黙示録1:1
イエス・キリストの黙示。神はすぐに起こるべきことを示すため、これをキリストに与えられた。そしてキリストは、御使いを遣わして、これをしもべヨハネに告げられた。
黙示とは、明らかにされるという意味です
ヨハネの黙示録の学びを始めます。
今回は「黙示録の学びをはじめるにあたって」という主題で「ヨハネの黙示録を読むための心得」を学びたいと思います。
「1章1節」を読めば「ヨハネの黙示録」がどのような書であるのかが分かります。また「黙示録」を読むための心得も分かります。
まず、この書は「イエス・キリストの黙示」です。
「黙示」とは「啓示」「顕現」「出現」などとも訳せます。中国語の聖書では「啓示録」という題になっているようです。
意味としては「覆いを取り除く」というのが一番分かりやすいかと思います。
この「黙示」とは、ギリシャ語で「アポカリプシス」ということばです。その黙示がどういうことなのかを例えてみると、除幕式の時にカーテンがサッーと取り去られると、そこにいるすべての人が同じものを見ます。それが黙示です。
イエス・キリストはもう一度来られる 栄子・スティーブンス著 オメガ出版
「黙示」という漢字を見るとき、どうしても「謎」「隠されたこと」というようなイメージを持ってしまいますが、実際は逆の意味であるということです。
「黙示」とは「明らかにされる」「覆いを取り除かれる」という意味です。
御使いは使徒ヨハネに言いました。
つまり「黙示録」は封じられた書ではないのです。
これは「啓示の書」です。
私たちは「黙示録」を読んで「悟る」ことができるのです。黙示録は「明らかにするため」の書です。
ですから、私たちは黙示録から「何かを学び得ること」を期待しなければなりません。
「これは謎の書だ」「学ぶと混乱する」「決して分からない書だ」というような考えは捨て去るべきです。
この書は、我々の理解できないことが書かれている神秘的な書であるが、それでも多くの理解できることが書かれている。神秘的な象徴に混じって、聖書全体でも最も有益な警告と、最も貴重な約束とがある。
聖書ハンドブック ヘンリー・H・ハーレイ著 聖書図書刊行会(いのちのことば社)
「黙示録」の学びには「益」しかないと私は思っています。
最終章(22章)にたどり着くのは、いつになるやら分かりませんが、しばらくの間、一緒に黙示録の世界を探索しましょう。
2025年のうちに終われるとは思います。たぶん…(笑)
これは「イエス・キリストの黙示」です
「イエス・キリストの黙示」というのが、この書の表題です。
この表題について、二つの意見があります。神学者たちの間では「大いに議論が沸騰した」ようです。
「キリストを明らかにする」のか「キリストが明らかにされる」のかということです。
私は、正直、どちらでも構わないと思っています(笑)
主語属格か、目的語属格か、とかよく分かりません(笑)
メリル・C・テニイ師によると、文法上の解釈としては「後者」つまり「キリストが明らかにされる」とするのが妥当なようです。
イエス様は「明らかされる方」です。イエス様こそ「啓示の授与者」です。
しかし、黙示録を読み進めていくと分かりますが、イエス様は「授与者」であると同時に「啓示そのもの」でもあります。
つまり「黙示録」を学ぶと「イエス・キリスト」という方をより深く知ることができるということです。
そしてまた「イエス・キリスト」について学ぶと「黙示録」がより深く理解できるのです。
キリストの人格こそは、黙示録を解くための最も重要な鍵なのである。キリストの黙示録における位置が認知される度合いにしたがって、その主要論旨は理解できるのであり、キリストの人格と事業が展開される度合いにしたがって、その意味も見出されるのである。
ヨハネの黙示録 メリル・C・テニイ著 聖書図書刊行会(いのちのことば社)
黙示録は「イエス・キリスト」について知れば知るほど「理解できるようになる書」であると私は思います。
イエス様は「解き明かして」くださいます。けれど、イエス様のことを「知らない人」が読んでも「まったく分からない」でしょう。
「啓示の内容」を知るためには「啓示を与える方」を知る必要があるということです。
