようとしていることに気が付いていません。ほとんどの聖徒が「コントロール」の罠に気が付かないのです。
「約束」を自分で成就させようとすることは、自分を「神の位置」に置く高慢な行為なのです。しかし、多くの場合、それは「高慢」とは思われません。
サライを見てください。周囲の人は、彼女を高慢だと思ったでしょうか?
自分の感情を治められる女性だと思ったのではないでしょうか。また、自分を犠牲にして、アブラムに仕える謙遜な妻だと褒めたのではないでしょうか。
私はこれを「見せかけ謙遜」と呼んでいます。多くの人が「見せかけ謙遜」の罠にかかっています。
それは、一見して「高慢」には見えません。本人も自分が「高慢だ」などとは思っていません。
サライは、自分は正しいことをしていると思っていたでしょう。自分の行動は「常識的」であり「知的」で「自己犠牲」に満ちた行為だと思っていたでしょう。
子を造り上げると言ったのです
サライは「私は子を得られるでしょう」と言いました。それは、直訳すると「私は子を造り上げられるでしょう」となります。
「私は子を造り上げられる」とサライは言ったのです。サライの心の底には「自分が造る」という思いがあったのです。この「自分が」という思いこそが「神のようになろう」とすることなのです。
そして「神のようになろう」とすることを、聖書は「高慢」「傲慢」と呼ぶのです。
それは、ほとんどの場合、隠されています。本人でさえ気が付きません。みな、口を揃えて言います。
「主のためにやりました」「兄姉のために頑張りました」
その言葉には主語が抜けています。「私が」という主語です。
日本語は便利ですね。「私が」とあえて言わなくても意味が通じますから。しかし、だからこそ「見せかけ謙遜」の罠にはまりやすいのかもしれません。
私たちは、時々、サライと同じ間違いを犯してしまいます。「良かれ」と思って行動し、自分で造り上げようとするのです。
私たちは「主のために」「主を手伝おうとして」「良かれ」と思って行います。ほとんどの聖徒は、そうでないかと思うのです。誰も「悪意」で動いてはいないと思います。
しかし、教会の中で「争い」「そねみ」が起こるのはなぜでしょう?
「良かれと思ってしたのに受け入れてもらえなかった」と私たちは言います。
「動機」は悪くはなかったのです。主のために、兄弟姉妹のためにと考えての事であったのです。しかし、それが「争い」や「そねみ」の原因となってしまったのです。それは「私が」行うことだからです。
これこそ、サライと同じ「見せかけ謙遜」の罠にはまった結果なのです。
それは謙遜ではありません
「見せかけ謙遜」は、他人にも自分と同じことを要求します。
すなわち「私が、これだけ頑張ったのだから、あなたも同じぐらい頑張れ」と言うのです。
また「私がへりくだって受け入れたのだから、あなたも同じぐらいへりくだって受け入れよ」というのです。
そしてまた「見せかけ謙遜」は、「私を認めなさい」と言います。「それは、私が造りあげたのだから、私が褒められるのは当然だ」と言うのです。
もちろん私たちは賢いので、このような直接的なことばを投げつけることは滅多にないでしょう。しかし、教会の「争い」「そねみ」の原因は、ほとんどこの「見せかけ謙遜」が原因であると言っても過言ではないと思います。
サライは「自分が当然受けるべき待遇」を受けることができなかったので憤慨したのです。
ハガルの高慢については、また次回に考えましょう。今は、サライについてだけを見ます。
サライは、ハガルの態度が赦せなかったのです。サライは、ハガルにこれ以上ないほどの「好待遇」を与えたつもりだったのです。
「第二夫人」の座を与えたのは、アブラムではなく自分だと思っていました。「この私が自分の女奴隷を与えた」と言っていることからしてそうでしょう。
このような「好待遇」を与えた自分を身ごもったからと言って「軽く見る」なんて決して赦される行為ではないと思ったのです。
もし、ハガルがへりくだって言ったとしたらどうでしょう。
「奥様のおかげで、このような身分になれて感謝します。この子は奥様が造り上げた子でございます」と言ってひれ伏したならどうだったでしょう。
おそらくサライは「良い女主人」のままでいられたのではないでしょうか。
