ダニエル9:27
彼は一週の間、多くの者と堅い契約を結び、半週の間、いけにえと献げものをやめさせる。
忌まわしいものの翼の上に、荒らす者がが現れる。そしてついには、定められた破滅が、荒らす者の上に降りかかる。
一度、視点を戻しましょう
ダニエル書9章の学びを続けています。そろそろ「頭が痛くなる」ころですね(笑)
ダニエル6章ぐらいまでは物語のようで、とても面白く感じますが、7章以降、預言的な幻の解釈が続くと、どうにも難しくて「頭がクラクラ」してきます。特に前回は、終わった後、寝込みそうになりましたね。かなり「クラクラ」しました。
話す私がそうなのですから、皆さんは、もっとそうでしょう(笑)
ダニエルも、このように感じたのかなと想像しています。
8章の幻を与えられた後、ダニエルは寝込んでしまいますね。
ダニエルの病がどのようなものであったかは分かりません。けれど、幻を見たり、解釈を聞いたりしたことが何らかの影響を与えたのだろうなと想像します。
確かに「終わりの日」に関する預言は、難解で不可解です。しかも、学んで「結論」がでれば「スッキリ」もしますが、結局「よく分からない」という終わり方なのでモヤモヤがたまっていきますよね。
ここで、もう一度「視点」を確認しましょう。
難解不可解な預言であっても、その中心は「イエス・キリスト」であることを覚えておかなければなりません。
私たちは、決して「イエス・キリスト」から目を離してはならないのです。
預言の書に「イエス様のこと」が書かれていることを私たちは知っています。
この点において、私たちはダニエルより恵まれていると言えるでしょう。
ダニエルは、自分が聞いた「油注がれた者」がメシアであることは理解できたでしょうが、その方が「具体的」に何をされるのか、なぜ「彼には何も残らない」と言われるのかは分からなかったと思います。
しかし、私たちには分かるのです。
私たちは「油注がれた者」がイエス様であることを知っています。
「彼には何も残らない」と言われた理由も知っています、
イエス様は「一度目」は、「得るため」では「献げる」ために来てくださいました。「一度目」は、御国を打ち立てられません。「断たれる」ために来られたのです。
ダニエルや他の預言者たちが「知りたい」と願ったことを、私たちは知っているのです。
すべての中心は「イエス・キリスト」です。
ペテロは言っています。
昔の預言者たちは「私たちのために奉仕」してくれたのです。
私たちは「福音」を聞き救われました。
しかし、まだ先があるのです。「2回目」があるのです。
イエス様は「再び」来られます。
そのときに与えられる「恵み」を私たちは待ち望みます。その「恵み」をひたすら待ち望みます。
終末預言を学ぶのは、これから「どれだけ恐ろしいことが起こるか」を知るためではありません。
私たちは「その先」のことを待ち望みます。
「神の召しによって与えられる望みがどのようなものか」
「聖徒の受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものか」
それらを知って、確信するために「終末預言」を学ぶのです。
イエス様が勝ち取ってくださったものが「この地上だけで終わるものではない」ことを知るために学ぶのです。
私たちは「夜に突入する」のではありません。そうではなく「夜明けに向かって歩んでいる」のです。夜は永遠には続かないのです。
確かに「頭がクラクラ」するような「理解し難い」ことを読み込むのは疲れます。
けれど、ダニエルや他の預言者が、私たちのために「奉仕」してくれたことを無駄にしてはなりません。
イエス様にある「望み」をひたすら待ち望みつつ、心の目がはっきり見えるようになることを願いつつ、学びを續けていきましょう。
次に来る君主の民が都と聖所を破壊します
前回は「油注がれた者は断たれ、彼には何も残らない」という所までを学びました。
今回はその続きから考えていきます。
「次に来る君主の民」と書かれています。
「次」とは、イエス様が「断たれた」後で来る「誰か」のことで間違いありません。
その「誰か」が「都と聖所を破壊する」のです。つまり「エルサレム」と「神殿」が破壊されるということです。
イエス様は言われました。
イエス様は、この建物つまり神殿のことですが、それが「粉々になる」と預言されたのです。
そして、それは、すでに成就したのです。そして、成就し続けていると言えるのです。
「来たるべき君主の民」については、諸説ありますが、一番、面白いものを一つ紹介しておきます。
ローマ軍による破壊が行われました
それはAD70年ごろのことだと言われています。
主イエスがよみがえられ天に昇られた後のことです。約40年後の出来事です。
ローマ軍によってエルサレムは破壊されます。
ヨセフォスという歴史家によると、ローマの上層部は「エルサレム神殿は破壊するな」と命令していたそうです。
当時の神殿は、ヘロデ大王が手を加えて絢爛豪華に仕上げたのものでした。ローマの上層部は、それを惜しいと思ったのでしょう。
しかし、現場で戦う軍の兵士たちは、そんな悠長なことを言ってはいられなかったようです。エルサレムの人々は「神殿に籠城」していました。そして激しく抵抗したのです。
