【マタイ6:11】
私たちに日ごとの糧を、今日もお与えください。
日ごとの糧をお与えください
「日ごとの糧」とは、別訳では「必要な糧」です。イエス様は、私たちが「必要とすること」を求めるように言われました。主は、人に「求める」ことを望まれるのです。
「日ごとの糧を、今日もお与えください」との祈りは、私に「天からのマナ」を思い起こさせます。私たちの歩みは、イスラエルがカナンの地に向かうまでの荒野の旅に似ています。私たちも天の御国を目指す旅の途中だからです。
今回は、このイスラエルの荒野の旅から学びたいと思います。そこにある神様の思いを一緒に考えていきましょう。
「何だコレ?」と言いながら歩みます
イスラエルは荒野を旅している間、「天からのパン」で養われました。
それは、毎日、天から降ってきたのです。
イスラエルの人々は、天から降って来たものを見て「これは何だろう?」と言いました。
彼らは、今までそれを見たことがなかったからです。
「コエンドロ」とは、欄外注釈によると「あるいはコリアンダー」と書いてあります。つまり、「パクチー」の種ということです。まあ、そのようなものであったということです。
イスラエルは、その種のようなもので、薄焼きパンのようなものを作って食べたのです。蜜を入れたような味ということなので甘い薄焼きパンができたのでしょう。
イスラエルの人々は、それを「マナ」と呼びました。
「マナ」とは「何?」という意味ですから、彼らは毎日、「これは何だろう」「何だコレ?」と言いながら食べたのです。
面白いですね。
荒野の旅とはそういうものなのです。主とともに歩む旅路は予測不可能なことが起こるのです。
主は、私たちの必要をすべてご存知です。ですから、必要なものはすべて与えられます。しかし、それは、もしかすると私たちが思ったような方法では与えられないかもしれません。
イスラエルは「パン」とは「麦粉」で作るものだと思っていたでしょう。そして、それは、「地から生じる」ものであると普通は考えます。麦を手にれるためには、実らせるか、買うか、奪うかしかありません。
いずれにせよ、それは「地」において手に入れなければならないものです。
しかし、主は「天からパンを降らせる」と言われたのです。
ここに荒野の旅の醍醐味と厳しさがあります。
私たちは、主が「全能の主」であり「不可能のない方」であることを信じています。また、主のお考えは、私たちの考えより高く、はるかに優るということも信じています。
しかし、本当に信じているのでしょうか?
「必要をお与えください」と主に求めるとき、私たちの思いはどこに向いているでしょう。
私たちは「地から生じるもの」に目を向けていないでしょうか?
私たちは「必要なもの」が「天から降ってくる」ことを信じて待ち望んでいるでしょうか?
私たちは、主を心を尽くして信頼せねばなりません。私たちが「地から生じるもの」にのみ目を向けているならば、神様の奇跡を日々、味わうことはできないでしょう。
覚えてください。
「マナ」は毎日、天から降ってきたのです。6日目には二倍集めたのです。
それは「奇跡」ではありませんか?
イスラエルは、慣れてしまったのでしょうが、それはカナンの地に入るまで40年間も続いたのです。
私たちの人生にも「マナ」は与えられます。
私たちの必要も必ず「天から降って」来ます。
それは、どのような必要であってもです。
生きるために「必要」であるものは「すべて」与えられます。
ただ、私たちが思っているものと違う方法、違う形で与えられるかもしれません。予期しない方法で、予期しない形で与えられるかもしれません。私たちが見たことのない、考えたことのないものが与えられるかもしれません。
天から降ってくるのは「マナ」なのです。私たちは「何だコレ?」と言いながら御国まで歩むのです。
それは、少し不安ですが、きっと面白い歩みになります。
日本中の聖徒が、毎日、奇跡を体験すればいいのにと思います。小さな奇跡と呼ばれるものが、アチラコチラで起こるべきだと思うのです。
すべての必要を本気で、主に求めていくならば、必ず、毎日、奇跡が起こると私は信じます。
主があなたの「必要」を満たしてくださいますように。
そして、毎日、天からの「何だコレ?」があなたに起こって、毎日、主の御わざがあがめられることを切に願います。
荒野に導かれるのはナゼか?
主がイスラエルを「天からのパン」で養われた理由は何でしょうか?
