黙示録17:5
その額には、意味の秘められた名、「大バビロン、淫婦たちと地上の忌まわしきものの母」という名が記されていた。
大淫婦の名前が明かされました
さて前回は、大バビロンの「外側」について学びました。
彼女は身なりは立派でした。美しく魅力的でした。手に持つ「金の杯」は多くの人を魅了します。世界中の人々が彼女に酔いしれます。
しかし、その中身は「忌まわしいもの」で満ちているのです。
使徒ヨハネは、この大淫婦¥・について、さらに語っています。
この「緋色の獣」に乗っている「大淫婦」には「名前」があるのだと使徒ヨハネは言います。
聖書における「名前」とは、そのものの「性質」を表わします。
ですから、この大淫婦の名前は彼女の「本質」を明らかにするものだと考えられます。
その「額」の名前は、以前は秘められていましたが、今は「明らか」にされました。
彼女の名前は「大バビロン、淫婦たちと地上の忌まわしきものの母」です。
恐らくですが…
彼女の名前は、誰が見ても明らかなはずですが、彼女の外見に惑わされ、彼女の杯に酔っている者には「秘められたまま」なのではないでしょうか。
主は「耳のある者は聞きなさい」と言われました。
そして、ご自身の「たとえ話」を弟子たちには解き明かされました。
同じように、大バビロンの奥義は明らかにされてはいますが、それを「見る目」のある人々にだけ、彼女の本質が分かるのだろうと思います。
終わりのとき、多くの人々は「明らかにされた名前」を見ているはずなのに、それでも「この女の淫行のぶどう酒に酔う」のです。もしかすると、彼らは「分からない」のではなく「分かりたくない」だけなのかもしれません。
私たちは、常に、イエス様に尋ねる者でありましょう。「心の目がはっきりと見えるように」いつも願い求める者でありましょう。
大淫婦の正体が明らかにされました。見た目がどのようであろうとも、彼女がいくら魅力的であろうとも、その実態は「大バビロン」であり「淫婦たちと地上の忌まわしきものの母」なのです。
彼女の名前の意味
では「大バビロン、淫婦たちと地上の忌まわしきものの母」という名前について考えてみましょう。
「バビロン」という名は、創世記からすでに登場しています。
ニムロデは、地上で最初の権力者でした。彼は「王国」を造ったのです。そして、その王国の始まりは「バベル」でした。
「バベル」とは「バビロン」のことです。
バビロンの創設者であるニムロデは、後に神格化され「偶像礼拝」の対象とされます。
聖書には、ニムロデが「神になろうとした」という記述はありませんが、多くの学者が「バベルの塔」を主導したのはニムロデだと考えているようです。彼は、自分の名を上げるための塔を建てようとしたのだと考えられます。
聖書の中でバビロンは、混乱の象徴として使われています。バビロン、すなわちバベルの地で人々は神に反逆し、天に届く塔を建てようとしたのです。
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バビロンは「混乱の象徴」です。人々は「異なることば」を話し始めました。人々はこの地から全世界に散らされたのです。
そして、彼らは散らされたとき「ニムロデ信仰」を携えて行ったのだと言われています。
ニムロデ信仰は、全世界の偶像礼拝の源だと言っても過言ではありません。
とても長くなるので、あまり詳しく説明はしませんが、世界中の古代宗教は「神々の名前」が違うだけで、どれも似通っています。
ニムロデは「太陽神」として崇拝されました。「太陽」を礼拝する国は世界中に存在しますね。日本もその一つです。ニムロデの妻は、彼の死後、「彼は死んではいない。太陽として、今も世界を支配している」と言ったそうです。
またニムロデは「戦いの神」として崇拝されました。人々は力ある狩人であったニムロデにあやかりたいと思ったのでしょう。
また彼の息子タンムズは「豊穣(復活)と死の神」として礼拝されました。エゼキエル書には、悲しいことに、イスラエルの人々が熱心にタンムズ礼拝をしている姿が記されています。
ニムロデの妻であったセミラミスは、夫の権威と自分の権力を維持するため、民衆に「ニムロデは死んだのではない。天に昇って太陽神(最高神)になったのだ」と宣言しました。この最高神は「バアル」とか「マルドゥク」などと名前を変えて世界中で拝まれています。