この抵抗に苛立ったローマ軍は、上層部の指示を無視して神殿に火を放ちました。神殿もろとも民を滅ぼそうとしたのです。
その結果、エルサレム神殿は焼失してしまいました。
高熱によって神殿を飾っていた金箔は溶け、無残にも石の割れ目に流れ落ちたのです。そこで、神殿崩壊後、石の割れ目に冷え固まった金をかき集めるため、積み上げられていた石という石がローマ軍によって取り外され、打ち砕かれることになります。このようにして奇しくもイエスの預言「一つの石もほかの石に積まれたままでは残されない日が、やって来る」が文字通り成就したのです。
一人で学べるダニエル書 フルダ・K・伊藤著 文芸社
ダニエルの預言「来たるべき君主の民」が都と聖所を破壊するという預言も成就したのです。
ダニエルが記した通り「神殿」を破壊したのは「君主」ではなく、その命令に従わなかった「兵士」つまり「君主の民」であったということになります。
70週の時計が止まっている理由
さて、ダニエルの70週の出来事は、トントントンと成就しているように見えます。
しかし、この先、後1週を残してピタリと止まってしまいます。
最後の7年間と呼ばれる時を残して、停止してしまったのです。
69週と最後の1週の間、この地には戦争が絶えることはありません。
都と聖所が破壊された後、「洪水」が起こります。
「洪水」とは「離散」のことであると解釈されます。
ユダヤ人は「離散の民」となりました。それは「洪水」のように押し流されて「離散」したのです。
主イエスが十字架上で死なれて約40年後、ティトゥスによって率いられるローマ軍が、エルサレムを攻撃して没落させた。それ以来、洪水に押し流されるようにユダヤ人は流浪の民となり、世の終わりまで続くのである。こうして国は全く荒廃してしまったのである。
ダニエル書 千田次郎著 いのちのことば社
「戦いの終わりまで荒廃が定められている」とは、文字通り訳すと「その終わりまで戦いが続き、荒廃が定められている」です。
つまり「戦い」はなくならないということです。終わりまで続くのです。そして「荒廃」することは定められているのです。
私たちが生きている時代は、そのような時代なのです。残念ですが「戦いは続く」のです。戦争や戦争のうわさは絶えることはないでしょう。
AD70年ごろローマ軍がエルサレム神殿を破壊したことで、預言がすべて成就したののではなく、その預言は成就し続けているのだと私は考えています。
最後の1週に突入するまで、繰り返し、戦いは起こり、定められた荒廃に向かっていくのです。
異邦人の時が満ちるまで
さて、ダニエルの70週は、なぜ69週目で止まっているのでしょう?
それは簡単なことなのです。
思い出してください。何のために「70週」が定められているのかを。
70週は「イスラエルの民」と「エルサレム」についての預言です。
69週目までは過ぎ去りました。それは、イスラエルに関係のある時間でした。
とすれば、今、その「時が止まっている理由」は、普通に考えるなら「イスラエルのための時ではない」からということになりますね。
「異邦人の時が満ちるまで」とイエス様は言われました。
「異邦人の時」というものがあるのです。そして、それは「満ちる」つまり「終わる」時が来るのです。
私たちは今、この「異邦人の時」に生かされています。
今「イスラエルの70週」が止まっている間は「異邦人の時」なのです。
私たちは「恵みの時」「救いの日」を与えられています。これは「奥義」であるとパウロは言います。
ペンテコステの日に聖霊様が降られたことによって、使徒たちに旧約聖書に記されていることが開かれました。
預言者ヨエルは自分が何を預言したのか、はっきりと分かっていなかったでしょう。しかし、ペテロには、御霊によってその意味がサッーと照らし出されたのです。
パウロにも「キリストの奥義」が啓示されました。
「異邦人の時」に、異邦人は「エルサレムを踏み荒らし続ける」でしょう。しかし、あわれみ豊かな神は、この時を「異邦人の救いの時」ともしてくださったのです。
ですから、この奥義を悟ったパウロは懇願しているのです。
愛する兄弟姉妹。
今は、恵みの時なのです。今は、救いの日なのです。
イエス様が天に昇られてから約2000年、主は、時をいたずらに延ばしておられるのではありません。主は、恵みを注ぎ続けておられるのです。
主の恵みは尽きることがありません。主は「よし」と思われるまで恵みを注ぎ続けてくださいます。
しかし、覚えてください。
主が「よし、ここまで」と言われる日は来るのです。それは必ず訪れます。
私たちは、それが「いつ」であるかを探り出そうとする前に、この恵みを無駄にしない生き方を吟味すべきなのです。
今、私たちは、昔の預言者たちがうらやましいと思う時代に生かされています。
私たちは、イエス様の救いにあずかりました。そして、それだけではなく、御霊が注がれました。そして、さらに「うちに住まわれる方」として聖なる神を知ることができるのです。
この恵みを決して無駄にしてはならないのです。
それから終わりが来ます
異邦人の時はいつ終わるのでしょう?
