ダニエル6:10
ダニエルは、その文書に署名されたことを知って自分の家に帰った。その屋上の部屋はエルサレムの方角に窓が開いていた。彼は以前からしていたように、日に三度ひざまずき、自分の神の前に祈って感謝をささげていた。
金の頭より劣る銀の胸と両腕の国
今回のダニエル6章のメッセージは、1回でまとめることができませんでした。6章1節から10節までを「その1」とし、6章11節以降を「その2」として次回にお話したいと思います。
ダニエル5章では「金の頭」であったバビロンの滅びる様子を見ました。時代は進み「銀の胸と両腕の国」へと移行します。
この銀の国は、ネブカドネツァル王の夢によると「あなたより劣る」と表現されています。
ネブカドネツァルは、絶対的な権力者でした。ネブカドネツァルに敵対できるものは何もなかったし、誰もいませんでした。自分の思うままに、邪魔者を排除し、自分の思うままに優遇できました。
それに比べると、ダレイオスの権力は制限されたものでした。メディアとペルシャの法律は、一度制定されたら王であったとしても絶対に取り消すこことができませんでした。
これは、エステル記においても確認できます。ペルシャのクセルクセス王はこう言いました。
王の名前が署名され、王の印が押された文書は「絶対的」な力を持ちました。それは、王であっても「取り消すことができない」のです。
つまり「法律」のほうが「王」より権威があるということです。ネブカドネツァルの権威より、ダレイオスの権威の方が、そのような意味において「劣る」のです。
ダニエルは「すぐれた霊」とともに歩みました
さて、ダレイオスのもとで、ダニエルは大いに用いられることとなりました。
まず、ダレイオスは、自分の下に120人の太守を任命し、それぞれに監督させ、国を上手く治めて行こうと考えました。これは、とても良い考えですね。
ダニエルは120人の太守を監督する三人のうちの一人に任命されたのです。
ダニエルは、この役目を忠実に果たします。彼の素晴らしさは誰の目にも明らかでした。そこでダレイオスは、ダニエルを三人のうちの一人ではなく、トップに立たせて国を治めさせようとしました。
前回も言いましたが、この時、ダニエルは80歳を少し超えた年齢だったと思われます。まあ、それは15歳ごろに捕らわれて来たと仮定しての話ですが。
捕らわれて来て66年以上が経過していました。
しかし、それにしてもダニエルという人は変わらないなと思わずにはいられません。少年だったダニエルは、聡明で国中のどんな知者よりも10倍もまさっていたと書かれていましたね。
そのダニエルは、今もなお、まだ変わらずに「ほかの太守や大臣よりも際立って秀でていた」のです。
それは「彼のうちにすぐれた霊が宿っていたから」です。
ダニエルがバビロンの宮殿において、どのような歩み方をしたのか聖書は詳しく記してはいません。
しかし、この一言で、彼が常に「神とともに歩いた」のだということが理解できます。
あの日「身を汚さないようにさせてくれ」と懇願した少年は、おそらく66年間、ずっと「身を汚さずに」歩んできたのです。
聖霊様は、ダニエルのうちから去らずに、ずっとそばにおられました。彼は聖霊様に「去りたい」と思わせなかったということです。
私たちは「神の霊」が去った後の悲惨さをサウルによって知ることができます。
サウルは、高慢になり「主の霊」は彼を去りました。主の霊が離れ去った後、人は「おびえる」ことになるのです。
サウルにも「主の霊」が激しく下られたことはありました。しかし、主はサウルから離れ去ることを選ばれました。サウルは「最後まで走り抜けなかった人」の典型であると思います。
ある人は言います。「始めるのは簡単だけれど、最後まで成し遂げることは難しい」と。
実際に、フラー神学校で「リーダーシップ」について教えている教授(J・ロバート・クリントン博士)が聖書に出てくるリーダーについてこう言ったそうです。
彼の発見は、どちらかと言えば当惑させられるものでした。彼によると、「最後までりっぱに走り抜いたリーダーは、ほとんどいなかった。調べることのできる人々について言えば、三〇パーセント以下の人々が、最後まで立派に走り抜いただけだった。」言い換えるならば、聖書中のリーダーの三人のうち二人は、最後まで走り抜けなかったことになります。
最後まで走り抜け デイビット・W・F・ヤング著 小山大三訳 岐阜純福音出版会
ダニエルは数少ない「最後まで走り抜いた人」であることは間違いありません。
大切なのは忠実であることです
終わりの日、私たちが問われるのは「何をしたのか」ということではありません。