セラミスは、夫ニムロデの亡き後「一人で身ごもった」と主張しています。「死んで太陽神となった夫ニムロデの霊が、太陽の光線となって私の胎内に宿り、私を処女のまま身ごもらせた。だからこの子はニムロデの生まれ変わりなのだ」と主張したと言われています。(もちろん諸説あります)
このようにニムロデ信仰は、名前を変えて「世界中」に広がりました。バベルの混乱とともに広がったのです。
しかし、まあ、どこかで聞いたような話がありますね(笑)
『聖母信仰」というのは、古代から世界のあちこちで盛んに行われています。マリア信仰のずっと前から存在します。エジプトにもギリシャにもインドにも有名な「母と子」の偶像神話があります。
サタンは、よっぽど「救い主」の誕生を警戒していたのでしょう。「頭を踏み砕く子孫」の存在を恐れていたことは間違いありません。多くの似たような話を広めて、世界中を混乱させたのです。
さて、この大淫婦の正体が「大バビロン」であることは明らかです。ということは、終わりの日に全世界を魅了する「大きな都」の実態は「偶像礼拝の中心地」であると考えて間違いないでしょう。その「大きな都」は、全世界の「宗教の中心」となるのだろうと私は思います。
ここで疑問が湧きますね。その「宗教にキリスト教は含まれるのか」という疑問です。
「大きな都」である「大バビロン」は、主にある聖徒たちと証人たちを迫害するようです。
ですから、この「宗教の中心地」には、主にある聖徒、キリストの証人は一人も含まれていません。
しかし、恐らく「キリスト教」と呼ばれる宗教は含まれているでしょう。むしろ「キリスト教と呼ばれる宗教」がこの都の中心なのではないかと思います。
ただ「キリスト教」の形はしていても、その実は「まったくかけ離れたもの」であることは間違いありません。その他の異教の宗教とも手を結んだ「世界統一宗教」のようなものが誕生するのだろうと考えられます。
これは、個人的な意見ですが…
その「世界統一宗教」のようなものは、お互いの「違い」を尊重するという名目のもと「一つ」になるのではないかと思います。彼らは「みんな違うのだ。それぞれが良いのだ」と言って組織化されていくのではないかと思います。彼らは「多様性を受けいれる」ことを正当化し、それを「愛」だと主張するのでしょう。
そして、もし教会が「形」に捕らわれたままであるならば、この「統一宗教」に呑み込まれていくだろうと思います。バビロンの「混乱」は、今なお教会に影響を与えているのです。私たちは、その混乱に巻き込まれてはなりません。
彼女は、教会に入り込んだ混乱と無秩序を表しています。~中略~
キリストが死んだとき、神殿の幕が真っ二つに裂けたことは、今やキリストを通して、人が直接、神の御前に行けるようになったことを意味しています。人が神の御前に出るための条件として、キリスト以外に祭司、聖人、天使といった仲介者を全く必要としなくなったのです。神の目から見ればすべてのクリスチャンは平等です。神の教会にランクなどないし、ある人々が神により近くて、神の恵みを多く受けられるというようなことはありません。このように、神は完全な秩序を立てられましたが、人間が多くの混乱を招いてしまいました。キリストの死後、教会の機構は肥大化し、どんどん官僚的になっていきました。
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大切なことは「個人の信仰」であると私は思います。
「愛し合うこと」「一致すること」「平和を追い求めること」は、もちろん大切です。聖徒は「一つ」になるべきです。
しかし「個人の信仰」という土台がないままでなされる「一致」は「混乱」を生みます。
まず、私たち自身が「神の御子に対する信仰と知識」を身に着ける必要があります。
一人ひとりが「神の御子を信じ」「神の御子を知る」ことが必要なのです。
本当の「一致」は「その先」にあります。
愛する兄弟姉妹。
私たちは「神の御子」を信じましょう。イエス様に対する信仰を日々確かなものとしましょう。
私たちは「神の御子」を知ることを切に追い求めましょう。
あなたは、神の御子イエスを信じていますか?
あなたは、神の御子イエスを知っていますか?