イエス様は言われました。
福音が「全世界に宣べ伝えられ、すべての民族に証しされ」たら終わりが来ます。
イエス様は、多くの前兆を語ってくださいました。
多くの人の愛が冷えること。
偽預言者が多く現れること。
戦争や地震や飢饉が起こること。
それらのことに対して、私たちができるのは「惑わされず、忍耐すること」です。
唯一、私たちが関与できることは「御国の福音を証すること」だけなのです。
この箇所を読むかぎりでは、その日の「到来」を早めることができるように思えますね。
私たちは、イエス様が早く戻ってきてくださることを望みます。そのためにも、ますます「福音が宣べ伝えられる」ように励みましょう。
奧山 実師が興味深いことを言っておられます。
ところが、ここに一つの問題があります。「では、どの程度、伝道したら福音を聞かせたことになるのか」という問題です。トラクト(キリスト教のパンフレット)を渡すとか、テレビを見ただけでいいのか、それとも徹底的に個人伝道することか、などです。私の答えは「どの程度」などと言うことは「主がお決めになる」ことであって、我々はすべての人を目指して、伝道してゆけばよいのだ、というものです。~中略~
こちらは「まだ足りない」と思って一生懸命に伝道している時に、主イエスがおいでになるのです。だから「働いているところを見られるしもべは幸いだ」と主イエスは言われました。
世の終わりが来る 奧山 実著 マルコーシュ・パブリケーション
心から「その通り」と私は思っています。
私たちは、主が来られるまで、精一杯に福音を宣べ伝えましょう。精一杯に祈りましょう。
そうして、主にお会いした時「よくやった。良い忠実なしもべよ」と言われようではありませんか。
最後の一週、イスラエルは「反キリスト」を受け入れます
この「彼」が「反キリスト」であることには「異論」はないでしょう。
時々、この「彼」をイエス様であるとする解釈も見かけますが、それでは、その後の説明が破綻するように思います。
まあ、ここは「反キリスト」として解釈して間違いないでしょう。
確かに、世の中には多くの「反キリスト」が現れています。
歴史を振り返ってみても、多くの「独裁者」と呼ばれる人物が現れました。彼らの中のある人々は「ユダヤ人」を明らかに毛嫌いしていましたし、実際に大いに苦しめた人も存在しました。
しかし、本当の終わりの時、本物の「反キリスト」が登場するのです。
彼は「多くの者と堅い契約」を結びます。
多くのイスラエルの民が「反キリスト」と契約を結びます。
なんやかんやと上手に言いくるめるのでしょう。
イエス様が言われたようになります。
おそらくですが、イスラエルは、メシアとして「反キリスト」を受け入れてしまうのだと思われます。
本物のメシアであるイエス様を排除して、偽メシアである「反キリスト」を信じてしまうのです。
「多くの人」と記されているので「全員」「すべての人」が契約を結ぶわけではなさそうです。しかし、大多数の人が「反キリスト」と契約を結びます。
この契約は「イスラエルの民」と「反キリスト」の契約です。黙示録の「獣の刻印」とは別のものであることを覚えていてください。
「反キリスト」は、どのようにしてかは分かりませんが、エルサレムに神殿を建設することができるようにするのだと思います。あるユダヤ人のグループは「メシアが来て、神殿再建の指揮をとられる」と信じているそうです。
彼は、その昔、イエス様の時代の人々が望んでいたとおりの「メシア」の姿で現れます。つまり、彼は「政治的なメシア」として登場します。「イスラエルのために国を再興する人」であると期待されるのです。
確かに、中東情勢を考えれば、そこに平和をもたらし、しかも、平和裏にエルサレムに神殿を建設させたとすれば、それこそヒーローです。イスラエルの民はもちろん、世界中の人が熱狂するでしょう。
しかし、イスラエルの喜びの日々は束の間です。
その後の三年半、彼らはかつてない苦難を味わうことになるのです。
最後の半周のとき「偶像礼拝」が強要されます
「反キリスト」は、堅い契約を結んだ三年半後に「悪の化身」である正体を現します。「堅い」と思われた契約は、いとも簡単に破られます。
最後の半週、つまり、一時と二時と半時と呼ばれる期間です。
神殿が建設されて、再び回復された「いけにえの制度」をやめさせます。
「反キリスト」は「時と法則を変えようと」します。