イスラエルを勝利に導いたサウル王は、最後まで走り抜けられませんでした。主が求めておられるのは「勝利」ではありません。「勝利」なら、主はご自身で勝ち取ることがお出来になります。
主が問われるのは「最後まで走り抜いたかどうか」です。そして、「最後まで走り抜く」とは、言い換えると「最後まで忠実である」ということです。
私たちは「最後まで忠実であったか」を問われることになるのです。
「死に至るまで忠実でありなさい」とイエス様はスミルナの教会を励まされました。主が、私たちに求めておられることは「忠実である」ということです。
「忠実である」ことは、もっとも大切な資質であると思います。それは、どの時代の聖徒にも当てはまることです。
しかし、終わりの日が近づけば近づくほど「忠実である」ことは難しくなるでしょう。サタンが、最後まで走り抜こうとする聖徒を激しく揺さぶって来るからです。
「死に至るまで忠実でありなさい」とイエス様は言われます。
「死に至るまで」です。
私たちは「殉教」する前に「天に召される」もしくは「携挙」される可能性の方が高いと思います。今の日本において迫害によって「死に至る」ことは、ほとんどないでしょう。
しかし、どちらにしても「最後まで」忠実であることが求められているのです。私たちは、主にお会いするその日まで「忠実」に歩むことが必要なのです。
サタンは、忠実であるスミルナの教会の聖徒たちを試しました。教会のある人を牢に投げ入れたのです。そして、他の人に動揺を与え、主に対する信仰を捨てさせようとしたのです。
残念なことに「忠実」である聖徒は「試される」ことになります。「忠実」でない聖徒を試しても意味はないので、当然といえば当然です。
しかし、イエス様は言われます。
「あなたがたが受けようとしている苦しみを、何も恐れることはない」
ダニエルを「秀でたもの」としていた「すぐれた霊」は、今、私たちのうちにおられます。聖霊の注がれる愛によって恐れは締め出されることを信じます。
私たちは聖霊様に「去りたい」と思わせてはなりません。「ここには住みたくない」と思わせるような「高慢な心」であってはなりません。
ダニエルは、終わりの日の聖徒の模範です。ダニエルには「すぐれた霊」が宿っていました。
私たちが終わりの日を、最後まで忠実に走り抜くためには「すぐれた霊」である御霊に満たされて歩むことが必要なのです。
私たちは、ダニエルに起こった事を通して、終わりの時代の生き方を学びます。
それは、また妬みから始まりました
ダニエル3章には、ダニエルの3人の友人たちが人々の妬みによって「燃える火の炉」に投げ込まれたことが記されていました。
同じように、ダニエルもまた人々に妬まれ罠をかけられるのです。
ダニエルの敵たちは、ダニエルのことが邪魔でした。なんとか失脚させようと目論みます。
おそらく、ダニエルがいては不正も誤魔化しもできなかったからです。それに、ダレイオスに信頼されていたダニエルが妬ましかったのだと思います。「ユダからの捕虜の一人」であるダニエルが自分たちの上司であることも耐え難かったのでしょう。
生けるまことの神に対して忠実な人は、自分に与えられた仕事に関しても忠実であるのです。
これは、ダニエルが少しの失敗もしなかったということではないと思います。うっかりミスなど誰にでもあることでしょう。
ただ、その失敗について、ごまかしたり、誰かのせいにしたり、嘘をついたりしなかったということです。
賄賂をもらったり、不正な手段を用いることもなく、人を蹴落としたり、人によって態度を変えたりせず、怠けたり、仕事を放りだしたりもしなかったということでしょう。
敵は、ダニエルが「不正」を働いている証拠を見つけ出したいと必死でした。どんな些細なことでもいい、何か悪いことをしていないか、王に損害を与えることをしていないかと血眼になって探しただろうと思います。
しかし、ダニエルは「忠実で、怠慢も欠点も見つからなかった」のです。
少しも多めには見てくれない敵たちが「彼は忠実で、何の怠慢も欠点も見つからない」と認めるのですから、ダニエルの「忠実」は本物です。
これは、とても難しく思えることですが、ダニエルは、誠実にこのように仕えていたということです。
ダニエルは誰よりも「際立って秀でた」人でした。しかし、高慢にはなりませんでした。バビロンであっても、メド・ペルシャであっても、どこに置かれたとしても、ただ忠実に仕える姿勢を崩しませんでした。
「すぐれた霊が宿って」いる人は高慢にはならないのです。
ダニエルの敵たちは困り果てたことでしょう。そこで諦めればよいのに彼らはとことん策略を練ります。