「いいえ、あなたのおかげよ、ハガル。一緒にこの子を立派に育て上げましょうね」とにこやかに言えたのではないかと思います。
これは、個人的な偏見ですが、教会には、ハガルのような人は少ない気がします。みな、サライのように通常は「良い人」であると思います。しかし、自分が思ったとおりに事が動かなかったり、思った通りの扱いを受けることができない場合、「争い」や「そねみ」を生み出してしまうのです。
本当の謙遜は、自分がどのように扱われたとしても変わることはありません。誰に対しても、どんな時でも同じです。本当の謙遜は、決して「自分が」「私が」とは言わないからです。
私たちはみな、自分の行いが「利己的である」とは思いません。「虚栄心」であるとも思っていません。ほかの人のことを顧みているつもりなのです。他の人のために「良かれ」と思うからやっているのです。まさか自分の「良かれ」が「利己的である」などと思いもしません。
私たちはまさか自分が「肉の人」で「肉のわざ」を行っているとは思わないのです。なぜなら、私たちの動機は「良い」もので「良かれ」と思って行っているからです。
それは栄光が現れるためです
私たちは「良かれ」が人間的であることを認めなければなりません。イエス様は地上を歩まれたとき「良かれ」と思ってことを行われてはいなかったことを覚えるべきです。
ラザロの病は重いものだったのでしょう。「あなたの愛しておられる者が病気です」という知らせは、つまり「急いでお越しください。ラザロを癒してください」ということを伝えているわけです。
イエス様はラザロが病気であることを聞かれました。しかし、すぐに駆けつけられはしませんでした。こんな大切なときに、一刻を争うようなときに「二日」もとどまられたのです。
ヨハネは、わざわざ「イエスはマルタとその姉妹とラザロを愛しておられた」と記しています。彼らを愛しておられたなら、なおさら急いで行くべきではありませんか。
しかし、イエス様は動かれませんでした。彼らを「愛している」という感情は、イエス様が動かれる動機とはならないと言うことです。
私たちは勘違いしてしまうのです。
神は愛ですし、イエス様は群衆を深くあわれまれました。あわれみの心を持って人々を癒されました。かわいそうにと思ってくださいました。イエス様はすべてのことを「愛」を持って行われました。しかし、人間的な「良かれ」によって行動されませんでした。
イエス様の動機は「父のみこころ」なのです。
イエス様はラザロをかわいそうにと思われたでしょう。「良かれ」と思うことに導かれるならば、すぐに駆け付けて癒しを行われたはずです。しかし、御父のみこころは、すぐに駆けつけることではありませんでした。
イエス様が留まられたのは「神の栄光が現れるため」です。このとき、御父のみこころは、ラザロの病を癒すことではなく死からよみがえらせることであったからです。
私は思います。もし、私たちが自分の「良かれ」をすべて捨てて、ただ「みこころ」に従って歩むなら、どれほどの「神の栄光」が現れるのだろうと。
実際、私たちの「良かれ」は、神の栄光を妨げているのです。
「良い」か「悪い」か、「損」か「得」かは、導きの基準にはなりません。私たちの選択肢に「良い・悪い」「損・得」はないのです。
なぜなら、人の目から見た「良いこと」が必ずしも永遠に続くとは限らないし、人の目から見た「悪いこと」でも、主が働かれて益とされるからです。
ラザロの病が死に至ったことは、マルタたちを悲しみに突き落としました。人々は、どうしてイエス様は癒しに来てくださらなかったのかと思ったのです。
それは「悪いこと」に見えました。それは絶望で、すべての望みが絶たれたと思えました。
しかし、イエス様は力強く言われたのです。
私たちは信じるなら神の栄光を見るのです。
私たちがするべきことは、主にすべてを明け渡すことです。「約束の成就」を「造り上げよう」としないことです。「良かれ」が肉的なものであることを認めることです。そして、それは謙遜な振りをした「高慢」であることを悔い改めることです。
ねたみや争いがあるなら「肉の人」です
アブラムの家は「ねたみ」と「争い」の家になってしまいました。これが、人の「良かれ」が生み出した結果です。
