No.312 求める者は報いてくださる方を信じます

見上げる花

ヘブル11:6
信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。

信じるべきことは二つです

信仰とは「神を喜ばせるために必要なこと」です。主は、私たちの「信仰」を喜ばれます。

「信仰」とは何でしょう。「信仰」とは、もちろん「信じること」です。では、私たちは何を信じればよいのでしょう。

私たちは「信仰」を持って神に近づきます。

その時に「二つのこと」が必要であると聖書は言います。

まず一つ目は「神がおられること」を信じることです。二つ目は「神が報いてくださる方である」と信じることです。

ある働き人がスポルジョン牧師のもとに来て言ったそうです。

「4年間、一生懸命に神に仕えて来たつもりです。しかし、まったく実りを得られませんでした。何も起こらないのです。自分は、召されていないのではないかと思います。伝道から身を引こうと考えています」と。

するとスポルジョンは単に「君はご奉仕のたびに回心する者が生まれることを期待して説教しましたか。」と問うた。~中略~
スポルジョンは彼に「君はそれを期待しなかったから、それを受けなかったのです。祝福を与えられる条件は信仰です。それは私たちの救いに必要なように、私たちの働きにも必要なのです。
聖霊による歩み A・Bシンプソン いのちのことば社

私たちは「信仰によって救われた」と信じています。

イエス様を「主」と告白し、主のよみがえりを信じますと告白して救われたのです。主は、祈りに答えて「救ってくださった」と私は信じています。

それと全く同じことが「日々の生活」においても必要なのです。

私たちは、日々「神は生きておられる」「神は、今も、求める者に報いてくださる」と信じなければならないのです。

「報い」に関して、私たちの必死の努力は必要ありません。それは「意味のない努力」です。一生懸命に努力しても「実りが得られなかった」ので奉仕から身を引くというのは誤った考えです。

「やるだけやった。それでもダメだったのだからあきらめよう」というのも間違った考え方です。

やめるべきは努力です。あきらめるべきは、自分の力です。

私たちは、今すぐに「努力すること」をやめて御前にひざまずくべきです。

私たちは「自分に期待すること」をあきらめて、御前にひざまずくべきなのです。

私がするべきことは「主に期待すること」です。

主は、必ず「求めに報いて」くださると信じることです。

私が「自分の快楽のために使おうと悪い動機で求めて」いないのなら、必ず主は「求めに報いてくださる」と信じることです。

私が「どのような者」であっても「どのような状態」であったとしても、主の真実は決して変わりません。

ヘブル13:8
イエス・キリストは、昨日も今日も、とこしえに変わることがありません。

私は自分から目を離し「とこしえに変わらない方」を見上げます。

「主よ、私の努力では何も実りません」と認めます。

そして「主よ、あなたに期待しています。あなたは収穫の主です。あなたは報いてくださる方です」と告白します。

主がおられることを信じましょう。

主が求める者に報いてくださる方であることを信じましょう。

私たちは、主の「喜ばれる信仰」を持って、神に近づくことができるのです。

主よ、私は信じます
あなたがおられることを信じます
あなたが報いてくださる方であることを信じます。