終わりの時、サタンは決してあきらめません。
兄弟たちの告発者は、日々、私たちを訴えようと歩き回っています。しかし、血潮によりキリストのうちにある私たちを訴えて罪に定めることなどできません。
それでも、敵は、何としても聖徒を最後まで走らせないようにと目論みます。敵は、私たちの「忠実さ」に揺さぶりをかけてくるのです。
「忠実」であるか「妥協」するかを選ばせようとするのです。そして、もし「忠実」を選ぶならば「死」が待っていると脅すのです。
ダニエルに対して、大臣や太守たちが目論んだようにです。
「彼の神の律法のことで見つけるしかない」と敵たちは言いました。しかし、恐ろしいのは、敵であるこの人たちが本来はダニエルの同僚であるということですね。
彼らは、ダニエルの「神への忠実さ」を逆手に取ろうとしたのです。
「国中の大臣、長官、太守、顧問、総督はみな」とは、おそらくダニエル以外の高官たちでしょう。ダニエルが含まれているとするならば「獅子の穴に投げ込まれても構わない」と覚悟して同意したのかもしれません。
彼らは、ダレイオスの虚栄心を利用しました。実に上手な作戦です。
「王よ、あなただけに祈願したいのです。あなたが誰よりも偉大であることを示してください」と言ったのです。
自分から言いだしたのではなく部下たちが進んで言い出したのです。ダレイオスの虚栄心は大いに満足したでしょう。王は、二つ返事で承諾します。
この承諾を王は、後で激しく後悔することになります。虚栄心からでることは、たいてい悪い結果を生むものです。
メディアとペルシャの法律が制定されました。
「今から30日間、ダレイオス王以外に祈願する者は、獅子の穴に投げ込まれる」という禁令が布告されます。
これで、誰も、王自身も、この法令を破棄することができなくなりました。
ダニエルはいつもどおりに祈りました
「以前からしていたように」は、前の新改訳(2003)では「いつものように」と訳されています。
ダニエルは文書に署名されたことを知っていました。ダレイオス以外に祈願してはならないことを知っていました。
しかし、ただ知っていただけです。それを守るつもりなど、さらさらありませんでした。ダニエルが、常日頃、何に従って、誰に仕えているのかがよく分かる行動です。
ダニエルは、確かに自分の職務に忠実でした。しかし、それは「人に対してではなく、主に対してするように」行っていただけです。ダニエルは、どんなときでも「みことばに従って」「主に仕えて」いただけなのです。
ですから、主に対して祈ることを控えるなどという選択肢はダニエルの中にはないのです。
敵はダニエルに「忠実」であるか「妥協」するかの決断を迫ったつもりでした。
しかし、ダニエルにとって「忠実」であることは選択肢の一つではなく「生き方」そのものだったのです。
いつもの通り過ごしました。以前からしていたように「日に三度ひざまずき、自分の神の前に祈って感謝をささげ」ました。
このダニエルの行動には恐れが微塵も感じられません。獅子の穴に対する恐怖心をまったく感じることができません。「窓が開いていた」とあるように、ダニエルは「ひざまずき、自分の神に祈って感謝をささげる」ことを隠そうとはしていないのです。
私はここで「隠れるな」と言いたいのではありません。そうではなく「恐れるな」と言いたいのです。
ダニエルの祈りに注目しましょう。彼の大胆さはどこから来るのでしょう。
ある人は「ダニエルは高齢だったから死も怖くはなかったのだ。だから大胆になれたのだ」と言います。確かに、私もダニエルは「死」を恐れていなかっただろうと思います。
私でさえ「死」そのものを恐れてはいないのですから、ダニエルは当然、「死」など恐るるに足りないと思っていたでしょう。
「死」は、私たち聖徒にとって、もはや最後の敵ではありません。それは、イエス様にお会いする扉となります。パウロも「死ぬこともまた益です」と告白しています。
しかし、私は「死」そのものは恐れませんが「獅子の穴」には怯えます。ダニエルであっても「獅子の穴」に好んで入りたいとは思わなかったでしょう。
それでも彼は「祈りのない昼」ではなく「獅子とともにいる夜」を選んだのです。彼にとって「日に三度の祈り」は「獅子の穴」に勝るのです。
そして、彼の大胆な行動は、まさにこの「日に三度の祈り」から生じているのです。
この聖句は、全世代にとって有効なのです。
ダニエルの時代、もちろんパウロ書簡はありません。しかし、神様の原則は同じです。
「あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願い」が「理解を越えた神の平安」を生じさせるのです。