もしかすると「いけにえの制度」や「ユダヤの祭り」を変えようとすることを表しているのかもしれません。
ソロモンの時代の後、イスラエルは「分裂」しました。「北イスラエル」と呼ばれる10部族は「ヤロブアム」によって治められますが、その当時の出来事が繰り返されるだろうと予想します。
ヤロブアムは「民の心」を自分に引き付けておくために、偶像礼拝をさせました。
エルサレムに上って行かないように、ベテルとダンに祭壇を造り、金の子牛を置きました。
そして「イスラエルよ、これがあなたがたをエジプトから連れ上った神だ」と言ったのです。これがこの後、ずっとイスラエルに付きまとう「ヤロブアムの罪」の始まりです。
終わりの時、反キリストは「律法」に定められたことを廃止したり変更したりするでしょう。
祭りの「時」を変えて、自分の「勝手に考え出した日」を制定するでしょう。
そして、神殿で拝むように強制されるのは「金の子牛」ではなく「獣の像」です。反キリストは「世界中」に自分の像を拝ませますが「エルサレム神殿」にも自分の像を置くのです。
このことを踏まえてた上で、続きの個所を読んでいきましょう。
荒らす者が現れる
何のことやら全く分かりませんね。口語訳も同じような翻訳がされています。
以前の新改訳を参照してみます。
こちらは「荒らす憎むべき者が翼に現れる」と記されています。
そして、欄外注釈には、翼は「七十人訳では、神殿」と書かれています。
イエス様はこう言われました。
「忌まわしいものの翼の上」が何を意味するのか正確にはわかりません。もしかすると「忌まわしい者が建てた神殿」という意味なのかもしれません。
正確な意味は分かりませんが、イエス様が言われたことからすると「荒らす忌まわしいもの」が聖所に立つのだなということは理解できます。
「反キリスト」が「最後の半週」で行うことを思い出して当てはめてみるならば、エルサレム神殿で偶像礼拝がなされることだろうと理解できます。
アンティオコス4世・エピファネスがしたような残虐行為が繰り返されるのかもしれません。
「読者はよく理解せよ」とわざわざ記されているのですから、私たちは「よく理解する」必要があります。とにかく、イエス様が言われたことを真剣に受け留めて、しっかり考え続けなければなりません。
具体的には分かりませんが、どのような形であれ「反キリスト」が「自分を神」とするのは明らかです。
「不法の者」とは「反キリスト」のことです。
彼は「自分こそ神であると宣言して、神の宮に座る」のです。
しかし、その傲慢な行いにも終わりは来ます。
「ついには、定められた破滅が、荒らす者の上に降りかかる」のです。
この「不法の人」とか「反キリスト」と呼ばれる人物には「定められた破滅」が待っているのです。
「反キリスト」は、破滅に向かって進んでいます。偽預言者も同じ運命です。そして、サタンも千年の後、彼らと同じように「破滅することが定められて」いるのです。
すべてが御手の中にあります
「定められた破滅」という御言葉に、私は感謝しています。
「なぜ、悪が栄えるのか」との疑問は、ずっと昔から人々の心に変わらずあります。
詩篇の記者アサフも言います。
どうして「悪者が栄えるのか」「なぜ、悪者が罰せられないのか」とアサフも思い悩んだのです。
アサフがその悩みを解決できたのは一つのことを悟ったからです。
アサフは「悪者」の最期を悟ったのです。悪者の最期は「瞬く間の滅び」です。
主は、すべてをご存じです。今、私たちが感じている「不公平感」も知っておられます。
覚えてください。
最期は「定められている」ことを。
確かに、理解できないことが起こります。どうして、神はこのようなことを許されるのかと思うかもしれません。
しかし、私たちを苦しめるすべてのものは「必ず報復される」のです。
確かに「終わり」は来ます。
「終わり」とは、「不法の人」たちにはとっては「滅びに向かって」進むことです。
しかし、私たちにとって「終わり」とは、新しい「始まり」に向かうことです。
敵は「夜の中」を「暗闇」に向かって進みます。彼らは「夜」が続けば良いと思うでしょう。
しかし、かならず「夜」は終わって「朝」は来るのです。
覚えてください。主の時は「夕」に始まることを。
私たちは「夜」を超えて「夜明け」に向かって進みます。そして、永遠の光の中に飛び込むのです。
恐れずに進みましょう。イエス様から目を離さずに歩みましょう。
祝福を祈ります。