そして「啓示を与える方」を知るために「啓示の内容」を学ぶ必要があるという、ある意味、不思議な書なのです。
黙示録には、様々な「象徴」や「出来事」が記されています。
興味深いことや恐ろしいこと、麗しいことが記されています。
しかし、そのどの場面においても、私たちは「イエス・キリスト」から目を離してはなりません。
キリストが登場されていないように見える場面であっても、そこにある「御思い」に注目しなければなりません。
もし、黙示録を読んで「混乱」するようなことがあるのならば、それは「イエス・キリスト」から目を離したからです。
黙示録を読むときには覚えていなければなりません。
これは「イエス・キリストの黙示」なのだということを。
「666の数字の意味」が分かったとしても、「七つの星」の意味を解き明かせても、おそらく、あなたの人生は変わりません。
しかし、黙示録に現わされる「イエス・キリスト」を知ったならば、あなたの「生き方」は変わります。
今回、私たちは、長い時間をかけて「黙示録」を学びます。
ただ、どれだけ長い時間をかけたとしても、すべてを理解することはできないでしょう。
しかし、これだけは確かです。
イエス様が、あなたに「解き明かして」くださることが必ずあります。イエス様が「あなたに伝えたい」と望んでおられることが必ずあります。
一度の学びで全てを理解する必要はないのです。ただ、今のあなたに解き明かされた「啓示」のみ理解できればよいのです。主が「今、伝えたい」と望まれることを受け留めればよいのです。
そして、この学びにおいて「イエス様があなたに伝えたい」と望まれたことを、しっかりと受け留めるなら、あなたの人生は確実に変わります。
私たちは期待しましょう。
私たちは、ますます「イエス・キリスト」を知り、ますます「その啓示」に目が開かれるようになり、御心のうちを歩むことができるようになると期待して学びを続けましょう。
すぐに起こるべきことをしもべたちに示すため
黙示録には「すぐに起こるべきこと」が記されています。
「すぐに」とは、「まもなく」「ただちに」と訳すことができます。
「必ず起こるべきこと」とは「必然的に起こる」「避けることができない」という意味です。
つまり黙示録には「絶対に避けることのできないこと」「定められていること」が記されているのです。
そして、それは「ただちに」「まもなく」「すぐに」起こることであると、主は言われます。
主は、私たちに「危機感」を持ってほしいと思っておられるようです。
イエス様は地上を歩いておられた時、何度も繰り返して言われました。
黙示録は「目を覚ましているための書」です。
「すぐに起こるべきこと」であると、神ご自身が示されたのです。ですから「ぼんやり」と聞いてはなりません。
これは「しもべたちに示された」ものです。
私たちが「神のしもべ」であると自負するならば、黙示録は私たちのための書です。
主の日は「盗人のように」やって来ます。人々は「突然の破滅」に襲われます。
しかし「目覚めている者たち」は、突然の破滅に襲われることはありません。
主なる神は、私たち「神のしもべ」にあらかじめ「その日」について教えてくださいました。
何が起こるのか、どのようにして起こるのかを告げてくださいました。
そしてそれは「すぐに起こるべきこと」であると、念を押されているのです。
私たちは「すぐに起こるべきこと」として黙示録を読まねばなりません。
黙示録は、神のしもべが「目を覚ましているための書」です。
イエス様は御使いを遣わされます
御父は「すぐに起こるべきことを示すため、これをキリストに与えられた」のです。
イエス様は、この啓示を「どのように」「だれに」示すのかを決めることがおできになります。
イエス様は、この啓示を「御使いを遣わして」告げられました。
これは、ダニエルに与えられた啓示が「御使い」によって告げられたことを思わせます。
ダニエル書を学びますと「御使いの活躍」を知ることができます。私たちの知らないところで、御使いが戦っていることを知ります。
この世界には、確かに見えない領域があって、被造物のすべてが「見えるもの」でないのは明らかです。