主は、イスラエルをマナによって養われましたが、それは言い換えるとマナしかなったということです。
もちろん、ウズラが飛んできたり、その他にも食べる物は与えられていたかもしれませんが、毎日、必ずあるのは「マナ」だけでした。
荒野の旅では、主の奇跡を日々味わえました。しかし、イスラエルにとっては楽しいことばかりではなかったようです。
彼らは苦しみを味わい、飢え渇きを経験しました。
それは「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の御口から出るすべてのことばで生きる」というこを彼らが悟るためでした。
イエス様は「日ごとの糧」を求めるように言われました。
それは、言い換えるなら「主以外に必要を求めてはならない」ということです。
荒野は試練の場所でもあります。イスラエルは荒野で試されたのです。
荒野での試練は、イスラエルの「心のうちにあるもの」を知るためでした。
もちろん、主は「イスラエルの心」を知っておられます。「心のうちにあるもの」を知る必要があるのは「イスラエル自身」です。
いつも言われるように「テスト」は先生のためではなく生徒のためにあるのです。
「地から生じるもの」を見ている限り、必要を日々祈り求めるのは、とてつもなく辛いことです。
イスラエルが何度も不平不満をつぶやく気持ちも分かります。
日々の必要がどこから与えられるのだろうと辺りを見渡しますが、まったくその気配すら感じられないということがあるのです。「地から生じる」と思い込んでいるので辺りを見渡すわけです。そして、何も起こらないので失望してしまうのです。
そして、その失望は不平不満を生みだします。不平不満が怒りに変わることもあります。
思うように物事が運ばないとき、必要が満たされないとき、私の心には「不平不満」が満ち溢れました。
辺りを見渡しては、他の人をうらやんでばかりいました。あの人も、この人も、必要が十分に満たされているのに、なぜ、自分は満たされないのか?と思ってしまうのです。
毎日、経済的なことを祈るのが嫌になりました。単立の教会でなければなぁと思ったり、もっと大きな教会に行けば良かったかなと思ったりしてしまうのです。
口からは「つぶやき」しかでてきません。畏れ多くも、神様に対して「怒り」を感じました。
そのとき、私は自分の心のうちを知ったのです。
荒野でのイスラエルのつぶやきを読むと、心が痛みます。まったく自分と重なるからです。
私のうちにあった「不信仰」を主は明らかにされました。私は、もちろん「偶像の神」を拝むことはしないけれど、しかし、主だけに寄り頼まず、自分の力や「地から生じる」ものに頼っていることは「偶像礼拝」と同じ罪であると示されたのです。
厳しいことばですね。しかし、その通りなのです。
「心が主から離れている」ということを、主は問題にされるのです。
まさしく、私の問題もそれでした。
救われたばかりのころ、何も持っていなかったけれど心は喜びで満ち溢れていました。
毎日、必要を祈り求めることは「苦」ではありませんでした。主がともにおられることが嬉しくて楽しくて、それだけで満足だったのです。
状況は何も変わっていません。ただ責任を感じることが増えただけです。そして、私はその責任を自分が負うしかないと思い込んでいただけなのです。
「肉なる者を自分の腕」とした瞬間から、私の心は「主から離れて」しまったのです。
解決方法は、ただ一つしかありません。
それは、もう一度、主と荒野を歩くことです。
主は荒野に誘われます
ホセアの時代、イスラエルの心は完全に主から離れ去っていました。
彼女とはイスラエルの民のことです。イスラエルは「バアルの神々」を拝み仕えました。
「このわたしを忘れた」とのことばに、悲しみと痛みを感じます。
主はイスラエルに言われます。
主は、イスラエルを荒野に誘われます。
それは、「若いころのように、エジプトの地から上って来たときのように」イスラエルに答えさせるためです。
若いころのイスラエルとはどのようであったのでしょう。
「婚約時代の愛」とは、別訳では「花嫁のときの愛」です。つまり、若いころのイスラエルとは「花嫁のときの愛」をもったイスラエルのことです。
荒野でのイスラエルは「不平不満」をつぶやいていましたが、それでも「主の花嫁」でした。
主は、荒野の時代を懐かしく思っておられるのです。
イスラエルは、主の特別でした。生ける神の「律法」を持つ唯一の民でした。荒野において、主はイスラエルと契約を結ばれたのです。
