黙示録18:21
また、一人の御使いが、大きいひき臼のような石を取り上げ、海に投げ込んで言った。「大きな都バビロンは、このように荒々しく投げ捨てられ、もはや決して見出されることはない。
地の商人たちは泣き悲しみます
さて、私たちはおごり高ぶる大バビロンが一日にして滅びるのを見ます。
終わりのとき、世の人々は「大きな都」が突如として崩壊するのを見て驚くでしょう。
地の王たちは「胸を打ち叩いて」悲しみます。しかし、それは哀悼の意ではありません。
彼らは、もはや彼女と一緒に「ぜいたく」をすることができないことを嘆いているのです。彼女と関係が深かった権力者ほど嘆く度合いは大きいでしょう。
地の王たちは「遠く離れて立って」います。
嘆いてはいますが、誰も彼女を助けようとはしません。助けたくてもできないのかもしれません。彼らは、その災害に巻き込まれないように「遠く離れて」見ていることしかできないのです。
彼らは「あなたのさばきは一瞬にしてなされた」と言っています。彼らも「大バビロン」の不正は重々承知していたのでしょう。このような悪事にはいつか天罰が下ると思っていたのかもしれません。
地の王たちは嘆き悲しんでいますが、どこか「他人事」のようにも思えます。彼らは、自分たちの行いを悔い改めることはしません。自分も同じさばきを受けるのだとは、まったく思っていないのです。
愛する兄弟姉妹。
私たちは、このことを深刻に受け留めましょう。聖徒はみな「神の御怒り」を受けるようには定められていません。あなたは「御怒り」から救われています。しかし、それでも「神のさばき」を遠巻きに見るようなことをしてはなりません。
パウロが言う「彼ら」とは旧約のイスラエルのことです。昔、起こったことが聖書に記されているのは、私たちが「教訓」とするためです。
そして、未来に起こることが黙示録に記されているのも、同じ理由だと私は思うのです。
大バビロンのさばきを「他人事」と思ってはなりません。私たちは彼女に下された「神の怒り」を恐ろしいと感じる心を失くしてはなりません。聖徒はみな、彼女の罪と関わりをもってはならないのです。
地の商人たちの悲しみは、地の王たちの悲しみよりも「切実」かもしれません。それは、自分たちの生活に直結するからです。地の商人たちは、大バビロンのために多くの商品を仕入れているでしょう。彼らは莫大な在庫を抱えることになります。そして、その彼らの商品を買う者は、もはや誰もいないのです。
ありとあらゆる高価な物が、大バビロンに持ち込まれています。「人のいのち」と記されているのを見ると衝撃を受けますね。彼らは「いのち」さえも売買の対象にしているのです。今すでに、私たちの知らないところで、このような売買は行われています。しかし、もしかすると、終わりのときには、今より、もっと活発に「人のいのち」が売り買いされるようになるのではと思うのです。
すべてが消え失せます。
「目の欲」「肉の欲」「暮らし向きの自慢」は、すべて消え失せるのです。それらはみな空しいものです。
消え失せるものに固執しても「失望に終わる」だけです。
イエス様に信頼する者は、決して失望させられることがありません。
口語訳では「失望に終わることがない」と訳されています。
今、目の前に「大バビロンの富」が光り輝くように見えていても、それに信頼する者は必ず失望に終わります。
今、あなたの手には「何もない」ように見えたとしても、それは「終わり」を意味しません。
自分の人生には「何もない」と失望してはなりません。あなたが、イエス様を信頼しているならば「失望に終わる」ことは絶対にないのです。
大バビロンの富に拠り頼んだ者たちの希望は打ち砕かれます。彼らがイエス様に信頼しない限り、再び、希望を得ることはできないでしょう。地の王のぜいたくは終わりです。地の商人たちの商売も終わりなのです。
自分には「何もない」と言うのはやめなさい。周りをキョロキョロ見回して、他の人と自分を比べるのはやめなさい。確かに、あなたは「あの人」よりも「持っているものが少ない」のかもしれません。
しかし、あなたには「永遠のいのち」があるではありませんか。いのちを与えてくださる「神の子羊」が、あなたのうちにおられるではありませんか。
「世の楽しみよ去れ、世の誉れよ行け」と叫びなさい。「肉のおごり」も「世の誉れ」も御国にでは何の役にもも立ちません。
あなたは、決して、失望に終わりません。主は、必ず来られます。主にまみゆる日こそ私たちの最高の希望です。私たちは、上を見上げて歩みましょう。うちにおられるインマヌエルなる方と、顔を合わせて語る日を待ち望みながら生きましょう。
御霊によって礼拝することができる私たちは幸いです。
私たちは、ただキリスト・イエスを誇りとして歩みましょう。
石臼につけられて投げ込まれます
大きな都は「一瞬」で荒れ廃れます。
地に住む者たち、海に船を持つ者たちは嘆き悲しみます。
しかし、天は喜ぶのです。
「神があなたがたのために、この都をさばかれたのだから」とは、別訳では「あなたがたがこの都から受けたさばきを、この都に下されたのだから」です。
主は、すべての不正を覚えておられます。大バビロンが、聖徒たちを苦しめたことを覚えておられます。
何が起こるのか正確には分かりませんが、この都において、聖徒は確かに苦難に遭うようです。