ダニエルは「獅子の穴」に投げ込まれることを知っていました。それでも「自分の神の前に祈って感謝をささげていた」のです。
この忠実な聖徒を恵み深い天の父が放って置かれることなどありえません。おそらく、ダニエルは言葉に表せない理解を越えた神の平安に包まれていたことでしょう。
ダニエルの大胆さの秘密は「いつもどおりの三度の祈り」です。それも「感謝をささげる祈り」にあります。
突然のできごとに「おびえない」秘訣は「感謝をもってささげる祈り」です。
確かに恐怖は「突然」やって来ます。「突然の予期せぬ出来事」は、私たちを怯えさせます。突然の恐怖には「いつもの祈り」が必要であることを覚えてください。
ダニエルの屋上の部屋は「エルサレムの方角に窓が開いて」いました。
ソロモンは、主の神殿が完成したときに祈って言いました。
まるで捕囚になることを知っていたかのような祈りです。ダニエルは、このソロモンの祈りを読み、覚えていたのだろうと思います。
ダニエルは捕らわれの身となって以来、ずっと、窓を開いて、エルサレムと神の神殿を思いながら祈りをささげていたのでしょう。少年時代から、今、この時に至るまで、ダニエルのうちに神の都を慕い求める思いが消え去ることはなかったのです。反対に、ますます強くなっていったのではなかろうかと思います。
私たちは「感謝をもってささげる祈りと願い」をささげたいと思います。このようなメッセージを聞くと素直な良い聖徒はみな、「明日から感謝を持って祈ろう」と決心するでしょう。
常に主の御前に出ようと心に決めます。しかし、続かないのです。うまく祈れなくて嫌になってしまいます。そうして挫折してしまうのです。
なぜ、挫折してしまうのでしょう。それは、私たちが「感謝を持たなければならない」と意気込むからです。
ダニエルは、おそらくですが「感謝」を意識していなかったのではないでしょうか。
開け放たれた窓の彼方には、愛するエルサレムと神の神殿があるのです。そこに思いを馳せるとき、ダニエルの心のうちに感謝が生み出されたのだと私は思います。そして、その感謝が哀願を生み出します。
愛する兄弟姉妹。
感謝を絞り出し、賛美を絞り出し、一生懸命に祈りの言葉を探すのはやめましょう。
私たちも窓を開けて「天の都」に思いを馳せるのです。麗しい天の都、そこにおられる慕わしいお方を思いみましょう。
そうすれば、私たちの心には感謝と賛美が自然に溢れます。私たちは、神の臨在に包まれ、心と思いはキリスト・イエスにあって守られるでしょう。
いつもそのように祈っていることができたなら、それはいつも「理解を越えた神の平安」で満たされていることができるということです。
そうすれば「にわかに起こる恐怖におびえる」ことはなくなるのです。
主を慕い求める者こそ忠実な者です
チャック・スミスという牧師は、聖書の人物の中で最も会いたい人は「ダニエル」であると言っています。
実は、私もそうなのです。私も、天国に行ったならば、特にダニエルと仲良くなりたいと思っているのです。
そして、この「神に特別に愛されている人」と呼ばれた神のしもべの66年間を根掘り葉掘り聞いてみたいのです。
ダニエルは、どのようにして「忠実さ」を保って最後まで走り抜けたのでしょう。
「神のことば」と「祈り」が鍵であったことは間違いないと思います。「感謝をささげていた」というのは注目するべきところです。
愛する兄弟姉妹。
エルサレムから遠く離され、一生を異国で終えた、この神のしもべの生涯を思い見ましょう。
それでもダニエルは、うらやましいほど「神とともにいた」のです。御使いはダニエルを「神に特別に愛された者」と呼んでいます。
私は、そのことをうらやましく思うと同時に、大いに励ましをも受けます。
ダニエルが、偶像にあふれた異国の地で「特別に愛された者」と呼ばれるならば、私も、この日本の地で「特別に愛される者」と呼ばれることができるかもしれないと思うのです。
「日に三度の祈り」をダニエルはささげました。大切なことは「回数」だけではなく「心から」の祈りです。
どのような状況にあっても「御前に出る」ことを最大の喜びと思うことです。
エルサレムに向かって開いた窓にむかって、その空の彼方にある神の宮を恋慕って、ダニエルは、66年間、日に三回、つまり「何万回も」ひざまずいたのです。
終わりの時、私たちに必要なのは、心の底から、それこそ何万回もひざまづくほどに「主を慕い求める心」です。
「忠実さ」は、愛する心から生じるものです。そして、主を愛する心は「見上げる」ことによって増し加わります。
祝福を祈ります。