イスラエルを特別な民とする証は、「臨在」と「律法」です。
主は、会見の幕屋に臨在してくださいました。イスラエルとずっと一緒に歩まれました。昼は雲の柱、夜は火の柱で、その臨在を現わし続けてくださいました。
イスラエルの民は、いつでも主の臨在を見上げることができました。幕屋を中心に滞在し、幕屋を中心に移動しました。
主は、その時代を懐かしんでおられるのです。
頑固なイスラエルの民ですが、呼べば答えるところに常にいました。彼らは、毎日、主により頼み、毎日、天からのマナを食べていました。
「心が主から離れた」「主を忘れた」者に、主が望んでおられることは一つです。
「その場所で彼女は答える。若いころのように、エジプトの地から上って来たときのように」
主が呼ぶときに「答えて欲しい」ということです。
ゆえに「もう一度、一緒に荒野を歩こう、あの時のように」と言われるのです。
荒野で頼れるのは、主ただお一人です。
荒野には何もありません。
「天から降って来るパン」を待ち望むしかありません。
主は、それを望んでおられるのです。
「私たちに日ごとの糧を、今日もお与えください」と見上げて欲しいと思っておられるのです。
主とともに生きることがすべてです
罪の本質は「自立」であると言った人がいます。ある意味においてその通りだと私も思います。
人は神から離れて生きるようには造られていないのです。
人は常に神から供給されて生きるべき存在なのです。
イエス様は、ご自身を「ぶどうの木」とし、私たちを「その枝」に例えられました。
これは、主と私たちが「一つ」であるということを教えているわけです。
枝は木から離れては生き続けることはできません。ある程度は保たれるでしょうが、必ず枯れます。
そこには「いのち」がないからです。
イエス様は「いのちのパン」です。天から下って来られて「いのち」を与える方です。
この方と「一つ」であれば、私たちは常に「いのち」に満ち溢れるのです。
主が望んでおられることは変わりません。
主は、イスラエルとともに歩まれました。彼らは臨在の象徴である幕屋とともに移動しました。
イエス様は身体という幕屋を地上に張られ、弟子たちと歩まれました。
「住まわれた」とは直訳すると「幕屋を張られた」です。
そして、今、私たちは「聖霊の宮」です。
主は、いつでも、どの時代であっても、私たちとともに歩みたいと思っておられるのです。
私たちは、常に「聖霊」とともに歩んでいます。私たちは飢えることも渇くこともありません。生ける水が心の底から流れ出ます。
主とともに生きることがすべてです。それがすべての解決なのです。
必要はすでに備えられています
「日ごとの糧を今日もお与ください」と祈るときは、「地から生じるもの」を見てはいけません。
それらはすべて「天から降って」きます。
「日ごとの糧を今日もお与えください」とは、主から奪い取るための祈りではありません。
私は、時々、あまりにも必死で、主から「必要なもの」を奪い取ろうとしてしまいます。まるで、主が私から「必要なもの」をわざと遠ざけておられるかのように祈ってしまいます。
主は、そのような祈りをする私に言われました。
熱心な祈りに見える「不信仰の祈り」には要注意です。私は、もっと主を信頼せねばなりません。
私のうちにおられる御霊をねたむほどに慕っておられる方が、その宮とされた私自身をなおざりにされることなどあるでしょうか?
主は、さらに恵みを与えてくださいます。それは、うちにおられる御霊のゆえにです。
私たちは、この方から決して離れてはなりません。主から心を離してはいけません。
「地から生じるもの」は、あなたにいのちを与えません。いのちは「主と一つ」であることから供給されるのです。
心配する必要はありません。「日々の糧」は、すでに備えられています。あとは、主の方法で「天から降らせて」くださるのを待つだけです。
日々の必要は、主の方法で与えられることを受け入れましょう。
それが「天から降って」くることを期待しましょう。
私たちは、主とともに荒野を歩きましょう。
主の呼ぶ声に、すぐに反応できるように、一心に見つめていましょう。
あなたが日々、「何だ、コレ?」という不思議に出会うように祈ります。
主とともに歩む喜びを味わえるように祈ります。
「日ごとの糧を今日もお与えください」との祈りは、「主よ、あなただけに寄り頼みます」という告白であることを、どうぞ忘れないでください。
毎日、「あなたとともに生きます」と告白してください。主は、あなたと歩くことを楽しみにしておられます。
祝福を祈ります。