ガラテヤ5:22~23
しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、柔和、自制です。
物と事を見つめながら我慢するのはやめなさい
ダビデには自制が必要だったのです。
ダビデは、バテ・シェバのことを調べるべきではなかったのです。
この時点ですでにダビデの心は決まっていました。彼は、自制心を働かせることを拒否したのです。その結果は私たちの知っているとおりです。
ダビデは不義の証拠を隠滅するために、バテ・シェバの夫であるウリヤを戦場から呼び戻します。しかしウリヤは、ダビデとは反対に同胞を敬い、自制心を働かせることを選びました。その結果、いのちを落とすことになるのです。
ダビデの罪は重大です。主は、ダビデを赦してくださいましたが、ウリヤは戻って来ません。これらのすべては、ダビデが「自制心を欠いた結果」なのです。
私たちは、ダビデがどうすればよかったのかと「あれこれ」考えます。「戦いに行くべきだった」とか「夕方まで寝ていたのがいけなかったのだ」などと言います。
しかし、いくら周囲の状況を整えたとしても、ダビデの内に膨れ上がる欲は、いつの日かその思いを遂げたはずです。
問題は、常に「外側」ではなく「内側」にあるのです。
「自制」という御霊の実は、あまり人気がないようです。「愛」や「喜び」のようにきらびやかな響きはありません。「親切」や「誠実」のように優しさを身にまとうような心地よさもありません。
「忍耐」と「自制」は、本当に「地味」な印象ですね。しかし、この二つの御霊の実こそ聖徒の人格の屋台骨なのです。
しかし、私は時々、自制が御霊の実であることを忘れてしまうようです(笑)
自制とは「自分の感情や欲を抑えてコントロールすること」だと辞書には載っています。
ゆえに、私は辞書の意味の通り「自分で抑えよう」と頑張ってしまうのです。つまり「我慢」しようと頑張るのです。
けれど、パウロは「自制」とは「御霊の実」であると言っています。
「実」とは何でしょう?
「実」とは、その木につながっているならば「自然に結ぶもの」です。
もし、ダビデが、その日、自分で告白していたように「目の前に主を置く」ことをしていたなら…
夕方に起き出そうが、夜中に起き出そうが、寝床から出た瞬間に「主よ、愛します」と言っていたなら…
その「物と事」を見続けたまま、自分に「我慢」を強いるのはやめなさい。それは、無駄な努力だからです。
「物と事」から目を離し、主を見つめなさい。
自制は御霊の実なのです。ぶどうの木につながっていれば、必ず、実を結ぶのです。
私は目の前に、主を置きます
目覚めた瞬間に、主を呼びます
御霊の実を豊かに結ぶ者としてください

