Ⅱコリント4:7
私たちは、この宝を土の器の中に入れています。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかになるためです。
弱いことは「誇る」ことです
主が人を「地のちり」から造られたのには理由があると信じます。
最も「もろく」「はかない」ものから人は形造られました。それは、最も「強く」「不動」の方により頼んで生きるためです。
私たちは、「地のちり」ですが「神である主」によって価値あるものとされるのです。土の器でなければならない理由があるのです。
「測り知れない力」とは別訳では「並外れた」です。
この「測り知れない」「並外れた」力は、私たちからはでません。それは頑張っても決してでません。むしろ、私たちの「自我の力」は「並外れた」神の御力の邪魔になるだけです。
「私が弱いときこそ、私は強い」とパウロは言います。「弱さ」というのは、厭うべきものではなく、むしろ「誇るべきもの」です。
なぜなら主がこう言われるからです。
「わたしの力は弱さの内に完全に現れるからである」と。つまり「弱くなければ」現わされないということです。しかし「弱い」ならば「キリストの力が私をおおう」のです。
私たちは「弱い」のです。パウロも弱かったのだと思うと励まされます。
私は困難にあえば「くじけそう」になります。
侮辱されれば「憤り」ます。
私の心は「外側」からの刺激に反応します。傷ついたり、泣いたり、落ち込んだりします。しかし、それが「弱い」ということです。
心がいちいち「反応」しなければいいのになと思いますが、私は「弱さ」を抱えているのだと認めるしかありません。この「弱さ」があるからこそ、主だけにより頼むことができるのです。
そして「弱さ」のゆえに、主を見上げることこそ「強さ」であることを知るのです。
その時、私たちは知ります。主がなぜ私たちを「地のちり」から形作られたのかを。なぜ「いのちの息」を内側に吹き込まれたのかを。
「弱いちりである私」と「強い聖霊を宿す私」
矛盾するような「二つの間」で私たちは生きています。いえ、生かされています。
それは「測り知れない」「並外れた」御力が「神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかになるため」です。
私たちは「弱さ」を喜びましょう。「弱さ」を誇りましょう。
「弱い」なら「強い」のです。
「弱い」なら「おおわれる」のです。
あなたが「土の器」なら、主の「御力」が明かになるのです。
私は弱さを誇ります
私は土の器です
宝が私のうちにあります