キリストのうちに根ざすことこそ、大バビロンの混乱に巻き込まれない唯一の方法だと私は信じているのです。
大バビロンのもう一つの側面
ネブカドネツァル王は、バビロン帝国についてこう言いました。
つまり、ネブカドネツァルは「自分のために、自分の力で、自分で建てた」と言っていたのです。
「大バビロン」は「世界中に大きな影響を及ぼす都」です。
この都は「宗教の中心地」として全世界に影響を及ぼします。
そして、もう一つの側面は「繁栄の中心地」としての「大バビロン」です。
ネブカドネツァルが自分の帝国を「大バビロン」と呼んだのは、ただ「広い領地がある」と言う意味ではありません。このときのバビロン帝国は「その主権は地の果てにまで及ぶ」と言われるほど「強大な力」を持っていました。
終わりの日の「大バビロン」も同じように「絶大な権力」「強大な力」を持っていることでしょう。そして、それは「絶大な富」による「力」であると思われます。
世界中の商人たちが「大バビロン」を相手に商売をするようになります。
大バビロンに持ち込まれる商品の中に「奴隷・人のいのち」とあるのには驚くばかりです。
「宗教の中心地」としてあがめられる都の「実体」は、やはり「忌むべきもの」で満ちているのです。
終わりの時代は「困難な時代だ」とパウロは言いました。それは「狂暴な時代」と訳すこともできます。
人々は「自分だけを愛する」ようになります。そして「金銭を愛する」ようになります。「金銭を愛する」ことは、人を「狂暴」にします。それが「あらゆる悪の根」だからです。
大バビロンと呼ばれる都は「金銭を愛する都」です。「宗教」と「富」という忌まわしい構図が成り立つ都です。
獣(反キリスト)は、この都の絶大な影響力と膨大な富を利用し尽くすのでしょう。
「大バビロン、淫婦たちと地上の忌まわしきものの母」
大バビロンは、すべての偶像礼拝の源です。そして、また「すべての忌まわしきもの」の源でもあるのです。
そこには「あらゆる悪の根」があります。この都が「悪」を生む「母」なのです。
バビロンは、古代からずっと存在し続けています。滅びたかのように見えましたが「その悪」は、サタンによって着実に育てられています。今も、サタンは「バビロンの悪」を用いて、あわよくば聖徒すらも巻き込もうと目論んでいるのです。
サタンは、エバを誘惑した時から何一つ変わってはいません。
世界中に「反逆の種」を蒔き続けています。「自己愛」「自己義」の種を蒔き続けています。「バビロニアの悪」の種を蒔き続けています。そして、それらは着実に教会に根付き育っているのです。
サタンを通して、イースターのうさぎや色付きたまごを飾るなどのバビロニアの習慣が教会に入り込んだのは、サタンが神の民をだまし、異教の習慣や迷信のとりこにしようとしたからです。私は、イースターやクリスマスの楽しみを台無しにしようとしているのではなく、私たちは自分たちのしていることの意味も知らずに、古代の悪魔的神々を不注意にも礼拝しているのではないかということを言っているのです。キリスト教の休暇を祝う時には、イエス・キリストに焦点を当てて、聖なる日を主のためにささげたいものです。
黙示録の封印を解く チャック・スミス/デビット・ウィンビッシュ著 プリズム社
イエス様の本当の誕生日が「12月25日」でないことぐらい、聖徒はみな知っているでしょう。
復活礼拝の日に登場する「うさぎ」や「たまご」は「聖書のどこに記されているのだろう」と疑問に思ったことはありますか?
私たちは、知らないうちに「目をそらされて」しまっているのですね。
教会内の争いごとは、多くの場合「信仰には関係ないこと」が原因です。
今年のクリスマスのキャンドルは金色にするか銀色にするか…
今年の復活礼拝の「たまご」は、ペンで色を塗るかセロファンで包むか…
サタンは、私たちの目を「どうでもいいこと」に向けるのが得意なのです。
覚えてください。
敵は「眠っている間に」種を蒔いて行くのです。
私たちは目覚めましょう。ぼんやりとしている場合ではありません。寝ぼけている間に、敵はどんどん種を蒔いて行くでしょう。
目覚めていても「どうでもよいことに目を向け続けている」ならば、それは「眠っている」のと同じことです。「ぼんやり」している間に、サタンの種は「増え続けて」いくでしょう。
私たちは、今すぐに「目を覚まして」起き上がりましょう。
起き上がりなさい。
主が、あなたを照らしておられます。
光を見上げ、光の中を歩みなさい。
蒔かれてしまった毒麦をどうにかしようとするのはやめて、ただイエス様を見上げなさい。
そうすれば、光に照らされて、あなたがするべきことが分かります。
惑わされてはなりません。
「大きいもの」「強いもの」「美しく見えるもの」が「良い」とは限りません。
イエス様が「屠られた子羊」であることを忘れてはなりません。
「大きな竜」や「大きな都」は、あなたを小さくし、あなたのいのちを奪います。
しかし「子羊イエス」は、あなたに「大きな恵み」と「豊かないのち」を与えられます。
屠られた子羊に栄光あれ。
私たちは、イエス様から目を離さずに生きましょう。
シャロームを祈ります。

