出エジプト4:2
主は彼に言われた。「あなたの手に持っているものは何か。」彼は答えた。「杖です。」
モーセは自信を失くしていました。
モーセは40歳の時にエジプトから逃げ出しました。そして、それから40年間、ずっと義父であるイテロの羊を飼って暮らしてきたのです。
主が「今、行け」とモーセに言われたとき、モーセ自身は、これっぽっちも行きたいとは思いませんでした。
なぜ、今、なのでしょう?
もっと自信にあふれた、力に満ちていた頃に召してくださったなら喜んで行ったであろうと思います。
尻込みするモーセに、主は言われました。
今、モーセの持っているものといえば「羊飼いの杖」だけでした。
自分に十分な準備があるとは思えません。自分の持っているものが役に立つとは思えません。
しかし、主は言われます。
ただの「羊飼いの杖」を持ってモーセは使命を果たさなければならないのです。
あなたは、自分は何も持っていないと思いますか?
自分は専門的な知識を持っていないから伝道できないなどと思いますか?
それならば、私も言いたいのです。
「あなたの手に持っているものは何ですか?」
あなたは、自分の救いの体験などありふれていて役に立たないと思いますか?
劇的な人の目を引くような経験がないから「証」しても人の心に響かないと思いますか?
覚えてください。
モーセの杖は、羊飼いならだれでも手に入れることができたであろう「普通の杖」でした。
しかし、それは、神様の命令により、ひとたび投げ出すと蛇に変わるのです。尾をつかむと戻るという「しるし」の杖となりました。
「あなたの手に持っているものは何ですか?」
あなたは、いつ、どのように、主と出会いましたか?
あなたに救いの確信をもたらした「みことば」は何ですか?
それこそ、あなたの持っている「杖」です。
あなたは、主と出会い、その「みことば」とともに歩んできたのでしょう?
それは、あなたの「杖」です。その「杖」をしっかりと握ってください。あなたは、その「杖」を持って「しるし」を行わなければなりません。
主は、特別な物を持つ、自信に満ち溢れた人を用いられるのではありません。自信を失くして「杖」しか持っていないモーセを用いられたのです。
私たちがすることは一つだけです。自分の「杖」をしっかり握って、主の召しに答えて行くだけです。
私たちは、いつでも「救いの証」を、だれにでも説明できるように準備しておくべきです。私は、常々、一人一人が、自分の証をトラクトにして配れるようにすればいいのにと思っています。
あなたの「救いの証」は、劇的ではないと思えるかもしれません。しかし、それが何でしょう?
あなたが何を「劇的」と思っているのかは知りませんが、「救いの証」が「劇的」である必要などないのです。
必要なのは「罪が赦されたという体験」だけです。
モーセは、杖と一緒に「懐に入れた手」を「しるし」として持っていました。
あなたの「救いの体験」は、モーセの「懐にいれた手」です。主が、あなたの「罪を赦し、血潮によってきよめてくださった」という体験は、あなただけの「しるし」です。
そして、あなたの「救いの証」は、必ず、だれかの「しるし」となります。それを聞いて、救われる人が必ずいます。
「杖」を握りなおしましょう。あなたが従うとき、それは「神の杖」と呼ばれます。
「懐に入れた手」を見直してください。イエス様の十字架により罪が赦された感動が溢れるでしょう。
そうして、「今、行け」と言われる主の召しに答えましょう。
私はイエス様の十字架によって救われました。
私には救いの確信があります。
「みことば」と「証」を宣べ伝えます。