No.659 光の中を歩んでいるなら

バラ園の黄色

Ⅰヨハネ1:7
もし、私たちが、神が光の中におられるように、光の中を歩んでいるなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます。

神には闇が全くないのです

使徒ヨハネが、イエス様から聞いた使信は「神は光である」と言うことでした。

Ⅰヨハネ1:5
私たちがキリストから聞き、あなたがたに伝える使信は、神は光であり、神には闇が全くないということです。

父のふところにおられたひとり子の神が「神は光であり、闇が全くない」と仰ったのです。

私たちは、そのことをよく考えてみなければなりません。

アダムは、光である方と交わりを持っていました。主なる神はアダムとともに歩いてくださったのです。

しかし、その交わりは断たれました。

なぜなら、アダムが「闇の中」を歩む者となったからです。

アダムが罪を犯したあとも、エデンの園には太陽の光が降り注いでいました。園はどこまでも明るく美しいままでした。

しかし、アダムとエバは暗闇の中にいました。

暗闇を歩く者の特徴の一つは「隠れる」ことです。

そよ風の吹くころ、主なる神はアダムを呼ばれました。

「あなたはどこにいるのか」

主は、暗闇の中にいる者を呼び求められますが、彼らとともに歩くことはお出来になりません。

互いに交わりを持つためには、互いが「光の中」にいる必要があるのです。そして、神には闇が全くないのですから、闇の中を歩み交わりを断絶するのは、いつも私たちの方なのです。

創世記3:10
彼は言った。「私は、あなたの足音を園の中で聞いたので、自分が裸であるのを恐れて、身を隠しています。」

アダムが身を隠したのは「自分が裸であるのを恐れた」からです。

罪を犯すと「恐れ」が生じます。それは、神への聖なる恐れとは全く別の恐れです。

それは「恥」を伴う恐れです。「うしろめたさ」の伴う恐れです。「拒絶」への恐れです。

闇は、私たちの目を見えなくさせます。闇は、本当の神の姿を見えなくさせるのです。

ですから、闇の中を歩む者は「想像の神」に怯えるのです。つまり、自分自身で「考え出した神」に恐れを抱いて隠れるということです。

アダムが園の木の間から姿を現した時、主なる神はどうされたでしょう?

確かにアダムもエバも、自らの罪を問われ叱責されました。

しかし、同時に、主は彼らの裸の恥を覆ってくださいました。

創世記3:21
神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作って彼らに着せられた。

光の中を歩みなさい。

それは「隠れない」ということです。

罪を犯してしまって「主の御前に出にくい」と思う気持ちは分かります。本当に、とてもよく分かります。

けれど、隠れたままでは「衣で覆われる」ことはできないのです。

イエス様の血潮は、すべての罪から私たちをきよめます。

しかし、それは「光の中を歩んで」「互いに交わりを持つ」ことが条件なのです。

主の御前に出て来なさい。暗闇の中で「想像した神」は、悪霊によって歪められた神です。

光の中に出て来なさい。そうすれば、主の限りない愛が明らかにされます。

覚えてください。

主イエスの血潮は、光の中でのみ有効なのです。

主よ、私は常に御前に出ます
私は光の中を歩みます
御子イエスの血は私をきよめます