黙示録には「天と地のこと」が記されています。それは、私たち「人類」だけに関係する情報ではないのです。
これは「すべての被造物」に関わることです。被造物のすべてが「ともに産みの苦しみ」をしているのです。
パウロの言っていることの真意を掴むことはできませんが、それでも「黙示録」に記されていることが「全世界の被造物に関係している」ことは確かでしょう。
御使いに滅びの束縛があるとは思いませんが、彼らが「ともに戦っている」のは事実です。
御使いは、主にある人々のために「奉仕」してくれます。彼らもまた「神の子どもたちが現れるのを待ち望んで」くれています。
イエス様は言われました。
黙示録を学ぶことで、私たちは「天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを」見ることでしょう。
御使いも存在するのです。そして、ともに戦っているのです。
御使いだって「堕落した元御使い」が暴れ回っていることを「良し」とは思わないでしょう。
私たちは「孤独な負け戦」をしているのではありません。「勝つかどうか分からないけど頑張ろう」と言いながら戦ってはいません。
私たちは、天の軍勢とともに「勝利を掲げて」戦っているのです。
黙示録は「視点を変えるための書」です。
神の「高さ」「広さ」「長さ」「深さ」を知ることができる書です。
見えている世界がすべてではないと知るための書です。
しもべヨハネに告げられた
さて、これが最後の心得です。そして、私が「ヨハネの黙示録」を学ぶ最大の動機です。
イエス様は「しもべヨハネ」に告げられたのです。
私は「しもべヨハネ」は「使徒ヨハネ」であったと信じています。諸説あることは知っていますが、使徒ヨハネでない理由がわかりません。
しかし、なぜ黙示録は「使徒ヨハネ」に告げられたのでしょう?
なぜ「パウロ」ではなかったのでしょう。
パウロの務めは「神の奥義」を余すことなく伝えることです。
「多くの書簡を残し神の奥義を告げ知らせたパウロの方が黙示録の著者にふさわしい」と言う人の意見も、もっともだと思います。
しかし、イエス様は「使徒ヨハネ」に黙示録を告げられたのです。ここに「黙示録」を解き明かす秘訣があるように私は思うのです。
この当時、使徒ヨハネは「90歳前後」であっただろうと思われます。
ほかの「12使徒」は、みな召されています。使徒パウロも召されています。必然的に「使徒ヨハネ」しか残っていなかったと言われればそれまでです。
しかし、私は「使徒ヨハネ」は「あえて残されていた」と考えます。
伝承によれば「使徒ヨハネ」も処刑されたことがあったようです。しかし、彼は「奇跡的に助かった」と言われます。
イエス様は、ヨハネには生き長らえてもらいたいと望まれたのでしょう。ヨハネには「最後に」まだ役目が残っていたからです。
「キリストの人格こそは、黙示録を解くための最も重要な鍵なのである」というテニイ師の意見に、私は激しく同意します。
これは、実体験として「そうだ」と確信してるのです。とにかく、黙示録は「ただ知識を得るために学ぶ」のであれば、まったく「ちんぷんかんぷん」だからです。
鍵となるのは「イエスの愛された弟子」であることです
ダニエル書は「旧約の黙示録」と呼ばれることがあります。
その著者ダニエルのことを御使いは「神に特別に愛されている人よ」と呼んでいます。
そして、黙示録の著者である使徒ヨハネは自分自身を「イエスの愛しておられた弟子」と呼んでいます。
私は、このことを偶然だとは思えないのです。
もちろん、ダニエルと使徒ヨハネ以外に「神に愛された人はいない」などと言うつもりはありません。
ダビデもアブラハムも、モーセだって特別なしもべでしょう。
使徒ヨハネの兄弟であるヤコブも特別であったと思います。
ヤコブは12使徒の中で最初に殉教した弟子です。主は、ヤコブをすぐに御もとに引き上げたいと望まれたのでしょう。
一方、残されたヨハネもまた特別でした。
ヨハネには自分は「イエスの愛しておられた弟子」であるという自信がありました。それは、信頼関係に基づく自信です。
主イエスは、ご自分が息を引き取られる、その直前に母マリアを心に留められました。
そして、愛弟子ヨハネに託したのです。