「肉の人」である証拠は「ねたみ」や「争い」があることです。
私たちの間に「ねたみ」や「争い」があるなら、私たちは「肉の人」です。いくら「霊的」に見えるようにふるまっていたとしても、「ねたみ」「争い」を生み出しているなら「ただの人」なのです。
サライは「約束の子」のために行動しました。しかし、それは「肉の人」としての行いでした。それは、サライがハガルに取った態度によって証明されたのです。
どれだけ「良い動機」であったとしても、それが「主のための奉仕」であったとしても、私たちから「苦い思い」「ねたみ」「そねみ」が現れるなら、それは「肉のわざ」です。
サライがハガルによって造り上げた「イシュマエル」は、すべての兄弟に敵対するのです。
私たちが「肉の人」として歩むなら、私たちは兄姉たちと和合して暮らすことはできません。イシュマエルは兄弟と平和に暮らすことはできないのです。
大事なことは「愛によって働く信仰」であるとパウロは言います。
イエス様にあって大事なのは「律法の行い」ではなく「愛によって働く信仰」です。
何が正しいのか、何が悪いのかと私たちは考えます。何が効率の良いことで、どうすれば得なのかとも考えます。
しかし、本当に大事なことは「愛によって働く信仰」なのです。
「約束の子」が与えられることをアブラム夫妻は信じていたでしょう。信じていたからこそ、画策したのです。信じていたからこそサライは「良かれ」を提案したのです。
けれど、そこに「愛」はありませんでした。
私たちは、この点に最も注意しなければなりません。
私たちは「良かれ」によって動かされてはなりません。その「良かれ」に感情的な愛が含まれていたとしても、それによって導かれてはなりません。
しかし、私たちが「みこころ」を信じて従うとき、そこに「愛」がなくてはならないのです。それは神の愛です。
主からの信仰は「愛」によって働くからです。
新しく力に満たされるとき
サライは、ハガルによって「イシュマエル」を造り上げてしまいました。「肉の人」は「肉なるもの」しか生み出すことができないからです。そして、それは永遠には続かないものです。
しかし、この後、十数年が過ぎたころ、サライは「イサク」を生みます。
それは、アブラムが「アブラハム」に、サライが「サラ(ハ)」となったときです。そのとき、彼らの力は完全に失われていました。
私たちから「肉の力」が失われれば「御霊の御力」が働くのです。
「御霊の人」は「イサク」を生みます。イサクとは「笑い」という意味です。イサクは、アブラハムの家庭に「笑い」をもたらします。そして、成長したイサクは「平和の人」となります。
私たちが「御霊の人」となって歩むなら、その生み出すものは「喜び」と「平和」です。そして、それこそ「神の義」を実現するものです。
御霊の人は「良かれ」に歩まずとも「義」を実現できるのです。
私たちは、たとえ「約束の成就」のためであっても、ハガルを利用してはなりません。自分の「良かれ」によって「導かれてはなりません。
「約束の成就」のためであっても、そこに愛がなければ信仰を働かせることはできません。
主は、私たちが「約束を成就」することを求めてはおられません。それは、主がなさることだからです。
私たちは自分自身に塩気を保ちつつ、平和に過ごしましょう。神の家族の間に「ねたみ」や「争い」はふさわしくありません。
私たちは、約束そのものからも目を離します。そして、約束を与えてくださり、また、成就される方を見上げます。私たちは、主ご自身を信じるのです。
私たちは「御霊の人」として歩みましょう。ただ、聖霊に導かれて歩むことを求めましょう。
「肉の人」の反対語が「御霊の人」です。そして、御霊の人の結ぶ実は「愛」なのです。
私たちは人間的な「良かれ」の心を十字架につけたのです。私たちは「肉の人」として歩む必要はないのです。
私たちは御霊によって生きています。ですから、御霊によって進みます。古いものは過ぎ去ったのです。私たちは新しい生き方ができるのです。
肉の人として生きてはなりません。私たちはキリストにあって新しく造られたのです。御霊に導かれてあゆむことができるのです。
大切なことは「愛によって働く信仰」です。
祝福を祈ります。