この都の中には「聖徒たちの血」が見出されます。この時代の聖徒だけでなく、全時代の「屠られた人々の血」が見出されます。大バビロンは、この世のシステムそのものとして、形を変えながら、ずっと世界を支配してきたからです。
主は、すべての「犠牲になった人々」を覚えておられます。勝者によって使い捨てられたように見える人々の叫びを覚えておられます。
ゆえに「大バビロン」は、彼女が人を扱ったように扱われます。彼女が人を裁いてきたように、自らも裁かれるのです。
ですから、愛する兄弟姉妹。
自分で復讐してはなりません。それは、神がなさることです。
主があなたの悔しさを覚えておられることを忘れてはなりません。
主が、あなたのために「怒って」おられることを覚えてください。主は、あなたに「歯を食いしばって我慢せよ」と言っておられるのではありません。「神の怒りにゆだねよ」と言っておられるのです。
私たちは、ゆだねましょう。自分で「怒り」を発散させてはなりません。その「怒り」「くやしさ」を、主の御前に持って行きなさい。主は、あなたに「その怒りは、わたしが預かろう」と言ってくださいます。
私たちは「やり場のない怒り」を持て余す必要はありません。私たちは、自分の怒りを「神の怒り」に委ねることができるのです。
悪に負けてはなりません。悪に悪で返すのは「負け」です。悪には善を返しなさい。それが「打ち勝つ」ということです。
さて、少し脱線しましたね。話をもとに戻しましょう。
大バビロンは「ひき臼」のように海に投げ込まれると御使いは言います。
大バビロンは、もはや決して輝きません。人々が憧れた豊かな都は海に沈むのです。大バビロンに、喜びの歓声が上がることは二度とありません。それは、海の底に深く沈められ、もはや浮かび上がることは決してないのです。
エレミヤの預言が究極的に成就します。これは、二重預言ですが、大バビロンの滅亡によって完全に成就するのです。
大バビロンは「魔術」によって「すべての国々」を惑わします。
「魔術」とは「呪術」「オカルト的行為」のことです。しかし、ギリシャ語本来の意味は「薬を投与する」というニュアンスを含むものです。多くの場合、薬物や毒物、オカルト的な儀式を用いて人を惑わし、欺く行為を指します。
大バビロンは、さまざまなものを「混ぜ合わせた杯」を持っています。その杯は、人を「惑わす」のです。
「惑わす」とは「正しい道から外れさせる」という意味です。
人はみな、自分の弱さのゆえに「杯」に酔い、道を踏み外します。
しかし、イエス様は言われました。
「つまずきを与えるこの世はわざわい」であるとイエス様は言われます。
「大バビロン」こそは「すべての国々の民」を惑わした「元凶」です。大バビロンは「ひき臼」そのものです。
「お前の商人たち」と呼ばれる人々、すなわち、大バビロンの「混ぜ合わせた杯」を広めた人々は、首に大きなひき臼をかけられて海に沈むでしょう。彼らは、大バビロンという「ひき臼」とともに海の深みに投げ入れられます。私は、そう信じているのです。
大バビロンは「大きな都」です。彼女と呼ばれ擬人化されていますが、もちろん「人そのもの」ではありません。彼女と呼ばれていても、そこには「人格」などないのです。
「大バビロン」は確かに「罪深い都」です、しかし、その罪を犯しているのは「人間」です。
「誰か」が、この都のシステムを造り、また「誰か」がそのシステムを用いているのです。「誰か」がそのシステムによって「ぜいたく」にふけり、「誰か」がそのシステムによって「惑わされる」のです。
そして、どのような形であろうとも「彼女の混ぜ合わせた杯」に酔う者は「御怒りを招く」のです。
主の杯にあずかる者は、大バビロンの「混ぜ合わせた杯」を飲むことはできません。それは「御怒り」を招くことです。
あなたが「彼女の杯」にあずかるなら、あなた自身に「わざわい」を招きます。しかし、それと同時に、あなたの周囲の人を「つまづかせる」ことにもなるでしょう。
愛する兄弟姉妹。
私たちは、ただ一心にイエス様だけを見つめて歩みましょう。世の中が差し出す「杯」からは走って逃げましょう。それがどれほど魅力的であろうとも「バビロンの杯」にあずかってはなりません。
しかし、それは、聖徒は「何の楽しみも喜びも味わってはならない」と言うことではありません。
「神の国とその義を第一とするなら」すべての必要なものは与えられます。
あなたは、父なる神が「気前のよい方」であることを知らないのですか?
「必要なもの」が、いつも「ギリギリカツカツ」しか与えられないとでも思うのですか?
御父がいつも「我慢しなさい」と言われる方だと思っているのですか?
主は、あなたが「喜ぶ」ことを喜ばれます。イエス様は「良い方はお一人だ」と言われました。父なる神こそが「良い方」であることを信じなさい。
世がチラつかせる「楽しみ」や「喜び」など捨ててしまいなさい。それは確かに「一瞬」は楽しいでしょう。しかし、永遠には続きません。刹那的な喜びに生きるのは空しいだけです。
あなたが「世の楽しみ」「世の誉れ」を退け、御前に出ることを選ぶなら…
主の御前には、あなたが退けた以上の「楽しみ」と「喜び」があることを知るでしょう。
それは「満ち足りた喜び」です。「とこしえの楽しみ」です。
願わくば、あなたが「主の与えてくださる喜びと楽しみ」に満ちあふれますように。満たされた日々を過ごすことができますように。
シャロームを祈ります。