愛弟子ヨハネは、イエス様の意図を汲み、マリアの面倒を見るのです。
何という信頼関係でしょう。
使徒ヨハネは「イエスの愛しておられた弟子」です。けれど、それは単に「可愛がられた」という愛ではありません。
それは「信頼を伴う愛」です。そして、それは「相互間の愛」です。
イエス様は、ヨハネを愛されました。それは「信頼」を与えるほどに愛されました。
ヨハネもまた、イエス様を愛しました。それは「行いと真実の伴う愛」でした。
ヨハネは、イエス様の弟子です。しかし、それ以上の者です。イエス様はヨハネを信頼されました。母マリアを託しても大丈夫だと思われました。
イエス様はヨハネを信頼されたのです。
愛していても「信頼」できないことはあります。
父親は、自分の子どもを愛するでしょう。しかし、赤ちゃんに大金を預けたりはしません。自分の心配事を相談したりもしません。そこには「愛」はありますが、対等な関係を持つ「信頼」はないのです。
主は、友には「知らせて」くださるのです。
御父から聞いたすべてのことを話してくださいます。ご自身の御心を啓示してくださいます。
アブラハムは「神の友」と呼ばれます。主は「友であるアブラハム」にソドムとゴモラへのさばきを知らせて下しました。
主は「友」には「隠しておくべきではない」と考えられる方なのです。
「黙示録」が使徒ヨハネに告げられたのは偶然でも消去法でもないと私は信じます。
ヨハネだからこそ告げられたのです。
ヨハネは自分を「しもべヨハネ」と記しますが、やはり彼は「イエスの愛された弟子」であり「イエスの友」であり「大事な母を託された愛弟子」なのです。
そして、主は、最後に「黙示録」を愛する弟子ヨハネに告げられたのです。
「黙示録」を知りたいと思うなら「信頼を伴う愛」を体験することです。
私たちが、みな「愛されている」のは事実です。
しかし、それは「信頼を伴う愛」でしょうか?
私は、イエス様が「秘密を分かち合って」くださるようにと願います。
あなたはどうでしょう?
「イエスの愛された弟子」となって、主に黙示録を啓示していただきましょう。
最も必要なのは「キリストを知ること」です
「黙示録」は難しく考えるべき書ではありません。しかし「特別な書」であることも間違いありません。
「幼子たち」と呼ばれる聖徒は「御父を知るように」なりました。
「父たち」と呼ばれる聖徒は「初めからおられる方を知るように」なりました。
「知る」には種類があることは明らかです。
「幼子」と「父たち」は同じ神を「知って」いますが、彼らの理解には違いがあるのです。
私は「黙示録」を理解したいと長い間、思い続けてきました。
最初は「興味」で読みました。「謎」を解き明かしたいと思いました。
しかし、そのような読み方をしても、結局、それほど益を得られなかったように思います。
今は「謎」には、ほとんど興味はありません。「解き明かしてやろう」とも思いません。
ただ、そこにおられる「イエス・キリスト」を知りたいと望みます。
ただ「イエス・キリスト」に焦点を当て続けるならば「解き明かしてやろう」と意気込まずとも、自ずと解き明かされるのではないかと思います。
大切なことは「キリストの人知をはるかに超えた愛」を知ることです。
そして「心を尽くして主を愛すること」です。
「相互の愛」が必要なのです。
「神に特別に愛されたダニエル」と「イエスの愛された弟子ヨハネ」に「終末預言」が与えられたことは偶然ではないと信じます。
私は「神に特別に愛された者」と呼ばれたいし「イエスの愛された弟子」にもなりたいのです。
私は、今回の黙示録の学びを、この仮説のもとに進めたいと思っています。
すなわち「黙示録はイエス様の愛を知り、イエス様を愛することによって解き明かされる」という仮説です。
ですから、この学びの目標は「黙示録の中のキリストを知り、キリストによって黙示録を知る」です。
この学びを終えた後、私たちが「キリストの愛で満ち満ちでいる」ことを願います。
私の願いは、この学びを終えた後、あなたが「私はイエス様を愛しています」と叫ぶ声を聞くことです。
そして、膝をかかがめて「イエス・キリストは主です」と告白して、父なる神に栄光を帰すことです。
祝福を祈ります。